散文の自画像 

創作魂を持つ大熊という人間が、散文で日々の自画像を綴る文章ブログです。

悪人正機と悪魔ロベルト(悪魔ロバート)の物語


悪魔ロベルトの物語

(悪魔ロバート 英:ロバート、仏:ロベール)

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

中世の西洋、とある大貴族の奥方が不妊に悩み、神様に子供が授かるよう来る日も来る日も神に祈っていた。
しかし子供は授からなかった、奥方は打ちひしがれ、縋るような想いである日悪魔に祈ってしまった、子供を授かりますように、皆のためにも子供を授かりますように…。
そして奥方は懐妊し、ロベルトという息子が周囲の祝福に包まれて生まれてきたのだが…。
ロベルトはまさに悪魔の申し子で、何不自由ない環境にあったにも関わらず幼い頃から暴力的で教師を殺したり、青年になる頃には徒党を組んで放火や殺人や暴行に耽っていた、それだけが彼の生まれついての楽しみごとであった。
彼を止める事は誰にも出来なかった、大貴族である上、腕力でも行動力(あるいは知力)でも彼を凌ぐものが居なかったのだ、そういうわけで悪魔の子であるロベルトは、自分の本性を知らぬまま蛮行に首まで浸かっていた。
人々は彼の事を悪魔ロベルトと呼び、恐れおののいていた。

 

蛮行の渦中に在るとき、ふと、悪魔ロベルトは自分自身に違和感を覚える。
自分の性分は何故こんなにもねじ曲っているのだろうか?
あるいは、何故自分は世の中の概念にはそぐわない性質を帯びているのだろうか?
もし自分の素性に隠された要素があるのならばそれを知りたい。
「自分が『破壊的な行いをする』のは本当に自分だけのせいなのだろうか?自分が悪い事をしたのは本当に自分だけのせいなのだろうか?自分だけが地獄に行けばそれで済むのだろうか?」
悪魔ロベルトと揶揄される自分が、何故悪魔なのかの根本的な理由を知りたいと思い彼は母の元へ行き、一心に問うた、「自分は一体何なのか?どうしてこんな風に生まれついているのか?何か知っているのならば教えて欲しい」、ロベルトの真剣な問いに母親は答えた。
「正直に言うわね、お前が生まれるその前に、悪魔に祈ってしまった、何としてでも子供を授かることが自分にとっても周囲にとっても善なることだったから」

 

その答えが悪魔ロベルトを突き動かした、ロベルトはそこに何かを見いだし、ローマ法王の下へと赴きやむにやまれぬ想いを胸に頭を垂れて言った、「改心したい」、そして全てを懺悔する。
ロベルトはその懺悔によって天使に触れ、生まれて初めて神に触れた、生まれるより以前から悪のただ中にあった彼が、泥沼の中から神に自ら手を伸ばすというただならぬ魂の行いをしたのだ。
その魂の行いが彼自身に「報い」、ロベルトはその瞬間に「救われた」のだった。
かくして悪魔ロベルトは聖霊に満たされて名実共に貴公子ロベルトとなり、街に攻め入る敵と果敢に戦う勇猛な貴族の長となって、やがて世にも美しい姫君を娶って子供たちと幸せに豊かに暮らし、死後、数多の人々を見守る聖人となった。

(参考資料:①世界終末戦争/マリオバルガスリョサ著、②ウィキペディア「悪魔ロバート」より)

※この話は上記の資料を参考に書いたものである。

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報われるということの意味

…え?
ロベルトに殺された人とかはどうなるの?
彼等の恨みは晴らされないのだろうか?
幼い頃の私が悪魔ロベルトの物語を読んだら真っ先にこう思っただろう、確かにこの話には「陰惨ないじめ行為をしていたサディスティックな屑のような人間が、幸せに繁殖しながら生きている」というような因果応報の矛盾を突きつけられるような感覚が生じる。
キリスト教の思想の中にはあまりにも不条理な物事が沢山見て取れる、救われる人は救われ、救われない人は救われない、一般的に言う因果応報を飛び越えたところに神の意志はあって、神の御手に触れたものは目が開け、その時に罪は帳消しとなる。
罪の行為をしていた「時間や数」に比例して罪が科せられ、償いをする等という人間的な物差しはここでは起動せず、全て「質」で測られる。
質に於いて罪以上の光を「観た、観測した」のであれば罪はたちどころに消える、償いというものはその実自己観測なのだ、自分を悪人であると観測する事にある。
よって質がその罪を超えたらその瞬間に悪人は聖人となり、聖人となったら神の愛を常に関知するため、愛すべき対象にすらなる。
感覚的に納得がいこうがいくまいが、確かにこのような摂理は実在している。

