私はこの財布を手放したいのだ

 

信号を渡って静かにその場所へ行く、考えてみるとまじまじと交番を見たことがない、私は冬の昼下がりに出頭している。
交番へ行くのもちょっとした決心が必要だった、盗みへの欲望があったことは確かだ、しかし裁かれたくない、裁かれたくないがために私は出頭している。
ぼんやりと曇ったように見えるガラス戸から中を覗き込む、すると殺風景な事務所の真ん中にある机の上にひとつの小さな立て看板があった。
【ただいまパトロール中です】
何がピーポだ、何がパトロール中だ、ふざけやがってという気持ちになり、携帯で警察官の一日と検索して彼等のルーティンを調べる、ザックリ2時間近くもパトロールしているのかと知って妙に腹立たしい気持ちになる。
室内はわざとらしいくらいに何も無い、舞台のセットみたいにわざと経年劣化をつけたみたいな風化の仕方をしている、ここで一芝居始まるような感じすらする。
仕方がないので立て看板の指示通りに、設置された受話器を取る。

 

どうされましたか?という声が聞こえたので私は言った、「お財布を拾ったのですけれど…」、私は電話越しの警察官から交番の人間がパトロール中であることを告げられて若干苛立ちを感じた、そんなことはもうピーポの野郎が立て看板で告げてきているのでわかっている。
私はこの財布を手放したいのだ。
何処か本部めいた場所に居るであろう警察官からの提案はこうだった…今ここで住所と名前を告げてくれれば後で交番勤務のお巡りをあんたの家まで使いにやって拾得物を取りに行かせる、とまあ大雑把に言えばこんな事を告げられ、私は戸惑った。
私は自分の氏名や住所といったものを明かさずにこの財布を手放したいのだ、足がつかないように手放したいのだ。
電話越しの警察官からの提案を断わりつつ訊ねる、「あのう、この交番の方はいつごろ戻られますか?」、何故かその質問が相手を刺激したらしい。
トロール中というのは周囲一帯を見回っている業務であって、何分後に帰る等とは一概に言えないのだという返答がある、じゃあ私はどうしたらいいだろうか?
「あのう、じゃあ私、ここにお財布を置いていきますよ」
電話越しの警察官がすぐさま叫んだ、盗まれます!!!、どうやら彼等は自分の縄張り内でヘマをするのが嫌、ということらしい。
「でも私、予定もありますので帰りたいのですけれども…」
その後暫く電話越しの警察官は何か手配しているらしかった、招かれざる客である私に対して、交番の人間にパトロールを中断して戻るよう要請してくれたようで、10分ほど待つようにと指示された私は従順に受話器を置いた。

 

改めて交番の中を見回すと、異様と言えば異様であった、コンクリート剝き出しの壁、脆い素材で出来た絶妙な建物…どうやらここは居抜きで交番になった場所のようだ。
現に昼飯抜きでこのような場所に居る自分を思うとやるせなくなった、そもそも落とし物を拾った時点でこうなる運命だったとも言える。
仮に私が何かセンセーショナルな罪と呼ばれる行為を犯してここに来たとして、それでもパトロール中という看板とピーポくんとやらのしたり顔を見ていたら踵を返すかもしれない、それくらい警官の居ない交番というのは間抜けな感じであった。

 

物事の詳細は省くが、私は財布を拾った、それを持ってバスに乗り込んだのだので…落とし物と最短距離であろうバスの車掌にそれを預けようとしたが受け取りを拒否された、どうやらそういうものらしい。
だがそれがバスの中での拾いものであったら彼等は受け取るのである。
私は、世の中の人々同様急いでいた、急いでいたというのは語弊があるがバスで行楽を楽しむという為にバスに乗車したわけではなく、予定があって乗り込んでいた。
当然、受け取り拒否された時には既に乗りかかっていて、後ろにも列が続いていた、無論その瞬間に踵を返して落とし物を元の場所に置いてもよかったかもしれないが、私は座りたかったしバスを逃したくなかった。
そういう理由…にならないような心理的作用で私は財布を手にしたままバスに乗り込んだ、その時に唐突に身体に熱さを感じた、怒りとも諦めとも幸福ともつかぬ何らかの熱であった。

 

落ちている物というのは持ち主から離れた時点で持ち主の観測を離れている、つまり落とし物は命を失っている。

 

私はゴミ拾いをたまにする、ゴミ拾いをするのは単に周辺環境が自分の縄張りだからである、自分の陣地を綺麗にしたいからするのであって、落ちている物の判別は私自身がする。
つまり、ゴミ拾いをする私がそれをゴミだと認識しているのでそれはゴミなのであって…泥だらけの靴下、雨水を吸った片方の手袋、数ヶ月前からある小さなポシェット、新聞、包装紙、お弁当箱、ペットボトル…私がそれをゴミだと認識するということと、それら物品が持ち主の観測下を離れたので命を失っている状態だということ、この二点が合致するのがゴミ拾いの妙であって、もし持ち主がその場に居合わせたら必ずしも私が連綿と拾っては捨ててきたゴミのうち全てが焼却炉に行くとは限らないだろう。

