散文の自画像 

創作魂を持つ大熊という人間が、散文で日々の自画像を綴る文章ブログです。

運針と祖霊


「先ずは玉留め、次は並縫い、これが出来なきゃ手作業は出来ないのよ」
一見シゴキのようにも見えるこの訓練の意図を私は理解している、腱鞘炎になったらおしまいなのだ、二本指で針を持つ、その指だけで針を移動させていたらじきに指が故障する。
鶴の刺繍は出来たけれど、あれを縫っている間の私は確かに三次元世界を飛び越えて彼の行く先々にまで居たのだけれど、それでも手の指は痛くなかったわけじゃない。

 

「腕の力も肩の力も抜くのよ、手首の力も、全部滑らかな緩い状態で針だけが自然と進んで行くようにするのが運針よ」
そう言って講師は肩を回した、「私だって最初から知っていたわけでも何でもないのよ、全部大人に成ってから習って出来た事なのよ」、そして指先だけで運針をする動きを見せ、続けて言った。
「2本の指よりも三本指、指ぬきを使って針を進める方が手の負担が減るの、私も、洋裁を教わったときに先生に言われたものよ、洋裁、和裁、色んな先生にね…とにかく指が慣れなくても、出来ないと思っても、出来るようにするのよ、指ぬきが合わないのならば色んな指ぬきで試して、『何が何でも中指に指ぬきを慣らす事が大事だ~!』…って、私は言われたわ」

 

もっともあなたがどうするかはあなたが決める事だけれど、だけれど何でも簡単に出来ないって言わないで頂戴、やるって決めて頂戴…講師の言わんとする真意が指の先から鋭く放たれて夏の空間を漂った、私は頷いた。

 

確かにその通りだ。
あれから一週間練習した、一週間も並縫いしてたのか?並縫いって小学生の時にやるものだろう?と驚く人もいるだろうが、一方でどうしても指ぬきの使い方がはっきりしないまま…事によると何十年も手芸をやっている人もいると思う、私は指導されている間、夏の教室にて講師の後ろに夥しい数の誰かを見ていた。

 

『やれば出来るよ、出来るって決めたら出来るんだから』

 

講師が直接そう言ったのではない、だが彼女が運針について語ったときに彼女の後ろに夥しい女たちが居て私に微笑んでいるのを確かに感じた。
講師の言葉は、彼女が自分の師匠にあたる人物の言葉を述べたときに彼女個人を超え、他の霊を自らに降ろしているようでもあった、彼女が伝えた手仕事の真意というものは彼女個人を超え、連綿と続く針仕事の集合意識のような部分に触れているようだった。
その集合意識が直接私に微笑みかけていた、私はその意識に向かって頷いた、丸一週間かかっても全くもって私の右中指は指示した通りに動かなかったのだが、それでも私は頷いた。
感動しながら頷いた。

 

何故って、私はこのように「連綿と続く集合意識そのものに教えを賜った」事が今までに一度たりともなかったから、祖霊に物事を教わったことが初めてだったから。

 

連綿と続く集合意識…合わせ鏡のように続く沢山の女たち、老婆たち、見たことのない人々が全く同じ糸と糸とで繋がっている。
私の持つ糸が不意に揺れ、懐かしいような、胸元をきゅっと捕まれているような気持ちにさせる文様を浮かび上がらせる、私は心で叫ぶ、「そこへ連れて行って」、声たちは答える、「お前はもう来ているよ、神様の内側に来ているよ」、帰宅した私は針に糸を通す。

 

この人たちに教わっているのだ、本当はこの人たちに…祖霊たちに皆、教わってきたのだ…!

 

確信めいた気持ちに背中を押され、布と布との間に指を這わせ、指ぬきのついた中指を添える、『そのまま』、無理に中指で押したりしなくていい、そのまま。
講師の後ろに連なるように見えた人々は何も彼女の血縁などではない、事によるとそれよりももっと深い現実に於いての繋がり…人間の文化や伝統というものの真実…針と糸の祖霊たちがそこに確かに『居た』のだ。
祖霊たちはまだそこに『居る』という直感が私を貫いた、現実的にものを教える人というのはその実、巫女なのだということを私は理解した。

 

巫女、と思ったときには運針が出来ていた、並縫いが出来ていた、細かい手の置き場所とか布の持ち方はまだまだ粗雑で、箸を使えるようになった瞬間の外国人レベルだろう。
それでも講師の…巫女の言うことが解った、右中指は敢て針を押したりなんかしない、ただ添えているだけで、左右両方の親指と人差し指とが布を交互させ、針は進んでいる。
すごい!
と思わず力むが腕の力も肩の力も抜く、雑念、巫女様、そしてまた集中、雑念、漠然と浮かぶ力強い文様。
夢の世界、あるいは何処かの地点での私が、纏っている衣装なのだろうか?
人形とは即ち、自分の原型なのだろうか?

