労働教ヒエラルキー宗派から脱退します


人徳=ヒエラルキーの外側
人徳の高さ、みたいなものを感じる瞬間が最近あった、内職の引き取り人のうちの一人に対して私は取引数を減らして欲しいと頼んだときのことだ。
当然、「何故?」「あたらしい仕事でもするの?」「それってどのくらい重要な仕事?」と職務質問めいた問いを投げかけられると思っていた私は身構えていた。
するとその人は意外にも、私の新しい試みについては触れないでいてくれた。
内職をやる人というのは乳飲み子が居る場合などを除き、基本的には働きに出るのが心身共に性に合わないか、あるいは働けないか、そのどちらもか…という人が着手する労働である。
中には副業として内職をやっている人も居るようだが、そのような人が一日の内に着手出来る取引数には限度があるので、私のような暇人には割合多くの品数が振り当てられる。
繁忙期には外出もままならないほどの量が来たりするので、洋裁関連も考えるとそこまでやる必要がないような気がしてきて、数を減らしてもらう事にしたのだ。
しかし実際にまだ販売出来る品物を作ってもいない段階で、「新しい仕事をするから数を減らして欲しい」とは言いにくかったので、理由を問われずに居たことが有り難かったのだ。
私が暇人であることももうばれているし、もしかしたら働かない理由があるのかもしれないと察しているのかもしれない、何にせよ私は彼の態度に尊いものを見た。
この人、偉いなあ…と感心し、頭を下げたくなった。

 

一人の人間として扱われている、というような嬉しい感覚があったから偉いと思ったのだ、言うなればそれは社会的ヒエラルキーを敢て無視し、その人本人を見るというようなはたらきのように思えた。

 

労働教ヒエラルキー宗派
ヒエラルキーを感じさせるカテゴライズされた言葉というものを元来私は嫌っている、マスコミや医療業界が作り出した造語やらネットスラングニート、引きこもり、無職、童貞、処女、○○障害、○○病…だから自分の事も「臼蓋形成不全の」とは名乗りたくない。
とか思っていたのにここ数日は寝込むほどに社会的ヒエラルキーに参っていた、ヒエラルキー最下層になったと思った途端に性欲まで減退したというわかりやすい落ち込み方である。
私はヒエラルキーを無視したい、無視というか度外視したい。
世の中は最早比喩でもなんでもなく労働教ヒエラルキー宗派に染まっているので、人が集まると途端に「結婚しているかしていないか」「働いているか無職か」「子供が居るか居ないか」で階級を決めて行く働きが生じる。
もうこれって山奥で畑を耕している時代から全く変化していない風潮だろう、この階級制度って結局のところ「どれだけ個体的に健康か強いか」というだけの話題であって、それ以上の意味なんて皆無なのだ。
これを凄い凄いと崇めたりする働きをしてしまう人が一人、また一人と増えてゆく…そういう物事の結果として、重度障害者を滅多刺しにするやまゆり園の事件とかが起こったに過ぎないと私は思う、つまり私とてあの事件に加担してしまったのだ。
世の中の事件の実相って、本当は皆が皆で作り出した演劇のようなものだと感じている。
私もそこに見事に加担してしまったのだ。

 

誰かが言う、「私には休みなんて無いの、どの仕事も専門職だから」、誰かが言う、「凄い~!!」、そうやっておだてたのは私自身であって、そうやって労働教を崇める振りをしたのは私自身なのだ。
その誰かに対して例えば、誰もなにも言わなかったとしたら…?
何か言わなくちゃと思って私も言ったし、本人も当然「凄いでしょ」という体で話していたので、話に乗らないわけにはいかなかったのだが…
内職の引き取り人の彼だったらどう言うだろうか?
ヒエラルキーを生じさせずにこの話題に参加することって出来るだろうか?
だってよく考えてみると解るはずだ、労働教に身を捧げる事が…殉教も含めて…美しく尊い事であるとすれば、ただただ生命体として生きているなんて事は最も忌むべき事になってしまうだろう。
ヒエラルキー宗派のやり方を度外視して話をしたい、というただそれだけの事がこんなにも難しいとは。

 