 

所有者が物品を認識、観測している時点では第三者がどう見ようがそれはゴミとは言い難く、所有者の物品を強奪したりスッたりする事は即ち「盗み」である。
持ち主が認識している物品というのは持ち主と命の共有関係にあると言っていい、そういうものを無理矢理引き剥がしたりしたら双方傷を負う。

 

一方で持ち主の認識を離れ、亜空間を漂う物品に命はあるだろうか?
命のあるなしはともかく、持ち主はその物品が無いという現状と全く平行して普通に生存していると言える。
よく、「なくした人が困っているから落とし物は拾ったらきちんとしかるべき場所へ」等と言う人が居るし、そういう忘れ去られた物品をいつまでも手すりにぶら下げたり、電柱に貼り付けたりする親切な人が居るが私には疑問である、それは私からすればゴミだからである。
そして言うまでもなく、持ち主がそのような物品を「忘れた」のでそれら物品がそこに放置されているのであって、持ち主はちっとも傷ついてなんかいないのである、傷というとご大層な感じがするが、要するに「忘れてしまえる程度のものなので持ち主の生命には無関係な物=忘れ物」という図式を私は思い浮かべるのだ。

 

土地を購入する際、M氏の口座から200万ほど引き下ろした現金を私は私の鞄に入れてしばらく、小一時間ほど先方を待った事がある。
此処で言う先方とは土地の前所有者の親族たちの事である、彼等を待つ間私は鞄のはしを絶えず握っていた、鞄の形状はショルダーバッグだったが、落としたら大変なのでささやかに手で札束の感触を確かめていた。
…重要な物というのはこういう物の事である。
コレがなくなったら一大事という物品の事である。
呼吸器が無いと死ぬ人間が居たとして、呼吸器を外してふらふら出歩いたまま呼吸器そのものを忘れて死にそうになる…等と言うことが起こるだろうか?(仮に起こるとしたらその人間は肉体を脱する事を望んでいるのだと思うが)
自分にとって重要な物というのは、それが失せてしまうと生き死にや日々の生活が変動してしまうという物である、それ以外の「忘れて」しまえる程度の物はそんなに重要なものではないのだと私には思えてならない。
それがお金であっても。

 

ちなみに私は物品への愛着はかなり強いほうである、失せたら困る物は持ち歩かないようにしているし、敢て外出用に予備を揃えておくくらい物品への愛着は強い。
物を忘れたりなくしたりしたらショックを受ける方であると思う、が、なくしたことはあまり無い、あるのかもしれないが忘れ物を忘れているのだと思う。
なくす物というのはそういう物である、仮になくしてショックを受けていてもそれは「盗られた」というのとは異なる。
あくまで自分が「忘れて」いたのである。
しかも「忘れて」いても、今尚自分自身は現存しているのである、物を忘れるというのはその程度の事なのだと私は思うのだ。

 

…という持論をいくら展開しようが、バスの中にバス停で拾った財布を持ち込んだ私は窃盗罪なのだろうか?
今、私は窃盗をしたということになっているのだろうか?
じゃあ、と思って座席に着いて携帯で調べてみた、これはバス会社の窓口とかに届けるべき案件なのか?
と思って窓口を見るが、用事を終えてから行くにしたっていちいち電車に乗ってそれからまたバスで乗り継いだような場所に窓口がある、しかもそれすら受け取ってもらえないだろう。
それでは用事を終えたら元のバス停までバスに乗って戻って、そこに財布をさりげなく置いてきた方がいいのだろうか?
その時周囲に人が居たら、どう考えても私は不審人物になってしまうだろう。
全て面倒くさい。
交番?
何故私が…?

 

ゴミ拾い者(しゃ)の持論としては、落ちている物は拾う物の判断によって価値が決められてゆく、である。
つまり落ちている物というのは、あくまで私はだが…拾って良いと思っているのである。
これは普通に言ったら正義感の強い良い子な人たちにはブーイングものだろうが、はっきり言って落ちている財布なんざ拾ってお金をパクっても全然良い、と私は思っている。
自分がやられても文句は言えない、だってそうでないと取捨選択の決着がいつまでもつかないし、そもそも落ちて忘れられているという時点でその物品は「死んで」いる、それを拾った人がどう生かそうがそんなものは天の采配であって人間如きが決める善悪を超越している…と私は思っている。

 

