YouTube

そうだ、YouTubeやろう!

と唐突に思いついたのは昨日である、何か小さな事で自分から発信出来ることって無いか?
と考えていたらYouTubeが最適なような気がした、おおお流行に乗っている…ような気がする。
携帯を買い換えて10万以上する代物にするのはちょっと阿呆らしいのでGoProゴープロという携帯型ビデオカメラを使おうかと検討している、もうすぐ新型が出るらしい、ああ、ワクワクする。
単に新しい機械に触る事が出来るのが嬉しい。
では一体何を配信するのだろうか…?

 

①風景と詩と音楽(版権切れ及び自作)
②絵の制作過程
③人形と人形服
④飛行機、路線バス
⑤東京都下散策

 

趣味の地味さ加減が壊滅的である、全部一人で出来る事だ…確かに鶴の人の言うとおり、私を示すキャラクターがあるとすれば森の妖精だ、森の妖精、居ても居なくてもいい精霊、居るのか居ないのかわからない存在。
…もう④しか再生数が上がらない気がする、個人的に飛行機(プロペラ機)が好きなので飛行機動画(ただ見ているだけ)をあげたいのだが…
特段飛行機オタクというわけでもないのでちょっと気が引ける、路線バスも最前席に貼り付いて動画撮影するのは正直だいぶ恥ずかしい…好きな乗り物は飛行機とバスなので動画の取っかかりにはちょうど良い気がしたが…
予想以上にハードルが高い気がしている。
①~⑤を並べてみても、何をどう考えてもパッとしない、自分でも思うが老後の趣味という段階に落ち着いてしまってる感じしかしないし、動画的には全く毒にも薬にもならないジャンルなのでそれを収益にする等と嘯くのは何だか、これまた小っ恥ずかしい。
私が人間という存在に対して発信したい事って、結局私が内に籠もる時に通る道でしかないのだろうか?
私は本当は何を言いたいのだろうか?
私は自分が感動した事を伝えたい、だが…自分が感動するときに明確に他者は居るのだろうか?
本当は自分一人が良ければそれでいいんじゃないか?
他人が必要な趣味なんて一つも無いじゃないか?これを公開して何の意味がある??

 

絵の開示 ギャラリー批判
…落ち込んでいる場合ではない。
絵の事について言うなれば、何処かの小さなギャラリーに絵を展示するより余程、多くの人に見てもらえるだろう。
確かに絵は、他人に開示しない限り生きた絵にはならない、ネットの海に泳がせてやった方が作品の為なのだ。
ギャラリーというものに関して考えると何となく社交界を思い浮かべてしまう、展示している人も鑑賞者も身分ありきでその場に参加している印象がある。
美大の人が作品を展示し、OBたちの観に来る場所、これは比喩でも何でも無く、はっきり言ってそういう閉じた世界、閉じた村社会が今の芸術世界だ。
果たして芸術というジャンルが活発化した時代なんてあったのかどうか定かでは無いが、絵というものは楽しんで描かない限り作品は死んでいる、絵を見る人に何の経歴も無くとも、それが楽しんで描かれたものかどうかは案外すぐにばれてしまうものなのだと私は思う。
私は美術関連の何が嫌なのかというと、経歴を問われる所が嫌なのだ、このような人は多いと思う。
誰が立場上どのように振る舞うかが明確な世界、それは本当に、本質的に楽しめる世界なのだろうか?
ギャラリーと呼ばれるものに行ってみてもビビっとくる絵が無かったのはまさにこのせいなんじゃないかと思う、自分が立場上どのような人間かを常に(無意識的にも)意識しながら描かれた絵というものが楽しい絵である確立は低い。

 

絵というジャンルで考えたらアニメ業界及びコミケなんて物凄い成功例だろう。
美術というもののパワーが全てそちら側に流れるのも無理はない、自身の経歴無根の匿名性と個人の尊厳がそこには確かにあり、どのような人が来客しようがその人をお客と見なす…マーケットが広がるのも必然的な流れだったのだ、何より、制作者が楽しんで何もかも気にせず描いているという事が規模を広げたのだと私は考える。
村社会のままのギャラリーという場所はもう終わった歴史の場所なのだと思う、経歴の在る人がさらなる経歴を作るための場所。
売れているものの少なさからいっても、制作側の匿名性を是としない限り、立場遵守の文化を止めない限りは、芸術作品という謎ジャンルが活性化する事など不可能だと感じる。
とはいえ、私とて全てのギャラリーを見て回ったわけでも何でもない、職業芸術家の登竜門的なギャラリーを二つ三つ見て回った感想をただ書いているだけである…が、あながち的外れでは無いと思っている。
じゃあ個人が自由奔放に描いたものを、「売るのではなく」、ただただ展示公開する為だけの場所を探そう、今はそう思っている、だから喫茶店とかに飾る(文字通り)事になるのだろうとは思う。
実際の絵の触れあい、実際に対面することを私は結構重んじているし、そのような空間に自分で参加したという経歴にもなるのでやりたいが…絵を目にする人数だけに焦点を絞ったら、その場で販売して終わらせるよりも絵は自分の手元に置いたままどんどん開示、ネットにも開示したほうが「絵が鑑賞され、命が宿る瞬間」は多くなるだろう。
絵をネットに展示、開示するメリットはまさにこの、「絵が鑑賞され、命が宿る瞬間」が増えるということにある。