行為はそこまで偉いのか?「凄い」は「偉い」ではない
例えば、絵を描くのは行動の一種だ、仕事をするのも行動の一種、セックスやオナニーも行動の一種…行動、というものを褒め讃える思想に染まりきっているとしたら。
絵を描くのは凄いのだろうか?凄いかもしれないが、それは射精が一日10回可能とかフェラチオ大好きで何時間でも本気でしゃぶれます☆とかの凄さであって、偉いわけではないのだ。
たまに老人でも元気自慢みたいな人間はいるけれど、彼等の身体が頑健で在ると言うことと、彼等の人徳とは悲しいほど比例しない。
だから仕事を毎日頑張ってますアピールする人に対しては、確かにそれは体力的にも凄い事(凄まじい事)なのだけれど、実相としては「心身の行為」を善とした強固な思い込みがそこにあるというだけの話であって、決して、偉くはない。
勿論傍目には、仕事を毎日頑張っているという人と、毎日パチンコに明け暮れているという人の「自発的な行動」度合いには差はあるし、性格の未熟さなどにも差はあるだろう、だから「きっちりと毎日勤勉に」生きている人は当然の如く素晴らしい人徳があるという風に思われがちである、本人たちもそう盲信している場合が多々ある。
行為を盲信している場合が多々ある。
結婚して子供産んでいきなり「命って大事☆」とかほざいている女を見ていると思うのだ(私は個人的な感覚では、妊娠出産をした人って確実に脳ミソ減っていると思っているのだが…その辺りの事情を科学は説明しようとしていないのが余計に気味悪く感じたりする、妊娠前と出産後でIQテストとかやったら格段に脳の質が下がっている気がする…これはもう女の勘でそう思っているのだ、これって人類のタブーなのだろうか??)、それは行為や行動であって、そういった傍目にわかりやすい行動だけを褒め讃える風潮の虜になっているなあ…と。
で、私もその虜になったわけである。
悲しいかな、35過ぎ職歴無し子供無しというこの、単なる言葉遊びの虜になって数日寝込んだのである。
自分はこの集団の中でヒエラルキー最下層なのだからそれらしく振る舞わなくてはと、自分自身で思ってしまったのが私の間違いだった。
この時点で私とて社会的いじめに加担したのだ、数多の自殺者が出ているにもかかわらず、無自覚にも、ヒエラルキー合戦に加担してしまったのだ、畜生。

 

社会的風潮という刷り込み

唐突に怒りが湧いてきたのは昨日である、別に誰が悪いというわけではない、私が見事に社会的風潮の罠にハマったのが悔しいというか…今までの自殺者に申し訳ないというか、当たり前だが私がその責任を負う必要性なんて皆無なのだが、ネット上に文章を上げるというのはやはり、何らかの波長を生み出してしまう行為なわけであって、私がマスコミやら何やらの作り出した社会的風潮の罠に見事にハマって抜け出せなくなりましたという現状を「真実」として語ってしまうと、本当に無責任に社会的いじめを是としてしまったということになってしまう、だから悪いことをしたなあと思っている。
挫けたのが、私のやった悪いことなのだ、あああ。
…というか大手の情報機関てさ、やっぱ、自殺を是認しているのかな???と思った、この国の人って本当に自殺は駄目とか思ってる?思ってないよね??
ニート、引きこもり、要するに社会的弱者を表わす用語、不細工とかキモいとかも入れてもいいかもしれないが、それ以上に「就職しないと死にますよ」という暗示の強い言葉、中年無職、老後破綻。
こういう造語って時代が異なれば一切機能しないのだ、そりゃあどの時代でもこの国の風潮としては(どの国もか??)スケープゴート…つまり生け贄役を誰かに押しつけることによってフラストレーションを発散させてきた、これが人類史というものの側面なのだ。
しかし私の感じた『自分はもう社会的に存在していない!!』という極度の絶望感、あれは一体何だったのだろうか?
35過ぎ職歴無しじゃもう生きていけない!!っていうあのパニック状態、あれは一体何だったのだろうか?
いつ刷り込まれた事なのだろうか?

