散文の自画像 

創作魂を持つ大熊という人間が、散文で日々の自画像を綴る文章ブログです。

自己完結域の大海原


船は海原を進んでいる、この航海が終わる頃には私は沖に漂う一つの骨となっているはずだ。
雀除けの紅や銀に煌めくテープはまるで出航時の色とりどりの紙テープみたいだ、庭の向こうに広がる風景は暴風雨の影響もあって尚のこと海面のように見える。
まるで船の上に居るみたいだと私は思う。

 

少し抽象的な話になるが、意識の限界という地点、その海域に網を投げ入れ、自己海域にしたい。
三次元上でそれをやったらただの独裁者だが、自己認識に於いて、自分自身の『自己完結域』とでも言うべき自己海域を広げたいと思う。
『そこ』ではどんなに広範囲に及んでも、私自身が消滅することもなければ誰かの海域を奪うこともない。
本当は、奪うことなど不可能で、だからこそ自分という認識を広げるということは容易いと、私は繰り返し唱える、これが呪いの防波堤になるのだ、これが魔術の軸になるのだ、創作とは魔術だ。

 

自己完結域の網は一本の糸で縫われている、網同士が触れ合う地点は確かに各所に存在する、それは主に夢の領域に於いてだった。
夢は余すところなく全て海水である。
その海水に絵が描けるだろうか?
目的地を描くことが可能だろうか?
その絵の場所にもう来ている、という絵を目にする機会が、絵の多さに反して少ないのは自己完結域の存在を知らずに描いている人が多々居るからだろうと私は頷く。
経歴といったものは特に自己完結域という概念と相対するもので、人間社会の中の一点が自分であるという認識下の元描かれた絵には海水は一滴も含まれない。
私が、展示された絵というものを観て大抵の場合苦しさを感じるのはまさにこの部分で、絵から海水が溢れている作品の少なさを思うと果てしない悲しみを覚える。
絵も、順位や評価の元にがんじがらめになっているのだと思うと、絵を描くよりも寝ていた方がずっと創造的だとすら思う事がある。

 

突発的な事件で、私の自己完結領域に穴が空き、そこから他者の呻きが聞こえてようやく、私は多くの人の言う畏れやタブーというものの実在を知った。
こんなこと言ったらいけないよ、あんなことやったらいけないよ、それは恐ろしい事だ、自分の概念を具現化するだなんて恐ろしい事だ。
私は長年解らずに居た、例えば待合室で絵を抱えているときに何故気恥ずかしさを感じるのか、何故それをタブーだと『感じさせられて』いる気分に陥っているのかが解らずに居た。
この気恥ずかしさとタブー認識により、魂の自由度が下がり、元来善悪の何処にも属さない行いが断絶され、絵というものがつまらなくなっているということ…これが私だけの問題でないことを気付いてはいた。
この気恥ずかしさとタブーを乗り越えた先に本当の解答があるとおよそ誰もが解っているであろう事も、気付いてはいた。
この気恥ずかしさとタブーを、何の恨みもなく乗り越えた先というのこそが、航海の目的地であることも、きっと世の中の全員が知っているはずだ。
これを邪魔するものは何かというと、それが自己完結域の狭さ…なのだ。

 

