人間社会を見るセンスの欠如⇒を受け入れる人生


人間に対する興味や伝えたい気持ちというものがあれば技能は役立つが、人間に対する興味や関心や伝えたい気持ち自体が薄かったり、ズレていたりする場合技能はほとんど役に立たないということをここ半年ほどで痛感した。

 

①人間に対する興味や伝えたい気持ち
②また自分が人間社会に置いて何者なのかという点に意味を見いだせているかどうか

 

罪人なのか、善人なのか、小市民なのか、エリートなのか…自分のイデオロギーの中に持病を含める人も多いが、病人等何かの社会的ペルソナについて理解、共感しているかどうか。
ちなみに①も②も元来まるで無いとか、自分が何者なのかという点についてもどうでもいいし、本音を言うと自分の国籍とかですらどうでもいい、という位意識が人間社会というものから剥離している場合は、およそ人間に対しての発信力を持たないと自覚したほうがいいと思った。
自分が普段考えている事の大半は、言うなれば根源同一思想であるが、これはあくまで言葉に翻訳した場合であって、ロザリオの祈りについても珠の一つ一つが宇宙へ放射された量子の如く、この世に偏在しているイエスキリストの姿を俯瞰した地点から観測するという、時空を超越した感覚が生じるのでやっているに過ぎず、そのような解釈は独自のものであるので自分の思想を何かに分類することも躊躇われる。

 

前置きが長くなったが何が言いたいのかというと、私は身体の都合もあって自宅の仕事の幅を広げる事を考えていた、その中で人形の服を作る事に何故か唐突に感じ入り、それを小さな仕事にしようと目論んだのだがあえなく夢破れたという話である。

 

依然として洋裁そのものへの興味や関心はあるのだが、ただ単に唐突に人形が好きになったというだけで物を売るというのは如何せん、浅はかだった。
物を売る場合、先ず人間社会についての興味が無ければ駄目なのだ、この当たり前の事実が全く出来ていないと思い知らされたのである。
いくら人形が好きであってもそれは「私独自の思う人形を私独自の視点のみで好んでいる」究極の一点状態であって、「共通概念としてのドール」を好きな訳でも何でも無く、ましてや「日本に於けるここ数十年で生まれたドール文化、オタク文化」が好きなわけでも何でもないのである。

 

人間に対する興味や文化そのものに対する興味というのは的が広いので、思考の投影をした場合、幾つもの網を潜って思考が他者の心を打つ可能性が高い。
だが自分の究極の一点だけを考えた思考というものは、潜る網の狭さからいって宇宙の何処かへ思考が伝達されたとしても、それが他者の心を打つ可能性は非常に低い。
私が生きているのは自分の宇宙であって、そのような人間が文化的な概念に到達する可能性は低い、言うなれば私は原生林の中で一人せっせと創作めいた事をしているのであって…
そのような事柄を観測する事自体が相手からしても困難であるので、よって私の興味や関心が「実在している」とは言い難い状況なのだということを痛感したのである。
趣味ならばともかく、これを手仕事にしようなどと考えたのは甚だ浅はかであった、仕事というのは人間社会に於いてのみ観測されうる働きの事を指すのであって、宇宙の片隅で悦に浸っている事を指すのでは無いと思いきり頬を打たれたような感覚である。

 

言うなれば人間社会に物を伝えるセンスの無さ、この事について正直な所非常に参った、私はまだ夢見がちな部分が在って、宇宙の片隅で絵画や詩作という手法で自己法悦に浸っていてもそれを創作活動だとみなしてくれる第三者が何処かに居て、それが私の生きている内に私を観測してくれ、それが小さな仕事になるような事を楽観的に考えていた。
だが洋裁を習い始めてから自分の間違いに気付いた。

 