 

義務教育時代からずっと、親子二代三代に渡って刷り込まれてきたのだ、社会的に実在しないこと、行為しないことは悪であると刷り込まれてきたのだ、行為行動しない人間は好きなだけ軽んじて良いと刷り込まれ、同時に、凄まじい恐怖をも植え付けられてきたのだ。

 

この刷り込みは恐怖とセットになっている分厄介な強烈さを帯びる、数日前の私のようにいとも簡単に、それまで普通に生きてきた人間の尊厳を奪い去ることが出来るのだ。
私は仕事をしている人を貶めたいわけではない、ただ、仕事をしている人を野放図に崇める事は金輪際やらない事に決めた。
それは仕事の出来ない人(単に、職場の出来ない人間、という存在を含め)や仕事をただやらないでいる人を無意識的に軽んじる事になるから。
社会は実在するし、社会的立場や経歴も実在する、金がなければ生きて行けないというのも「半ば」真実だ、だから働かなければ生きて行けないと言えなくも無い世界が在るのを、私とて知っているしやってきた。
しかし実際は、職場に行ったところで子供の居ないことをそれとなく軽んじられたり、暇ねえと厭味を言われたりする「生け贄」の役柄を演じなければならない。
ただひたすら頑健な方々を仰ぎ見る役柄を演じなければならないという圧力を感じる、それに加担せずに居ると即刻、空気の読めない人扱いを受ける…けれどももう、空気読めなくていいと心底思った。
もう空気読むのなんてクソくらえだという気分だ、でももっと突き詰めると…一体どうやったら件の、ヒエラルキーを度外視して人と接するということが可能なのだろうかと考えている。
これをやらない限り私自身がいつまでも、実体の無い社会的風潮…マスコミなどの作り出した幻影や下らない厭味と戦わねばならない、そんな人生無意味である。
子供時代から「成績」や「能力」という幻影と散々戦ってきたのだ、もういい加減この幻影を、ただの影であると言って消してしまいたい、本当の世界を見たい、本当の人間になりたい。

 

…でもこんな事を言っている人間は、この世に私一人しか居なかったら?
世界中がヒエラルキー構造で構築されていて、立場立場で生きなければならないというのが世界の実相である場合、私の言葉なぞ、誰にも通じない言語と同じようなもので、存在する意味が無いのではなないか。

 

パチンコ中毒 賭け事は自殺の手前
ここまで精神的に落ちてしまうと本当に起き上がるのもしんどく、自分でもどうしていいかわからなかったが、その時急に、先の日記のようにパチンコの事を考えたのだ。
私は実際にパチンコをやったらどのくらい金をつぎ込んでしまうのか等は考えなかった、ただ単に、「人間社会の中で揺蕩っていたかった」ので、野山に行って野宿する事よりも賭け事を考えて気を紛らわしていた。
人間社会が嫌だから山に行くというよりも、街でパチンコをして、一種の共犯めいた世界に浸かっていたほうが孤独感が和らぐと思ったのだ、それほどに私だって詰まるところ孤独を恐れていたのだ。
孤独と、自分が社会の生け贄になっているという現状を見たくないがために、その社会とも一体化してしまいたい、もう個人ではなくて一体化した何者かになってしまいたいという極度の欲求が出てきて、あわや本当にパチンコ屋へ行くという段階までキていた。
私はそれまで賭け事やゲームの面白さって一切わからなかったが、ここまで凹んで解ったのだ、パチンコは風俗と同義で、それ自体が「社会悪」であるために「社会と混然一体になれる」場なのだということ…だから孤独感が薄れるのだ。
その場に居るだけで「社会と」共犯関係を「結べる」ので、パチンコ屋に行きたいと思ったのだ。
あの音もそうさせるのかもしれない、五月蠅すぎる音というのは究極的には砂嵐にしか聞こえなくなるので胎内回帰が可能になるのだ、私は自分が「樹海へ行って自殺」するよりも「パチンコ屋に行ってシニカルに嗤いたい」という欲求を選んだ事に独特に満足していた…人間社会を選べた自分に満足していた。
きっと、賭け事中毒というのはこのような原理なのだ、シニカルさが極度に達するとそれを麻痺させようとする働きが生じる。
でも死ぬ等という事に身を投じるのも癪なので、人間社会に埋もれる事が「出来る」のだと、自分に言い聞かせたくなるのだ。
パチンコ屋に行く前にパチンコというものをやってみようと思い、パチンコアプリをダウンロードしてみたが、ゲームの楽しさを理解出来ない私には結局何の事かさっぱりわからなかったし、パチンコ屋に行ったらギャラリー代20万とかどころの話じゃなくて、100万くらいあっという間だろうと思ったので、金惜しさに行くのを断念した。
しかし頭がパチンコの事を考えている間は鬱状態が抜け、悲しいのに笑う事が可能だった、ああこれが賭け事のなせる業なのかと私は恐れ入った、悲しくて起き上がれないのにパチンコの事を考えると携帯を見ることが可能になるというのは…賭け事に見る人間社会の極相図というものが、何かしらの作用を引き起こしているのだろう。