バスの中では目の前に座っている女が周りに人が居ないかのような様子で化粧している、不細工というわけでもなく、きっと職場ではそれなりに普通の常識的な人を演じているのだろうと思った途端、おぞましく感じ、何もかもが嫌になった。
目についた財布を拾って、中途半端な善人を演じようとした自分に強烈に腹が立ってきたのだ。
誰もが決着をつけることを避けているのだ、だったらもうこの財布の中身くらい私が貰ったって構うもんかと心の底までが一筋の色に変化したときに私は、携帯での遺失物取り扱いについての検索をやめ、財布を開くことにした。
いくら入っているだろう?
果たして私が…これを窃盗というのは自分では是とし難いが、半窃盗だったとして、それをするだけの「価値」のある金額だろうか?
いつも私がゴミと決めてきた物品、今度は私が価値を決めるのだ、半窃盗をするだけの価値のあるものか?
奇妙にも胸が高鳴った。
半窃盗、といういわば決着であった、自分で決着をつけられるだけの価値のあるものなのだろうかという事が私にとって重要だった。

 

『5万以上だったら貰おう、バスの運転手に受け取り拒否をもされたのだし、これは天の贈り物であって5万を忘れ去った持ち主よりも、5万円というものに…半窃盗というまでの価値と決着を見いだした私のものなのだ、有り難く使わせて貰おう』

 

いつもの公共の乗り物でのマナーを守る自分、ゴミ拾いをする自分も多少入っていたかも知れない、これで情夫がいなかったら一も二もなくかすめ取っていたであろう財布を、いざ開いた。
まるではじめから自分のものであったかのようにその財布を開いた。

 

まるではじめから自分のものであったかのようなその財布には、まるではじめから自分のものであったかのような金額しか入っていなかった。
1500円、しかも財布の中にはよくわからない小物やら、彼氏との小さい写真やらが細々と入っていてむしろ貧乏臭く、一瞬にして捨てたくなった。
財布の形状からしてもまったく私からは美点なるものは見いだせず、はっきりってゴミであった、もうゴミとして回収してそのまま翌週の燃えるゴミに出しても構わないんじゃないかとすら思った。
この1500円にしても、普段から少額しか持ち歩かない人なのではなくて、持ち主はカツカツでこの金額しか財布に入っておらず、それこそバス停留所で恥ずかしげも無くメイクする不細工だったに違いないという感じがした。
悲しくなるくらい冴えない女物の財布だった。

 

一気に暗転した私はこのような厄介な物は一刻も早く捨てたいと願っていた、私は物品が好きだがその分だけ、自分好みでないものはゴミであるという認識が強い。
こうなってくるともう素手でこのような財布を触ったということすら嫌になってくる…しかし用事もある。
結局用事を済ませてから私は交番までやってきたのだ、何だかんだで2時間以上も拾った財布を持ち歩いてフラフラしていたのである。
そんな自分が嫌だった、一刻も早く手放したかった。
確かに私は一時、この財布を盗ろうと思った、盗ろうというよりも…置き引きよりももっともっとソフトでライトな何か…天の采配で自分に巡ってきたのだという気持ちにもなったしそう感じている部分は少なからず在る。
よって未だに、落とし物からお札を抜いたとかそういう事をする人を特段悪いとは思わない、落とし物というのは落とした人間の采配で生じている漂流物だからである。
落ち葉は誰の物か?
サクラの花びらは?
犬の糞は?
宝石は?
札束は?
そうだよそうだよ私は浅ましい、声を大にして言おう、私は浅ましい!!!
だからこそ私はこの財布を手放したいのだ!!!
私はこれ以上自分を知りたくはないし、だから知らせたくもないのだ。

 

10分以上経って、まるで舞台セットのような交番に警官が到着した、私は財布を机の上に置いて立ち去ろうとした、警官は住所や名前は…とノートを出してきたが私は相手を制した。
「お礼とかそういうものはいいので、一切要らないので」
第一その財布から既にお金がすられていた場合、下手にそんなものに個人情報を記載したら完全な濡れ衣まで着せられかねないのだ、1500円の為に持ち主から盗人呼ばわりされるなんて御免蒙る。
しかし警官の前で一切の身分を明かさないというのは何だか、既に前科があるかのような感じにもなる。
だが警官の前で良い人打って身分を明かすというのだけは避けたい、何がピーポくんだぶざけやがって、何がパトロール中だ、こっちは昼飯抜きだぞ、こんな厄介な物を拾ってしまったせいで飯抜きだぞ。
一応、と警官は言って机の上でお金を広げた、1500円を数え上げてから私は拾得場所を教えた、バス停やら運転手の下りは割愛した、あの辺のバス停の辺りですという言葉に全てを集約させた。
その間、私は何となく警官の目が見れなかった、しかし全く眼を逸らしていても変なので意識して2秒ほど見たりして有り体な善人を演じ、心の中で言った、私は盗人です。


でも盗人が居ないと、世の中は綺麗にはなりませんでしょ、世の中は盗人がいないと漂流物だらけになりますよ、少なくとも盗人には決定するという役割はあるのです、と心の中で囁いた。

 

交番を出てきた私はさながら、出頭して待ちぼうけて出所してきたみたいだ。
ようやく冬らしくなってきた風景を見ながら私は肝に銘じた。

 

金輪際、落とし物には手を触れない。
金輪際、良い人ぶらない、と。