 

YouTubeに絵を公開することのメリットとデメリット
では絵を、YouTubeなどのネットに開示することのデメリットは何だろうか?
①神秘性の欠落
②無料で公開することにより発生する無価値感

①について言うなれば、絵の制作過程は秘密にしたい人も多いだろうとは思う、この神秘のベールを剥ぎ取ってしまうと、「なあんだそんなことか」と、芸術という謎の崇高さが剥離し、むき身のままの制作風景がそこに立ち現れる。
どんなに細かい作業でも工程を見せてしまうと「案外出来るなあ」という感想を抱かれがちである、この場合、絵の神秘性という価値は確かに下がる。
この文章だって例えば丸一日かけて一生懸命書いていると言われて読んだ場合や、神様のお告げがあって書いているというスピリチュアル系に多い謎めいた自己申告…こういったものに比べ、「本当は1~2時間でドバーッとただただ推敲も無しに音楽聴きながら書き殴っているだけの状態なのだ」と知らされて読んだら、有り難み?は無くなるだろう、本当の事なんて知らないほうが神秘的なのである。

 

②無料化問題につて、絵や作品を無料で公開することについての危惧についてなのだが、無料で絵を垂れ流していると絵というものは無料で見れるものなのだという認識が広がり、結果的にますます絵は売れなくなるのではないかという事を考える。
まあ元々私は絵を売っている人間でも何でも無いので特段困らないのだが、絵というジャンルが不活発になる手助けを敢てせずともよいのではなかろうかと、ちょっと二の足を踏む気持ちもある。
例えば自分の絵が、数万円払わなければ手にできないという状態で販売したとすれば、稀に私の絵を欲しいと言う人もあるかもしれない。
どうしても見たいからどうしても欲しいんだと言ってくれる人も居るかも知れない。
だが私の絵というものを私がネット上に思うまま公開していた場合、「敢て購入する必要もない」と、本来、私の絵のお客になるはずの人も思うようになる…気がするのだ。
あともう一つはこの無料化問題、絵の価値そのものを下げてしまう逆効果がある気がしないでもない。
無料で公開するということは、無料で垂れ流すということと同義である。
ネットで無料で公開する限り、この文章にも価値は反映されにくくなる、無料で垂れ流す絵というものを目にするのは無料だから見るという人も結構生じてくるだろう。
必然的に、私のジャンプ力も低くなる、そういう逆効果はあると思う…だが、話をぶり返すようだがそれでも楽しくないと意味が無いのが芸術という世界の一番厳しいところなのだと私は思う。
無料化するものは必然的に価値が下がる、有料化したとたんに価値が上がる…この仕組みは実在する。
だが狭い世界のギャラリーに、無名の自分が「わざわざ高い金額を払ってまでして展示してもらい」、自分の経歴を問われるような社交界世界に対してあくせくし、挙げ句来客自体が極小…という終わった世界であれこれやるよりも、ゴープロで絵の制作過程を写してそのまま垂れ流した方が楽しく描けそうな気がするのだ。

 

絵に関して考えるのは、無名の人がアートを「真剣に」やり、尚且つ展示費用を負担してでも「公に」公開するというシステムが欲しいということ。
ここで言う展示費用というのは運搬費用や場を借りるお金である、場を借りるというのはクソ高いギャラリーに恭しくご利用料金をお支払いし、芸術社交界に仲間入りのような儀式をさせてもらう…といった馬鹿らしいシステムの事ではなく、単なる展示場所に料金を支払って展示したいということ。
これって結構、絵を好きな多くの人の願いなのではないだろうか?
実際にこれに近いのはギャラリー喫茶みたいな場所だろうか、少ない費用で展示のみで何日間か置いてもらうという点では喫茶店が一番、理想には近いような気がする。

 