 

ただこの間私は、音楽を聴いても音の色は見えなかった、賭け事にハマると人間社会の極相図を関知する何かが、感性を遮断させるはたらきをするらしい。
この関連を脳医学では何と呼ぶのだろうか?
何現象と呼ぶのだろうか?
死ぬか、死なないならばパチンコ…でもこの選択肢自体が、意図的に作られた仕組みのように思えてならない。
悲しみを麻痺させるには感性を麻痺させるという手法が人間には内在していて、感性を麻痺させるには賭け事による快感と焦燥感が一番キくのだろう。
…と、パチンコというものを実際には全くやってもいないのにパチンコ中毒を体感したかのような感覚が内在しているので、結構この原理は恐ろしい。

 

パチンコ中毒からどうやって抜け出たのかというと、まず第一にはパチンコアプリがつまらなさすぎたというのと、課金制であったということと、実際のパチンコに金がかかるというケチ根性が幸いして中毒から脱した。
もっと詳しく言うなれば、ぬいぐるみを抱いて我らが『十字架の聖ヨハネ』の書物を読んでいたら丁度良い文章があったので心が冷静になった。
念のために言うが私は宗教はやっていない。
やっていないが、聖書やそれに不随する書物を読むのは好きなほうだと思う、なんの為に読むのか?
人生の先輩の残した手紙だと思ってただただ読むのだ。
『初心者の魂は時折暗夜に落とされる、神はそうやって魂をひとつひとつ浄化させ、魂は綺麗になってまた浮かび上がる、その浮上を繰り返す』というような文章が『暗夜』(十字架の聖ヨハネ著)に書いてあって、なるほどなと納得したのだ。
その時に抱きしめていたのは鳥(キウイ)のぬいぐるみだ、こういう心底どうでもいいものが、触り心地という脳に直接クるもので刺激を与えてくれ、感性が少しずつ再稼働したのだろう。
しかしパチンコ中毒に関して思うのもやはり、突き詰めるとヒエラルキーというものがもたらす害悪であるように感じる。
居場所がない人ほどハマるのではないか?
パチンコ中毒、アル中、なんか…他人事ではないんだよなあ、アルコールは一切飲めないのでアル中になる時があったとすればそれは急性アルコール中毒以外には道は無いのだが…。

 

労働教ヒエラルキー宗派から脱退します
この数日間は死がとても近くに感じたので、死を回避するためにパチンコの事を考え、十字架の聖ヨハネの言葉に励まされ、何とかやり過ごせたが…
根本的な問題として、労働教ヒエラルキー宗派…これにはもう染まらないようにしようと肝に銘じた次第である。
誰かが生け贄になる事で救われる社会というものがあってはならないと感じた。
単に私一人がそう感じただけなのだが、だからこそ私は自分の事を安易にカテゴライズされた言葉で表わしたくはない、ニートとか専業主婦(何故これがここまで、女からすらも叩かれるのか理解不能だが)という言葉で表わしたくはない。

 

誰かの事を、あなたは誰と問うときに、社会的立場やカテゴライズされた言葉以外の言葉で問いたい。
自分の事を聞かれたときにも自由な言葉で答えたい。
大衆を操作するような言葉を本物にしてしまいたくない、引きこもっている状態の人がいたとする…が、その人は引きこもっている状態であって、引きこもりという本性ではない。
凄い人が居たとする、でもその凄さというのは数多の人々から相互的に分け与えられた心身の頑強さを言うのであって、それが人間的に崇高だということにはならない。
同時に、どうしようもない弱い人が居たとする、この人の弱さというのは本当にその人だけの問題なのかというと、その人が社会的風潮に対して忠実であればあるほどに、その弱さは「作られたもの」ですらあるのだ。
死ぬよりも金を使ってねという情報操作の為に、窮した人ほど賭け事にハマるのだ。
本人が孤独に弱いという特性は確かにある、私にもある。

 

私は思う、意図的に作られた言葉から自由になりたい、誰かの事を本当に直視したい。
誰かの事を本当に一人の人間として接したい。
ヒエラルキーから自由でありたい、自分が働いても、そうでなくても、ヒエラルキーから自由でありたい。


そういうわけで本日を以て、序列を事細かく決める労働教ヒエラルキー宗派から、私は脱退します。