 

子供時代に私を襲ったロリコン気質の男(たち)も、今はさぞかし楽しく暮らしていることだろう、現実って確かにこんなものなのだ。
彼等が楽しく暮らしていない場合はもっと事態は深刻で、彼等のフラストレーションとなるさらなる生け贄、生殖器を出し入れするためだけの供物となる子供が泣きを見ることになる。
だから悪人の改心を祝う心というのは本当は…必要な気がしている。
ニュアンスが難しいのだが、これを簡単に「悪人を許す」と言ってしまうとだいぶ語弊がある、厳密には「悪人の改心を尊重する」に近い。
さらに言うと「悪人とは自分も含めて」であるということ、だから悪人の改心を尊重するぶんだけ自分の改心も尊重するという事。
私はこの点を個人哲学に於いて実は結構重要視していて、上手く言い表せないのだが…一条の光というものがもたらす奇跡のようなものを本人が求めた場合には、誰もそれを阻害してはならないと考えている、それが自分に実害を「過去に」与えた相手だったとしても、情けない自分自身だったとしても。

 

ここで追求したいのは、果たして悪人を、およそ古今東西の誰が観てもわかるような「子供を性的な道具にする」といった「蛮行」に何故向かわせたのかということ。
悪人にその衝動が宿っていたのは果たして悪人だけで自己完結するような罪の話なのだろうかということ。
小児性愛を例にとるならば、その衝動に社会的な理由があるとすれば、大人と対峙する事や、自分が強い側でないと駄目だという究極的な意味でのプレッシャーに行き着くのだろう。
ではそういう社会を作り上げてきた人々は、そのような気質を作り上げた人々は、そのような遺伝子を作り出した人々は…本当に個人の尊厳というものを考えてきたのだろうか?
そしてこうした現実の事象以上に、人間からは観測不可能なエッセンスが混ざって、悪人を悪人たらしめる行為へと駆り立ててしまう。
勿論悪行をやると決めたのは本人であるが、その衝動を植え付けたのは本人だけのせいではないだろう。
だから悪行を許せとは言わない、悪人を許せとも思わないが、悪人の改心や彼そのものは尊重するしかないのだ。
それって酷くない?
それって何も報われないのでは?
その通り、この世は酷いし報われない、報われたければ尊重するよりほか近道はないのだ。
報いというのは地べたに引きずり降ろす事ではなくて、召し上げられる事こそを言うのだから。

 

悪人正機について

さて、日蓮宗にも(浄土真宗にも)悪人正機という概念があって、小さい頃の私は憤慨した。
悪人の改心、悪人が自分自身の悪行を素直に見つめたその瞬間の精神の光こそが、仏教の教えの真髄であるというこの文句に私は子供ながらに地団駄を踏んだ。
自分はこんな目に遭っているのに何故、悪行をした彼等の方が教理的に救われる価値のある人間なのか子供だった当時にはわからなかったのだ。
当時は悪行ということや悪人というものを、言葉通りのままに受け取っていた為に、自分よりも自分をゴミのように扱った大人の男が何故仏に近いのかと、幼心に絶望したものだった。
「因果応報っていうのは何だったのか?」
それについて創価学会では、善行を「積む」と確かに真実の道を歩めるといった「勤行の時間」等の観測による善行を提示していた、勤行は「積める」のだと説いていた。
善行が何かわからないから善行を成すということが甚だ難しいのであって、この世で唯一善行だと解るのが勤行、つまり祈りであるので一心に祈ることこそが大いなる善行である、という教理であったと記憶している。
因果応報についての事を突き詰めようとしたって無駄なのだから、闇雲に過去…つまり先祖「だけ」を崇めるような事をすべきではなく、先祖を敬うのは大いに結構だが、自ら、今このときに善行を成すべしという三色旗の教えを受け、私も祈った、願いではなく、ただ一心に祈った。
因果応報概念の困ったところは善行とはなんぞやという事にある。
善を成せばそれが報いる、悪を成せばそれが報いる…でも善がわからない、善がわからないのならば何が善なのか悪なのかもわからずに我々人間は行為し、生きている為、その多く…つまり自分も悪人であるということを感覚的に理解したのは大人に成ってからだ。

 

