アーティストアレルギーと瞑想の話(長文注意)

 

私にはアーティストアレルギーなるものがあって、絵を描くくせにアーティストの作品やら彼等の人となりを見る事が出来なかったりする。
見る、と言っても特段現在アーティスト活動をしている人間と知り合いでも何でも無いし、生い立ちの関係にも居なかったし、美大などにも行かなかった(行けるわけ無かった)のでこれといって接点も無い、つまり私の言う「見る」とはネットを介してアーティストを知るという簡単な行為を指す。
若い頃ほどアーティストアレルギーが強く、とてもじゃないけれど故人でない画家の場合は作品すら観たくないというレベルだった、今にして思うとそれは一種の、自意識から来る嫉妬だったと言ってもいい。
もう若くなくなった気がするのでそろそろ、と思って今年はじめのうち情夫に連れられて個展的なものをチラホラ観た、「あまりにハイレベルなものを観て筆を折らぬよう敢て登竜門的な展示を見せる」という彼の計らいによって比較的穏やかなものを観たように思うが、穏やか過ぎて何故だか怒りが湧いた記憶がある、今にして思うとそれすらも一種の嫉妬だったと言ってもいい。
それからまたしばらくアーティストアレルギーがぶり返し、当てもなく描き上げた自作作品(らしきもの)は結局納戸に眠っているか、情状酌量の意味合いで件の情夫がそれとなく引き取って部屋に飾ってくれている。

 

教皇の祈りが通じたのか最近何故かアレルギー反応が軽くなり、偶然にも検索した絵画販売サイトで小一時間の間作品鑑賞に浸った、作品を鑑賞する分には大いに勉強になった、もう3度くらい生まれ変わらないと辿り着けない技巧という意味でも、こんなもんで良いのかという意味でも勉強になるのだが、アーティスト本人のプロフィールを逐一クリックしていったのは我ながらまずかった、さながら開けてはいけないパンドラの箱であった。
恥ずかしさの嵐、こいつらいい歳してありとあらゆるあまりにもしがない独自性についての主張を素で言っているのだろうかという疑問符がいくつもよぎり、何故か第三者が撮影したであろうポートレートだけがプロっぽくて作品そのものはたいしたことない場合に感じる異様な既視感。
要するに同族嫌悪である。
確かに皆様14歳くらいだったら十分に神童だったろうが、揃いも揃って私と同年代である、稼ぎ時の30代。
大変大きなお世話だがあと10年20年くらいしたらどうなるのだろうか、そういう人も何処かに沢山居るのだろうが如何せん取り扱われている場面が少ないので実社会からは打ち切られてゆくのだろう、確かに老いてダサくなった分だけ直視に堪えない。
そう、言うなれば私は私自身を死ぬまで直視し続ける自信が無い、こうして書いていることも含め、アーティストアレルギーを忘却しているときには大丈夫なのだけれどもアレルギー反応が出てしまうと発作的に全部ゴミに出したくなる、作品も、文章も。
快楽ほど苦しく恥ずかしいものは無いからだ。

 

ああ私の人生は、同族嫌悪にまみれているのだと、他人を観ると非常に強く感じる、大多数の他人はあまりにも他人過ぎるのだが自称宇宙人的な他人を観ていると元居た星でも思い出すかのような凄まじい気恥ずかしさに悶える時がある。
この気恥ずかしさの表面上の原因は自意識過剰であるので老いれば老いるほどに薄れてゆくのだろうが…根本原因はずばり自己愛である、自己愛の歪みが私を自己統一性から遠ざけているのだ。
情夫からはアーティストだと言われて嬉しい反面、あれほど恥ずかしい人種と一緒にされるのは御免被るという位の強い反発が生じる、私は二分している。
結局の所自己愛の屈折、のような所に原因があるのだと思った私は現状を打破すべく瞑想修行の門戸を叩いた。

 

前置きが長くなったが今回の話は瞑想教室(瞑想会)に挫折した話である。

 

自己愛、というのは現代の病と言っても過言ではない、誰もが比べられて誰もが成果を出すように強要されて幼少期を過ごすのでほとんど例外なく自己愛に苦しめられているだろう。
自己愛というものを過剰に認識しないようにするには瞑想や禅的な修行をするということに尽きるような気がした、いくら言葉の上で「自己愛も根源的には必要であり、でもほどほどにしておくとよい」等と博愛主義的に謳ってみてもそれを実行するのは難しい上、そもそも私自身が「誰にでも好かれるような」有り体な折衷主義的な思想そのものを忌み嫌っているので、自分の視野を変えるには修行だ!という位ストイックな方が性に合っていた、よって瞑想教室へ行けばこの種の苦しみから脱した人の雰囲気に触れられるかも知れないと思い、行動に移したのである。

 