自己完結「域」、と言う言葉は昨日、情夫である鶴の人と話しているときに出てきた言葉だった。
「自分が集団の中で絶対に正しいっていう認識の人がいてさ、俺は表面上は合わせられるけど、おかしい人だから関わり合いにはなりたくないな、バイトの子に、生きてるの楽しい?って聞いたりしたんだよ…東京の人間が皆ああじゃないからって俺は言ったけど…俺は彼とは合わないなあ」
あれ?…私も、自分が正しいってほぼ思いながら生きているけれど。
私も、自分の生き方についてそれとなく見下してくる相手に対してはいつも、あんた生きてて楽しい?って結構普通に思っているほうではあるけれど。
恥ずかしながら私もかなり独善的な気質の持ち主だ、しかし件の彼とは似て非なる状態ではある。
鶴の人の話にあがる彼の独善と私の独善との違いって一体何なのだろうか?
何故鶴の人は集団の中の独善を許せずにいて、私が、子供時代に宗教を辞めたときから胸に宿っている究極的な個人的独善は許せるのだろうか?
その違いは何か?
きっとそれこそが、自己完結しているか否か、なのだ。
「俺はその人と意見を戦わせたりはしたくないから、話もしたくないんだ、だってそういうエネルギーは仕事に使いたいからね…」
自己完結にも欠点がある、集団性や社会性が皆無という点だ、だからこそ自己完結『域』を広げたいと思った。
それこそが呪いや不自由さを無効化するはたらきがあるから。

 

自己完結域という概念が強いと、誰が何を言ってもあまり気にしなくなる一方で、自分の「発言」や「表現」や「生き方そのもの」を社会的な立場で強く否定されたり、意図せず封じ込めてきたりする相手に強い反発を覚えるようになり、善悪の基準個人の自由度に設けられるので道徳概念が社会のそれとはズレてくる。
その反発や不自由さから逃れる為には、実質、自己海域を広げるより他手立ては無い。

 

集団認識概念で生きている場合…つまり自己完結域という概念が弱いか、もしくは薄いかの場合、社会的な善悪や階級がその人の軸になる、皆が「繋がってすぐ隣にいる」という認識なので、自分の辛さは誰かの辛さだったり、はたまた誰かの喜びは自分の苦しみになったりする…農耕社会がそうさせるのか、日本はこの概念が強いように思う。(だから恵まれたように見える弱者は殊更叩かれる、そうすると自分に幸福が巡ってくるという認識があるから)
よって我慢は美徳になり、発露させることを何より抑制する、最早善悪というものからかけ離れているのだが…私がそれを危惧するのはこのはたらきが創造性とは真逆だからだ。
しかし半数以上(半数以上と言えども厳密には丁度60%くらいだろう)の認識では、自己完結域が薄い、集団認識概念の状態だと思う。
だからこそ、実は個人完結型の独善よりも、集団に於ける「自分が正義だ」という叫びの方が…風土的にはいくぶん常識的でさえあるのかもしれない。

 

自己完結域の薄い人が、特に件の彼のようにその集団の中で自分が正義だと叫ぶことは、常に周囲の人と自分を比べながら跳びはねているようなものであって、精神体力的にもかなり消耗する状態だろう。
私は気になって鶴の人に聞いた、「その人、お酒とかに溺れてない?」、聞くと件の彼は毎晩飲んでいるらしい、酔い方がちょっと嫌な酔い方だったとも。
おかしい話かもしれないが、集団認識概念で独善的な人の場合、自分の善意を極度に感じられる状態こそを自分のハードルとして掲げている事があるのではなかろうか?私はちょっとその人が気になった。
そのハードルを乗り越えられないと感じた場合、多分、そういう人ほど自分を責めるだろうとも思う。
傍目には全く不可解に見えるかもしれないが、「君って生きてて楽しいの?」という言葉が単なる仕返しの言葉として発せられたのでもなく、自発的に他者に対して発言された場合、その言葉の裏には一方的ではあれど他者を救いたいという気持ちと、自分への責務が混在しており、そのような人ほど自分に厳しいと感じた。
自分が自分のハードルを越えられない時…例えば単にテンションが低い時、やる気が無いとき…そういう時の自分を許せずにいる可能性がある。
全く以て勝手極まりない憶測だが、彼、アル中なんじゃないかという気がした、仮にアル中だったら何なんだという話であるのだが、何故だか不憫になった。
似ている部分もあるのでその人が不憫になったのだ、勿論、接触したら真っ向から反発が起こる相手だとは思うが。
独善の性質が違いすぎて話が一ミリも噛み合わない相手だとは思うが。