悪魔ロベルトは悪人正機の物語である

悪魔ロベルトの母君にしたって、善なるものが何かわからずにいたのでとにかく子供が欲しい、「組織の善の為」にも子供が欲しいと願って縋ったのだ、子供を産むことが彼女にとっては一時的な善だった、彼女は自分では善行をしていたのだ…最早ここには祈りであるのか願いであるのかの違いは薄い。
悪魔ロベルトの母親は善人だろうか?
悪人だろうか?
ここでの解釈は、悪魔ロベルトの母親は悪人であるというのが明確な答えなのだ、一般的な理屈ではおかしいだろうが悪魔ロベルトの母親は悪人なのである、願いと祈りの差を理解せずに居た無知こそが彼女の悪である。
根源的な光に触れた時の衝動ではないものを願った彼女は、悪人なのだ、根源的な善悪を見極めることが出来ない人は皆悪人なのだ。
では彼女をそのような悪人にしたのは誰なのか?それは社会風潮や周りの人の「善意」すらも根源的な尊重が欠けていたため、悪意でしかなった、よってそれは社会全ての責任なのである。
即ち悪魔ロベルトを悪魔にしたのは母親のせいで在り、その母親を集団的な独善に向かわせたのは夫を含めた周囲の人であり…よって悪魔ロベルトの蛮行の責任の一端は、究極的にはこの話を知った私すらも、この話に於ける悪を引き受けねばならないという事、それが悪魔ロベルトの物語なのだと私は思う。

 

こういう問いもあるだろう、「何もしていないのに何かした人の責任を引き受けねばならないのはおかしいんじゃないの?」
しかし自分がこの世の一部である限り、この世で起きる事象の一端は自分の影響を帯びているというのが真相なのだ。
悪魔ロベルトの話の真髄はここにあるのだ。
だからこそ神に祈っていた悪魔ロベルトの母親すらも悪人なのである。

 

こんなおかしい世界を作りたもうた神は無慈悲なのか?
悪魔や悪意すらをも作り出した神は無慈悲なのだろうか?
悪魔に祈るということは、神が全能ならばその実神に祈ることと同義ではないのか?
確かに神はこちらから観測する限り無慈悲だ、神は人格を有さない、神は法則であってただいつもそこに居て作動している、改心して光に触れるのを諸手を広げて待っているとも言える、そこに向かわないという選択肢をしている以上、悪人、というわけなのである。
じゃあ光に触れるような改心や大いなる内省体験というものは本当に傍目にわかるような変貌をもたらすのかというとそうでもないのがこの世の難しいところで、人畜無害そうに見える悪人が善人に成り代わり、自他をそれとなく尊重していたとしても誰も気がつかない、ただ神だけがそれに常に気付いている…それに呼応するのが祈りである。
単に根源的に呼応する事を祈りと捉えるのならば、わかりやすく祈る必要すらない、天使祝詞法華経も必要無い、しかしこのような物理世界の不条理に晒されて心がすさぶというのであれば祈らないよりも祈った方がよいと私は考える。
願いではない、確かに祈りは…真髄に触れたいという叫びであり、手を広げて観測しつづける法則の呼応だと思うから。

 

因果応報概念に於ける善の捉えどころの無さ

じゃあ願ってはならないのか?
子供が欲しいと言う願いも純粋なものだったはず、純粋な願いというものを願ってはいけないのか?というとそうではないが、それは単に自分の航海に於ける目標地点であって、祈りではないように思う。
引き寄せの法則とか、自己責任とか色々とあるが、自分の願いだけが叶うといいというスタンスの概念には私は…何やら薄ら寒いものを感じる。
子供の頃から順位ありきの世界で育つと、最早「人が漠然とただ居る」ということを誰も知らない状態になるのだ、学校教育の全てが悪いとは言わないがその弊害はすさまじいものだろう。
何もしてこなかったのは自分のせいだよね、何か成し得たのは自分の努力のお陰だよね、良い学校に行けたのは自分と、自分を引き寄せた家族だけのお陰、富裕層に居られるのは自分と、その境遇を作り出した人々の意識が共鳴したお陰。
良いことが起きたのは自分の引き寄せのお陰、悪いことが起きないようにいつでも良いことを思い浮かべて過ごすのが精神の高さ、自業自得っていうのは当たり前の原理…なのだろうか?
本当にそうだろうか?
因果応報を全否定するつもりはないが、そこには多分に湾曲された善が入り込んでいて、この善のせいで余計に世の中に悪人が増えているというのが現状だと思う。
私は資本主義をぶっ壊したいとかは思っていないが、無駄な仕事のせいで無駄な事を願う人が増え、結果的に食べ物も衣類も大量に捨てられ、また狂ったように作り出されているという現状を考えると、果たしてこの世の中で「働いて家庭を作って楽しく生きる」などということが、心底ねじ曲っているように思えてならない時がある。
殺人や戦争を肯定しているわけではない、ただ、この狂った糸調子を鎮める為には一度破壊が起きないとならないのかもしれないとは感じている。
この破壊を免れる方法があるとすれば、破壊行為をしている人を含め、自分自身の悪人正機を是とすること…何が善であり何が悪かはさっぱりわからないのだと静かに考えるようにしている。
そうすると気持ちがクリアになり、無駄に働いて無駄に消費するよりも静かに小食に生きるのが理にかなっていると思えてくる、思えてくるだけであってこれすら意味不明の事象に過ぎないというのが本当の所なのだが。