私が落胆したこと
今から書くことはちょっと個人的な物事だが、私は鶴の人の元奥さんに自分の絵を描かれて展示されたときに思ったのは、「やはり芸術という輪の外側の人間には、この世界での発言権なんて無に等しいんだな」ということ。
つまりは呼ばれてない感じがしたのだ、そりゃあ私は鶴の人の奥さんには世間的に言って酷いことをした、のかもしれない、他に女が30人余り居たとしても私は酷いことをしたのだ、彼女にとっては。
よくよく突き詰めて考えてみると、彼女自身が明白な敵が欲しくて仕方が無いような感覚があったようなのだが、そういう内省は描かれていない。
だから究極的には何がどう酷いのか、酷いと感じた彼女の気持ちはわかるのだが、私が一番知らされたのは「美大関連」の輪の中でいくら貶められても、それを不当だとは「場所柄、私に発言権が無いので」言えないのだと言うこと。
これさ、普通に考えてみたら解ると思うのだけれど、例えばテレビドラマに出ている人が個人的な恨みを…たとえそれが世間的な道徳で言えば正当だと自負出来るものであったとしても、それを「主演しているテレビドラマ内で」敢て発言したりはしないよね?ということ。
私のむかつき所のピントがずれているのかもしれないが、私は結構この事に関して、落胆した、その世界ってその程度の意識なんだと落胆した、美大出てまでその程度なんだと落胆した。
そのことに関して鈍感だった鶴の人の芸術眼にも正直落胆した。
芸術というものが閉じた世界である以上、もうこれ以上の発展など無いだろうなと思った、アニメ世界の方が断然プロ意識が高いのではないかと感じる、だって声優やアニメーターって、辛い事があってもそれをアニメキャラに投影したりしないよね?(多分)
芸術、これはもう終わった世界の終わった場所であり、制作者も鑑賞者も販売側も購入側も全て、「同じ世界、同じ村」の人々で構成された世界なのだなと痛感した、「お前は来るなよ」と言われた気がした、単にそう思った、そういう気持ちになっただけ、はっきり言ってこの上なく身勝手な私の被害妄想である。
相手に先に蹴りを食らわせておいてその集団から出禁になった、ような気がした…という阿呆な被害妄想である。
でもこの気持ちって案外多くの人が芸術というものに対して抱く疎外感なのではないだろうか?
だから売れないんじゃないの?

 

と思いっきり感情論をぶつけても仕方が無い、私自身が金のかかることを嫌いなので余計に、展示にすらお金がかかるというギャラリー展示事情が許せないだけなのだ。
…それもこれももっと絵が活性化して、コミケを含むアニメ業界くらい活性化して、制作したものが販売に繋がる状況になれば事情は変わるのだろうが…私の生きている内には無理だろう。
経歴ありきでやっているジャンルが芸術ジャンルなので、悲しいほど無理だと思う。

 

YouTubeに載せたい事、会話などの映像作品

YouTubeに話を戻そう、本当はこうして語る内容も載せようかと思っているが、YouTubeの性質上、コメントを受け付けた方がいいような気がする。
そこでの客あしらいというかそういう事が面倒くさい気がしていてこれまた二の足を踏んでいる。
飛行機とバス動画だったら大したコメントもつかないだろうが、思考を発言する動画となると事情は変わるだろう。
友人とどっか行く動画とか撮ったら楽しいだろうなあと思う反面、鶴の人の出現で一番、鶴の人と元奥さんレベルで変化したのが私と友人との関係なような気がするのだ。
鶴の人の存在はM氏にも伝えてある、M氏は単に私とエロとを結びつけるのが非常に苦痛を伴うので、もう普通に鶴の人の存在を認知している、迎合はしていないがごくごく当たり前の事として芸術関連の人で尚且つ恋人といえばあの人、というくらいには認知している、その位M氏との軸が離れているのだ、善くも悪くも元からかけ離れている関係なのだ。
鶴の人の出現で変わったのは友人との仲のような気がする、以前は「心理的に」溶け合ったような関係だったのだが、鶴の人の出現で私という人間の軸を知ったようで、なんだか変わってしまった。
いろいろ語り合った事は沢山在ったのだ、この10年、結構沢山のことを語り合ってきたのだ、二人で語り合った事は演劇を含めた包括的芸術というものを好み、参加している人にとってわりと重要だったように思う。
その重要な事を、空気感を交えて、字幕を添えて小一時間の映像作品にしたらすごく他者に伝わるだろうなと思ったのだ、こんな風に長文を敷き詰めるように書くよりももっと伝わるだろう。
私たちは未来について語り合っていたから。
そうなのだ、私が、自分の事を他者と絡めて私たちと称するその時って、自分と友人を言うのだ。
「あの時」というものをそのまま作品に出来たらどんなに素晴らしいだろうか、これまで沢山会ってきたのに、未来への決意や言葉がまだ未完了のままだ、悲しい。
悲しいのは何に対してだろうか?
自分の選択や他者の出現でどうしたって関係性は変化して行く、その閃きと、新しい機械やメディアへの対応が噛み合わなかったのが悲しいのだ。