自分自身が全く人間を見ていない事、自分が人間社会に於いて何者なのかという事に関する無関心さに気付いてしまったのだ。
それを改めるには生まれ変わるくらいの意気込みでなければ認識を変化させることなど到底出来ないということにも気付かされた。
つまり人間に興味が無い人が、人間に対して物を売る等と言うことは原則、人間を観測していないのに人間に対しての働きが出来るはずがないということであるので、私が創作を商売にすることは不可能に近いという感覚に至った。
自分が何者でも構わないというようなことは一対一で人と話すような際には意外にも有利に働く事もあるのだが(だからこのブログを読む人というのが存在するのだろうと考えている)、物を売るとか事業を興すという場合にはやはり、集団や帰属する大きな概念…自分は日本人であるとかそういう漠然とした事を含む概念…が無い限り、自分の思考を照射する的が小さすぎて誰にも伝わらないという事態が起こる事も痛感した。

 

自分独自の物を、自分の意識が人間社会を見ていない状態で売るというのはそれくらい的外れな行為であって、オタク文化というものをきちんと見て、ある程度大きな的に向かって物を作らない限り、そう売れるわけがないということを知った。

 

現実を見なさいという言葉の示す現実というものは…何も宇宙の真実を見よということではなく、株等の金融システムを理解しろということですらなく、人間社会という独自の文化を見て尊重せよ、人間社会という局所的な概念を見据えよという事なのだとこの歳になってようやく知った次第である。

 

人間に対する根源的な興味や、人間社会に居るのだという強い自覚というものは一朝一夕に得られるものではない、これは気質であって、本当に生まれ変わる位の努力をしなければ私がどのような技能を体得したところでそれで商売をする事は不可能だろう、人間社会を見るセンスに欠けているのだ。

 

少し話は逸れるが、親の作ったサイトを見ていても実は同じ事を感じた、人間社会を見るセンスの無さを感じた。

父親はまるで数字しか喋れないような印象を受け、母親の描く猫のイラストは「母自身が猫になってしまった」ような奇妙な感じがした、「自分は人間だと自覚のある人間の描くかわいい猫」ではなくて「描き手自身の存在感覚が曖昧なので」、猫が宇宙人に見えた。
自分の年齢というものに関する社会的振る舞いというものをまるで解っていない人たちなので、人間に対する商売をするのには全く不向きであると言わざるを得ない。
この種の恥ずかしい奇妙さは、言葉の上でだけは時勢的には良いようにも捉えられるかもしれないが…自分の存在を人間社会に定義付けないということは人間社会的センスの欠如としか言いようがないので誇るような事では無く、多分多くの人に奇妙さや心許なさといった負の印象を与えてしまうだろう。
そしてこの人間を見るセンスの無さというものは、ある程度遺伝的性質を持つということもヒシヒシと感じている。
彼等にいくら知識や技能があっても、それを人に伝えるというセンスがまるで無いのを改めろと言ってもそう改まる事では無いだろう、両親の欠点というものは言うなれば自分自身にもかなり色濃く見られる特色でもあるので、この種のセンスの欠如は生まれ変わらない限り改めるのは無理という諦めを感じたのである。

 

こうして私は夢破れた。
洋裁を趣味としてこれからも続けるが、自分の服あるいは人形の服(最早そのどちらを自分と言うべきなのか)をコツコツこさえたところで仕事にはならないということを直感した。
しかし洋裁というもの自体には興味はある、何故かというとそれが私にとって全く歯の立たない解らない分野だからである。
例えば私が敢て絵を習いに行くだろうか?(まあそういうこともあるかもしれないが)自分の内在の神の導きによって描いているそれを、「第三者から教えられる」事に何の違和感も感じずに絵を習いに行くだろうか?
敢て文章教室に行くだろうか?…もし行くとしたらそこで言われることも解っている、「読み手の事を考えろ」ということである、しかし私自身が読み手のことをあまり考えていないであろう文章を好むために結局センスの無さに行き当たるだろう。
それでも絵も文章も庭造作も内在の神が何とかしてくれるので自分でやれてしまうのだ…勿論それが単なる放出の域を超えない限りは、だが。
一方で洋裁の原型からパターン展開という部分に関しての難しさを喩えるならば、私にはそれは「今から建築家になる」事くらい難しい。
そちらの方面を導く内在の神が居ないので、習うしかないという状態である、仮にそれが出来るようになったところで単なる放出の域を出ないのもここ半年で痛いほど身に染みた。
だが、謎なことなのでやりたいのだ。
内在の神が導いてくれない分野であるのでそれを「趣味」と呼ぶのだ、謎パズルを解くような感じの趣味だ、謎パズルの制作や販売まで出来るのであればそれは人間社会に於いての仕事になるが…謎パズルをただ解けるようになるという段階は趣味である、謎パズルの制作を何かに導かれて自発的に出来るのであればそれが人生の軸であるので、洋裁は趣味だが私は絵等の創作を趣味とは呼びにくいという感覚である。