 

さて、鶴の人の元奥さんに私は自分の絵を描かれているが、それを「自己認識の薄い」状態で、「他者と自分とが繋がっている」という認識下で鑑賞した場合、確かに呪いとして発動するだろう。
その認識下に於いては恨まれることというのはやらないほうがいいし、在る地点に於いては呪われるなんて恐ろしい事だ。
だが、彼女が、自分自身を彼女自身の母親に投影しているという事は…好いた男に浮気されるという物事の真実が彼女自身の家系的な影への挑戦であることは、実際の道徳概念に照らし合わせている限り見えては来ない。
集団認識概念で観れば、浮気とは害悪であり、浮気をして良い思いをするということはその分の幸福が差し引かれると言うことなのだ、確かにこの概念で観ればそれ以外の解釈は出来ないし、秘かに怒った嫁が相手の女をそれとなく呪うという行為も「現実の事として」観測可能である。
ただし、その彼女自身がどのような物語を生きて、どのような地点でのカタルシスを望んでいたかという秘かな願望までは集団認識概念という眼鏡をかけていると観ることが出来ない。
彼女が、実のところは自分の母親…夫に浮気されても為す術もなくただ付き従って恨み言を言って過ごしたという母親、その母親に自分が「成り代わって、浮気男とさっさと別れて自分自身の人生を歩む」という演目を、ただひたすら念じていたことは、自己完結域という瞳で相手を素直に観測しない事には見えてこない。
本当は、彼女が描いている「醜い女」というものは、彼女の母親の恋敵に当たる人物の影であることは…傍目にはわからない。
彼女にとって、私も鶴の人も単なる登場人物のうちの一人に過ぎないとわかれば、呪いは発動しない。

 

私にとってみれば、彼女が浮気されたのは彼女が浮気されるということに挑戦したいからであり、母の不名誉と、その不名誉への反発、克服への道のりの一つなのだと解る。
異性関係の恨みというものは本当は実在しないと、彼女も本質的には知っているだろう、夢で繋がる糸には善悪など無いのだから。
夢で時たま繋がる時には驚くが、だからこそ自作自演的な挑戦であったことがわかるのだ、もっとも、これも至極勝手な解釈でしかないのだが。
だからこそ私は彼女に、描くのをやめろとは言わない、勿論、視点が違いすぎてこれまた話など一ミリも噛み合わないだろうが。

 

真意というものは片隅に退けられ、まるで無いもののように扱われる。
海水など無いかのように、個人の広大無辺な網など無いかのように。

 

私が感じる不自由さに、先生に絵を持って行くのが「悪いこと、タブー」のような感覚に陥るというものがあるが、それも集団認識概念で言えば「個人の楽しみを立場を超えて唐突に開示する」ということへのタブーなのだと解る。
先生に見せる絵というものがどうして自由なのかというと、集団認識概念を超えて、航海の目的地に辿り着く事が現実的に可能だと解るあの一点を、絵に落とし込めるから、自由で楽しいのだ。
傍目には医師に依存した患者のようにしか見えないだろう。
集団認識概念の眼鏡からは、それこそ「想いは重い」ので、想いというものは「恐ろしく」、また「誰かに与えた分だけ誰かが削られる」ものであるので、患者が夢中になって絵を描くということすら、酷く観にくいものとして認識されるだろう。
わきまえなさいと諭される物事なのだろう。
一点で目的地を表せるという事や、その場所に辿り着けるという個人的真実は傍目にはそれこそ呪いのように映るだろう。
恥ずかしい振る舞いのように映るだろう、私の内側にも無論この視点はある、この色眼鏡はある、だが真実ではない。
この世の常識とかけ離れた真実、航海の目的地へ行けるので、何故だか彼に絵を見せるのは楽しいのだ、男女だから、惚れていたからというのはそこまで関係ないのだと感じている。

 