 

YouTubeを見る目的
あとYouTubeに関して思うのは、YouTubeを自分が見る時に、一体何を見ているのかと言うこと。
何をどのような感覚で見ているのかと言うこと。
真面目なものを見たいのか、馬鹿らしいものを見たいのか、息抜きに見たいのか、ただ単に面白い音楽を聴きたいが為に垂れ流しているのか…。
自分がYouTubeを見聞きするもののうち一番を占めるのが音楽である、しかも「よくわからない」音楽、アフリカの現地の音楽とか、カンドンブレ音楽(宗教)、ユダヤ人の祭典、少数民族の生活とか、よくわからない国の人のアップロードした、よくわからない国の言葉の、よくわからない人たちの日常みたいなものが見える動画を見ている。
…もう全然箸にも棒にもかからないような、そういうものばかり好き好んで見ている気がする、音楽はジャズ音楽も流すが、それとて特段はっとするものがなければ小さく流しているだけで特段有り難みは無い。
つまり真面目に語る要素などを私すら、選んで観たりしていないのだ…。
馬鹿系の物を見やすいという心理が、普段生真面目な人に程働くようだが、私もこれに該当するのではないかとギクっとした、だったら自分で発信するものをいくら頑張って作り込んでも、他の誰かには垂れ流されるのがオチという悲しい図式が見えてくる。

 

垂れ流し系で思いつくのは…自然の庭土での、小さい虫たちの活動とかも動画に撮りたいのだ、朝、アメリカンブルーの花にやってくる小さな小さな蜜蜂の健気さ、多肉植物園と称する庭植物の合間を、あたかもジャングルの合間を縫う生き物のように動く、ダンゴムシやアリといった数多の虫たち。
植物世界と小さな虫たち…これを拡大カメラで延々と撮りたい、静かな音楽とかを合わせて垂れ流し作品にしたい…という妄想の最中に思う、これを食事中に観た誰かが「キモいものを見せないで」というコメントを残して行くまでがYouTubeなのだと。
極小生物たちの世界、どう考えても私には可愛いが、私の父親には嫌悪感を生じさせるだけの代物だろう。
リラックス作品になるようなもの…等とむりやり考えるともう駄目だ、やっぱり好きなものを撮りたい、好きなものを好きに発信したい、しかし私の好きなものがあまりにも人畜無害過ぎる上、一体どの検索ワードでなら辿り着けるのか当の私自身もわからない、そういうよくわからい明確化されていないジャンルのものは…多分誰も見に来ないだろうという明確な予想だけはついている。

 

では撮影の視点で、自分がどのような驚きを得ているのか、日々どのような時に新鮮な驚きが生じるのかを考えてみよう…これは歩いている時や自然の中に居るときだ。
でもこうして一人きりで自分と会話?している時にも驚くことが多々ある、しかし喋るのが下手なのでそれを映像にあげるのはちょっと抵抗がある。
…ただ、改めて思うのは、どんどん時代は変化してゆくのだなということ、それも、なんだか私の良い方に変わっていっているのではないかということ。
個人個人で生きている人が好きに発信出来るジャンルが、芸術社交界という村社会以外にもあるということ…これって本当は結構凄い事なのだ。
携帯式ビデオカメラについて調べてくれたのはM氏である、編集のやり方、取っつき方とかも教えてもらう事にする。
ギャラリーについて散々罵ったが、これは芸術村を罵ったのであって、数多のギャラリー及びギャラリー喫茶店を罵ったのではないと明記しておく。
繰り返しになるが、展示もしたいと思っているのだこれでも。

 

閉じた世界というよりも、実物が在るという感覚、これって結構重要だと思うのだ、このためだけに展示をしたいとは思っている。

 

内職+YouTubeで目指せパート代…目的ってこれじゃないのだが、目的に副産物があるほうが楽しそうである。
植物と虫及び、ミシンのメカニカルな美しさも延々と、ミニマルな音楽と共に撮って映像作品化したい…一体どの層が観るのか全く不明なので、自分の撮りたいものをピックアップしてみても、どう考えても収益というレベルまで行かない気しかしないが、それでも、新しい何かを自分でやるのって楽しいものである。
ゴープロは9月末日頃に次の機種が出るようなので、それまでは妄想だけ好きに膨らませるとしよう。