 

さて、こうやって書くとプロになるのは難しいという言葉に終始するようだがそれは少し語弊がある。
私が言うのもなんだがプロになるのは難しい訳ではないと感じる、「人間社会を見る」「自分の存在意義を人間社会の中に見いだす」センスのある人であれば、何も非常に優れた技術などが無くとも「人に思考を伝える事に秀でている為」、少しの技巧を仕事に展開させるのは容易い場合も多々あるだろう。
何故プロになる事が「厳しい」事なのかというと、いくら創作が好きでも「自分の視点や感覚が人間社会のそれと合致しない」「人間社会に於いて何者であるという自覚が無い」「人間社会に関心が無い」という人間社会的センスに欠けた人の場合、視点を無理矢理人間社会に合わせて創作する事が「非常にハード」なだけである、だからプロになる事は狭き門のように捉えられてしまうのだと思う。

 

山奥で素っ裸で独自の神の像を彫っている人間が居たとして、第一、その人の制作物をどうやって第三者は知るのだろうか?
制作者がそのスタイルを貫くならばおそらく一生誰にも知られないだろう。
何もそのような独自の物が崇高で、文化的な物が下等だと言いたいのではない(物を売る場合に添えられる芸術家の崇高性というものすら、権威のある誰かの発言によってのみ効力を発揮する)。
山奥で素っ裸で誰の目も気にせずに創作に没頭していた人間が、人間社会という窮屈な場に出てきて自らの振る舞いを含めた創作性というものを発揮できるか否かが、プロになるかどうかの分かれ道なのだと思う。
プロというものも高尚な事ではないと私は感じている、だが人間社会相手に創作が出来ない限り人間社会からの報酬は得られないだろう、だからこそプロという感覚の人は「人間社会を見る」努力をしている人を指すのだと思う。
人間社会を見る素質がある場合は、何をやろうが…それがブログでも、株のレクチャーでも、庭造作でも何でも、仕事にすることが可能だろう。
しかし山奥で素っ裸になって誰の目も気にせずでないと創作出来ないというのであればそれは…喩え本人が内在の神と絶えず合一していたとしても、はたから見たら内在の神とやらと絶えず合一らしきことをする行為に没入している人というだけであって、人間社会に物を伝えられない場合は人から理解されることも難しいだろう。

 

この事に関して思うのは、以前図書館に勤めていたときにイラストを頼まれて描いた事だ。
私自身が楽しんでこの作業に勤しんだ反面、これほど疲れる物事は無かった、胃が痛くなるほど悩んだりしたものだ、どういうことかというと「人間社会的に許された」「伝わる表現」というものについてのセンスが元来薄い為に、「これで良いのかどうか」が解らずに酷く苦しんだ記憶がある。
その時に思ったものだ、「絵は絶対に仕事にはしない」。
洋裁を仕事にしようかなと甘い夢を観たのは、洋裁に関しては私の内在の神が不在であるので、だからこそ人間社会に対する仕事に出来るかもしれないと閃いたのだ、内在の神の導きが無いので人間社会に合わせる苦しみが少ないので、仕事に出来るかも知れないと夢見てしまったのだ。
しかしそれも思考の投射がまるで誰にも到達しないという限界を呆気なく知ってしまったわけだが。

 

人間社会に伝えるということについての根源的なセンスの欠如を受け入れるしかないというのが、夢破れた私の現在の人生論である。