 

自己完結域の確立=個人の思想や思惟の尊重

私は自己完結域というものを頭に描いていて、何か物事が生じた時や自分に課題が降りてくる時には立場や世論よりも自分の考えを先ず書き出すということを自分に課しているが、この言葉もちょっと語弊を生む。
自己完結域というのは自己責任と似ている言葉だが、私は個人の思惟の尊重という意味で使用している。
自己完結域というものを美しい言葉で言うとすれば、誰が何を思っていてもいい、理解と賛同は別、賛同と愛着も別…個人を尊重したい、ということである。
だから私が自分の考えを自分で突き詰めれば突き詰めるほど、それに賛同しない人の意見も「それをその人が考えている」ということを含めて尊重せねばならないということになる。
特段私には論争をしたいという欲求は無いので、私の捏ねる理屈に不賛同であっても構わないのだ。
私が不賛同であっても自己責任論が大好きな人のその思想を破壊するつもりは毛頭無い、引き寄せの法則をまるで有り難い法華経の教えとでも言わんばかりに持ち上げている人の思想を「今すぐ止めろ」と言いたいわけでもない、でもそれらに「全く賛同出来ないし、疑問もある、」ということを、まるで「自分さえよければそれでいい」という風に掲げるのである。
全く逆説的だが、「世の中の全部に対して責任がある」という意見を「自分本位な」感覚で掲げており、だからこそ相対するような意見の人の「掲げているという行為や思想」をも、是としている。
これを説明するのに全く手間取らずに「ごくごく当たり前の事」として実質一秒かからないくらいで頷く人と、全く理解不能なので何度も「でもあの時君はああ言っていたよね???」と蒸し返してくる人が居て、言葉というものの限界をこれまでにも結構感じてきた。
賛同せずに相手の言うことを根源的な意図で理解するということは、確かに私にも難しい事が多々在るのだ、これこそが根源的な愛と言うべきものだと私は思うので、愛の心が私にも欲しいと思っている。

 

悪人正機の物語に於ける悪事の責任と世の悪事を防ぐ方法

現代に於ける悪魔ロベルトは至る所に居る、現代古代、特に時空間を問わず悪魔ロベルトは何処にだって居る、悪魔ロベルトすら自分自身なのだから。
そして悪魔ロベルトの蛮行は、それを観測した誰かのせいでもあるのだ、観測というのは実際に見聞きしたという以上に、知覚出来ないような「何か」に関してすら、そこに自分も加担しているという事。
んな馬鹿な、と思うかも知れないがそうなのだ、世の中で生じるありとあらゆる蛮行…京都アニメーションをガソリンで放火するとか、何処かの国で大勢の人を監禁するとか、ロヒンギャ難民とか、そのような物事にすら自分は一枚噛んでいるというのが真相なのだと私は思う。
数多の場所に自分の影響は確かにあるという点では、全く不可思議なのだが、この宇宙、あるいはこの宇宙を超えた数多の場所に既に自分は実在するのだという事に辿り着く。
草にも、道ばたの石ころにも、初対面の人にも、駅で独り言を延々と言っている誰かのその影の中にも、糸にも、100年前の美術品にも宇宙物質にも自分は実在する。
この世を構成しているうちの一部である以上責任逃れなど到底不可能な世界、おかしな世界。

 

この世は神の実在と言うよりも自分の実在の現れなのだ。
私が悪魔ロベルトの話に深く感銘を受けたのは、他人の喜びや苦しみにも自分が関与しているという点に於いてと自分と他者の思惟を全く矛盾無く重んじた方が世の中が上手くいくという点である。

 

もし、これを読んでいる方の中に(一体どのような人が読んでいるのか2名以外は全くわからないが)、何かもどかしさや悲しみや苦しみがあって、たとえそれがこの私の生まれるよりも前、ならびに当人の代よりも以前から続くものであったとしても、その不条理について私は言いたい、それは私の責任でもある。

 

それがこの世の真髄だと私は感じている。

 

あなたの苦しみは私の責任でもある、だからあなたが思索して本来の自分自身に成ろうとする思考を私は是とすると、私は、数多の人…数多の悪魔ロベルトに言いたい。