件の瞑想教室は初心者の会と経験者の会に分かれており、先月初心者の会に参加した私は経験者の会の参加枠が空いていたために、本来行く気では無かったのだが修行したい気持ちが勝って参加申し込みをしていた。
初心者の会では講師はやや厳しい感じがして、「人」への愛着でこの会に参加しないでほしいというような言葉が幾度となく発せられていた。
よって初心者の会では誰もがある意味孤独で緊張状態のまま終始講習を受けたと言ってもいい、その時の私は漠然と「経験者の会もこのような雰囲気の延長なのだろうな」と予想していた、会自体は数年間続いているらしいので数年間修行した感じの方々がいるのだろうかと勝手に夢想してしまったのだ。
今思うとそれが間違いであった。
きっと凄い人がいるのだろう、自分には出来ない事を教えてもらえる…そう思ったのが間違いであったと言うべきか。
ちなみにこの初回では、瞑想をしていて飛ぶという体験まで出来たのだが、それが孤独と緊張の成せる技だったとすぐに知った、経験者の会に参加して知ったのである。

 

「人への愛着で参加しないでほしい」、その言葉の裏には孤独と緊張とが脳のリミッターを解除するという事が含まれている。
多分多くの人が経験者の会の戸を開いたこの瞬間にそれを悟ったのだと思う、経験者の会には数人の数年来の経験者と、その人等に好かれ、共同体への参加を許されたであろう人たちが居た。
共同体への参加を許されたであろう人が登場すると古参の者は笑顔で出迎え、新参者には特段話しかけないという、どこの学校でもどこの職場でもどこの共同体でもありがちな人間関係の沼がそこには展開されており、言うまでもなく場違いな私は女物の下着売り場に迷い込んでしまった男のような心許ない気持ちに苛まれた。


宇宙は一つである、どこもかしこも一点爆発を中心とした広がりであるならばそれは私自身である…と言葉で言うのは容易い、だが敢て言おう、女物の下着売り場には男は居て欲しくないし下着も触って欲しくない、好みで無い男に触られた下着を正規の値段で買いたいと思うほど私はお人好しではない、たとえ宇宙が根源同一であってもわきまえるべき物事というのはある。
色んな事情で女物の下着を欲している男は居るだろうし同情もする、それでも女物の下着というのは原則、女の為に作られた神聖な空間なのである、下着の中にこそ「女」の居場所があるのだ。
他人の居場所を敢て侵害してはならない、私とて情夫を連れて下着売り場へ行こうなどという行動はしないし、女人立ち入り禁止の聖なる場へ敢て土足で踏み込もうなどとは一切思わない。
いわば私は経験者の作り上げた個の滅した神聖な癒着の場に入り込んだ異分子なのである、退出すべきは私であって彼等では無い。
私は折衷主義が嫌いだ、宇宙は同一である、しかし出て行くしか無い。

 

…ということを開始3分ほどで考えあぐねていた、初心者の会が個を律した厳しい禅修行の会ならば、経験者の会は、誰がどのロッカーを使うかの動線まで厳格な規律によって定められているかのような往年のパートの更衣室じみた濃厚な雰囲気が充満しており、会に参加すればするほどに怨憎会苦という新たな修行が加わるのを感じ、身震いした。

 

講師は言った、「何故か1~2回の参加で辞めていってしまう人ばかりだ」、「すぐに辞めちゃんだから」、確かにそうだろう、初回は禅寺に来たのに二度目に訊ねたらパートの更衣室だったら、性別年代を問わずどのような人間でもおおかた逃げ帰るだろう、敢て古参の方々と仲良くなるために来ているわけじゃないんだから当たり前だろうと私は頷いた。
会社の古株の醸し出す合理的とは言い難い「当たり前」の事、良い人たちと仲良くしなければやってゆけない空気、そんなものは何処にでも溢れていて誰もが散々苦労しているのだ。
だからこそ「人への愛着で参加しないでほしい」という言葉が救いになったのだ、確かにこの場所を居場所にしている人たちにとっては空間との同化、他者との意識の融合は素晴らしい神事だろう、その為に新参者への無意識的な取捨選択が行われたとしても。
「道半ばにある人はいつも手を伸ばしている」と言って講師は発展途上の人間の図を描いた、確かに私とて手を伸ばしている、だが手を伸ばしていない人等居るのだろうか?
この宇宙の向こう側へ行きたいと手を伸ばさない人等居るのだろうか?
古参の方々は頷きながら下界の連中をにこやかに笑っていた、これが初心者の会だったならば身につまされて誰も笑えず、しんと静まりかえっていただろう、何もかもがある程度切実で逼迫しており、他人の不出来さを笑うほどの余裕はない雰囲気だったのだ。

 

経験者の会では馴れ合いが生じていて、馴れ合いから来る慢心の雰囲気が初心を砕いているという状況だった。

 