 

原型を測り、原型パターンを借り布で作る、暴虐だと私は思う、祖霊は去っている。
暴虐というのは、私は人間なのだがこのように原型を取って寸法を測って『自分の好きな』服を作って貰ったことなんかないから、私どころか世の中の多くの人がそのような機会を逸しているから、この世の服飾って乱雑だ。
そのくせ服だけは野放図に大量に作られ、馬鹿みたいに値下げされて売られ、挙げ句火刑に処されている、最終チェックまで終えた服飾商品が倉庫から焼却炉へ直行する、その質量が毎年どのくらい在るのかわかるだろうか?
魂のない服に死など無い、だがそんなものを売るくらいなら、個人個人が原型を取って、自分の原型パターンを採寸して、それぞれに服をあつらえてもらったほうがよほど経済的とすら言えよう。
祖霊は確かに全く関与出来ない地点からこれらの事象を見ている。
ただ黙って見ているようにこちらからは見えるが、それはこちらが手を伸ばさないから語り合えないのだ。

 

「俺はあの日、呻りながらあやさんの作った鶴の刺繍見てたよ、何かあるんだよね、あやさんのみた夢も…」
好きな男に渡す刺繍というものは、携帯電話みたいなものなのかもしれない、本当は文字にするよりも速く互いに伝わっている。
あれを縫っていたとき、明星よ鶴を照らせと私は無意識に唄っていた、情念、あるいは魂を込めるというのはそういうものなのだ。
あの布の中の鶴が飛んで行くその先までを私は、祖霊となって見つめている、魂が飛ぶときに人は連綿と続く情の中に生きたまま入り込む事が出来る。
「だから大丈夫、この刺繍を持って行って」
きっとこのようなやり取りは古来から行われてきたのだろうと思う、人は第六感でやりとりするものなのだと私は思う。
それは何も男女に限ったことではなくて、割り切れない関係や詩歌の世界に於ける人類愛のようなもので結ばれた関係なのだと思う、実際に対面せずとも祖霊の導きによってその水を飲むことが出来るのだと思う。

 

テクノロジーが進んで、私にはどのような理屈でPCというものが構築され、どのような自然材料を元に一から組み立てられているのかも最早理解出来ない。
理解出来ないもの、分解しても今の私にはハードウェアもソフトウェアの面でも到底把握出来ない仕組みで、世界は繋がっている。
世の中の速さや仕組みに私は、一人だったら到底ついて行く事が出来ない。
でも祖霊に触れるとそういうものがおよそ全部、取るに足らないものだと気付く、本当に本質的にやりとりをしているのは勘の世界であって、勘の世界に沿うように機器が開発されているだけだということに気付く。
そう考えると、世界の動きは…これからどれほどの年月が過ぎようとも、時間経過など本質的には「無い」のと同じなのかもしれない、速くなったように感じているだけなのかもしれない。

 

手の動き、一人の男に渡す情熱の「現在から未来」を含めた吉兆の御守り、それは原始の通信機器なのだ、並縫いはさしずめ原始から連綿と続くメールみたいなものだろう。
並縫いが出来たのよ、祖霊が導いてくれたの、血縁というわけでもないのよ、もっともっと深い物語を聞かせてくれる人たちなの、喜びも苦しみも嫉妬も情欲も入り混じった数多の霊魂とその道筋たち。
おかしいでしょう?
こんなことをしなくったって、世界に衣服は溢れているというのに!

 

『ちっともおかしくなんかないよ』

 

そうね、だって世界に衣服は溢れているけれど、情念の入ったものはそう無いもの、魂の入ったものはそう無いんだもの。
魂の入ったものを作るのはね、魂を揺るがせ、震わせ、『自分が生きている』って誰かに伝えるためのものなの、『死して尚生きている』って伝えるための通信機器なの。
それがどういうことだかわかる?
数多の時間に私の魂は放たれるのよ、死にはしないわ、私はね、祖霊の手が頭に触れたときにわかった、時間というものは本当は同時に存在しているのだって。
祖霊たちが今のこの時空間、この時代を見ている時に感じるのは、神様を刻み込んだ「もの」を、何故敢て足蹴にするのかって事。
それすら、子供の一時的な反発心だと、解っては居るようだけれど…。

 

私は祖霊の意識を泳ぐ、土の上に落ちた叙事詩の刺繍を誰かであるところの私は拾い上げようとする、でもそれは結局焼かれてしまう。
その時の私は、あんまりにも悲しくて「神様が死んでしまった」と叫び、それをやった人に思わず呪詛を吐いてしまう…一つの文様を見て思い浮かんだ事柄を並べれば、それは物語になる。
今は神殺しの時代、でも本当に殺されているのは人のほう。

 

私が本当に作りたいのは、本当に測りたいのは、良い世の中にするためには…魂を震わせるほか無いのだってわかる。
きっと何処かの地点では私は誰かの服を作っていたのだと思う、誰かというのは、共同体の人たちの服を作る女たちの内の一人とか、老婆のうちの一人だったのだろう。
もしかすると私が感じた祖霊たちというのは、その実、理屈を超えた私自身だったりするのだろうか?
教室通いそのものは、「現在の私」からすると苦難の連続のようにすら思えるほどに、原型パターンの把握だとか素人には結構ハードルが高いのだが、それでも基本的には家で、内職の要領で一人で復習をしたり、個人練習に費やしているのでそこまで苦にならない。(これが学校だったら即刻リタイアしていただろうが、個人練習に比率の傾く教室通いは意外なほど楽しい。)
遅々とした進みだが、延々と一人で並縫いしたりすることは禅にも似た喜びがあるように思う。

 

運針の向こう側の祖霊を、私は糸と針とを使って直視している。