集団認識概念は悪いものではないが、その砂地に首まで浸かっている場合、特にその中での序列で物事を考えている場合には、一つとても危惧すべき事がある。
その場合、想いは重く、唐突に他者同士が組織を超えて繋がる事は罪で、呪いというものが実際に「双方意図せずに」発動してしまうという点である。
意識が「ほとんど独立せず繋がっている状態」を「信じている」人の場合、呪いや恨みというものや想いすらも危険なものになると思う。

 

私は想いの強さや一点に物事が集約される瞬間の質量やエネルギー等というものを、極度に重んじているわけではない…が、甘く見てはならないとも感じている。
私の視点から観ると、鶴の人の元奥さんは私を明確に呪っているのではなくて、単に自分自身の叙事詩を描いているのだと解る、だからこそ呪いは発動しない、表面上でどんなに「一般的な道徳では正当な理由で」恨まれていても、本人の真意が本当は「自分自身の克服」というテーマに沿っているとしか「私には、それ以外に認識できない」ので、呪いは発動しない。
夢でどんなに凝視されてもその実、それが古代の、王族が魔を滅ぼすという物語の一端であり、吟遊のうちの一つであるとわかるので呪われてもそれが発動したりはしない。
一方で傍目に私が奇異でも、個人的視点の中で生きている先生にはそれがおぞましいことにはならない、だから絵を開示出来たのだと思う。
社会的な事件でも、滅多なことを言うなとか、感情を煽られるのを極度に恐れる人がいて私には不可解だったのだがようやく理解出来た。
その人たちは集団認識概念の中で、独自意識よりも他者と意識の大半を共有しているという概念で生きているので、呪いや呪詛や特段相手不在の暴言が「実際に本当に」恐ろしかったのだ。
誰かが怒ると言うことが、自分の怒りに繋がるということを信じているから極度に怖がっていたのだろう。

 

集団認識概念の中で生きている人にしてみれば、本質的に繋がり、感情までもが引き摺られてしまうことを恐れて、個人的真実に於ける感情までもを抑えているのだろう。
しかし感情の本質は喜びで在ると私は思う、だから喜びの感情までもが、絵から排除されるまでに至っているのだ、絵を観て苦しいと感じるのはこの事が理由だったのだ
私は独善的な人間であるので、個人的視点や自己完結域を広げるとか、精神領域に於いて投網して自分の領域をある意味で守りながら広げるということが創作の軸だと思っている。
実はこれこそが、呪いならぬ、魔術的作業であることは自覚している。
だからタブーなのだろうか?
それが魔術的作業だと解る人が、私の気配を怖がるのだろうか?
理屈が通じないということが、おぞましさを呼び起こすのだろうか?
私とて、万人に好かれることは出来ないが、それでも言いたい、精神の海域には果てが無いのだと。
自分が普段自分だと認識している領域など、海の水の一滴くらいなものだろうと。
元奥さんが魔を倒す若き王の物語を生きているのならば、先生は天真爛漫な少年である、だから私を怖がらない、そして私はいつも船で旅をして、模様の小径に入り込んだり熊になって猟銃で撃たれたり撃ったりして、その物語を都度ごとに唄にして知らせている老婆だ。

 

船は尚も海原を進んでいる、この航海が終わる頃には私は、また別の新しい私に成りかわっているだろう。
雀除けの紅や銀に煌めくテープはまるで出航時の色とりどりの紙テープみたいだが、私を見送る人はこの世には誰もいない。
この世の誰も、私の真実を鑑賞することは出来ない、それでもその内面的事象や、外部の物事が見事に合致したり動きを見せたときに私は唄を描こう。
こうやって文章にしよう、だから何処までも観測者というものは孤独で、誰の見解も聞き入れない。
庭の向こうに広がる風景は、さながら波立つ稲穂の大海原、小さな小さな大海原。
まるで船の上に居るみたいだ、このような物事を、独善的な私は愛して、信じている。