瞑想というのは個人が個々別々に潜心する行の事である、それ以上の説明は私には出来ないが、一人で行うと気が散るとか、もっと瞑想に慣れた人の雰囲気を知りたいとかそういう内的衝動が起こって瞑想会への参加という運びになるのだが…
初心者の会では誰もがこの決意を自分一人でし、自分の発言についても何の後ろ盾も無い状況で、誰が居るのかも知らない孤独な状況で潜心を行ったがために…

 

経験者の会よりも静かな緊張に満ちている分初心者の会のほうがレベルが高かった。
初心者のほうがレベルが高いというと不可思議な感じがするだろうし、第一瞑想のレベルや質というものを他者がどう観測するのだという疑問も湧くかも知れないが、場の空気、真剣さでいったら経験者の会はただのお茶会であって、初心者の会は切迫した魂への問いを誰もが直視せざるを得ない空気だった。
馴れ合いをしてしまうと馴れ合いが出来るかどうかというただそれだけに人間の注意が向くので注意散漫になる潜心という孤独の作業の場では孤立していればしているだけ集中出来るという…いわば社会とは逆転した現象が起きる。

 

瞑想や潜心といったものは経歴すらをも凌駕する、毎回、毎時、どのような感覚に至れたかだけが問題であって、それを云年やってきただの云十年やってきただのという物差しは全く通用しない。
毎時毎時の事なので、強いて言えばその人の(自分自身の)バックグランドすらも不必要である。
初心者の会では知ってか知らずか誰も自分の社会での役職や個人的悩み等は話さず、ただ潜心に注視していた分、誰もが孤独だった分、良い時間を送れたように思う。

 

人間の理想を忠実に行う事の難しさを考えると一方的に講師を責める気にはなれない、講師も多分この事には気付いていて、どうやったら個々別々な体験を個々別々なままで、団体として維持存続するかという大いなる矛盾と対峙しているようだった。

 

私が個人的に思う自己愛の矛盾を滅するという行のための瞑想では、本来の目的であり悩みである自己愛というバックグランドすらも消え失せる、瞑想というものができたと感じるあの感覚に居たると個人的な悩みや立場というものが消えてしまうのでスッキリするが、いつもこうとは限らない。
また心が迷い、アーティストアレルギーがぶり返すという阿呆な事を繰り返す、もう何回、いや、頭の中では何十億回と繰り返す迷いが消えるほんの一瞬、穏やかな気持ちになる。

 

経験者の会で瞑想体験談を共有するという場面があったのだが、個人的な悩みやお花畑が見えたというような夢想体験や、参加者の社会的立場という…いわば私の抱える自己愛なるものが濃密に話されていた。
幸いにも私の職等は聞かれなかったが、言うまでもなく、人は社会的立場を知ってしまうとそれを無視出来ないのだ。
私がアーティストと呼ばれる人種に対して気恥ずかしさを隠せないように、誰は偉くて誰は偉くないという序列を組み上げてしまうものなのだ。
それが経験者の瞑想会では普通に話され、瞑想会歴も含めた立場を無意識的に注視し、初心者の瞑想会では誰もが自分を律してバックグランドを何も言わず、瞑想の体験のみに絞って話を交わしたというのはなんとも皮肉である。

 

さて、私は身勝手にもアーティストアレルギーを瞑想によって治そう、瞑想会によって治せるとまで期待していたわけだがその期待は外れた、これまた挫折感も大きかった、今年は挫折してばかりである。
ただ、挫折したという風に書いたがこれはその実、他者への期待が外れたというだけの話なのである。
ひょっとして私のアーティストアレルギーも、瞑想会への挫折も、他人への期待が大きいという私の心的特性によって浮かび上がった病理なのではないだろうかという疑問が浮かんだ。
私はそういう意味でおかしいのではないか?
他人に期待し過ぎなんじゃないか?
確かに私は人間嫌いな分だけ他人に期待している…が、これも言葉だけで他人に期待しないという風に言うことは誰にでも出来るが、もし本当に期待しないのであれば他人が公共の場で何か凄まじい事(ご想像下さい)をやっていても心に全く波風立たないという精神状態を保てるはずである、けれども人間はそうできていない、他人の咀嚼音が耳障りだとか下品過ぎてで目に余るとかそういう事を言い出すのが人間の性なのである、自由に生きるなんてことはハナから無理なのである。
どこもかしこも往年のパートの更衣室さながら、虚偽と愛想と癒着した人間関係以外の他者には誰も理解出来ない美学に満ち満ちている。
しかしそのような宿命的不自由さの中で、敢て自分は自由だと言って憚らない人間が居る、それがアーティストである。
だから癇に障るのである。

 

よって、瞑想会へ行って解ったのはアーティストアレルギーは多分一生治らないという事だ。
アーティストアレルギーを治そう等とは思わずに、自分は矛盾した人間なのだという諦めを、人生に添えなければならない。