散文の自画像 

創作魂を持つ大熊という人間が、散文で日々の自画像を綴る文章ブログです。

足の引っ張り合いと、手を引っ張り合う関係

 

「私が妹の年齢の時には、つまり3年前には、今妹の貰っているお小遣いよりも少なかった、納得出来ない、今妹の貰ってる小遣いを減額してやってほしい、平等に扱って欲しい」
父にこの台詞を吐いた当時小学生だった私は、次の瞬間父に激高され、凄まれて泣いた、自分よりも待遇の良い人を許せないでいる私の狭量さを父は憎んだのだ。
憎んだと言うよりも、恥じたという方が実際には正しいだろう、「人の足を引っ張るような人間に育てた覚えはない、妹の幸福を喜べず、自分の味わった事をそのまま後輩に味あわせるような卑屈な人間だったとは」、その頃にはもう父が直接私に手をあげることはなく、代わりにサンドバッグが毎晩のようにぶん殴られていた。
私には理解出来なかった、「平等」というのは兄弟間の争いを避ける最良の方法ではないのだろうか?人類の平和の最良の方法こそが分配の平等ではないのだろうか?…確かに過ぎ去った時に於いての平等性をいつまでも主張したのならば人間は全体的に幸福になる事は出来ず、いつまでも洞穴で生活することになるのだが…その時の私には、父が一体何に嫌悪感を抱いているのかが理解出来なかった。

 

足の引っ張り合い

「大熊さんて普段何しているの?子供も居ないんでしょう?子供が居て働いている人だっているのよ?」
暗に「怠けるな」と足を引っ張られる事が大人に成ってから多々ある、多々というか凄まじく沢山ある。
「あなたくらいの年齢だったら人生で一番忙しいはずよね」
そうなのだ、この類いの台詞ってつまり、私が小学校時代に吐いた台詞とほとんど同種のものなのだ、「皆が頑張っているんだからお前も頑張れ」…この台詞に本当に正義はあるのだろうか、愛はあるのだろうか?
兄弟間の不平等性は、生物の本能であり、親に気に入られない限り生き残ることが出来ないという究極的な切迫感が子供には根付いているので、あの台詞を吐いた自分の事は、それこそ子供だったのだし仕方ないとは思える。
…そしてそれを、平等という鎖を憎んでいる父が嫌悪することも今はよくわかる、私はこの手の台詞を吐かれると素直に平身低頭、流してその場をやり過ごす…のだが、何故?という疑問は残る。

 

何故私は「私は頑張っている」という人に対して、毎回、ホステスのような状態にならなければならないのか?

何故私は、彼女ら、時に彼等をなだめなければならないのか?
何故私は、サンドバッグを演じるのだろうか?

 

この種の「あなたは楽をしている、あなたは私の苦しみを増すはたらきをしている」系の台詞は驚くほどの頻度で私に向けられる、実家住まいで子供の居ない人とかも表だって言われないだけで影で言われているのを私は聞かされてきた、主に職場で。
だから私は職場というものが嫌いだった、出来る事ならば一人きりで働きたかった、特段才もないので稼ぐとなったら身体ごと出向く労働しか私には選択肢がない。
当たり前だが、職場に居る誰もがそうなのだ、特段何かに秀でているわけでもないので身体ごと職場に出向く労働しか選択肢のない人たちが集まっているのだ。
その職場に対して漠然と恨みがましい気持ちを抱いている人が、堪らなくなってこの台詞を吐くのだ、「あなたは楽をしている、私はあなたを許せない」、そして職場というものの本来のポテンシャルがどんどん下がってゆき、よくわからないミスから、果ては唐突に怒り出す客までを引き寄せ、誰もが疲弊する。
これらは全て、本当は演劇に過ぎない、一体感を得るための筋書きがあり、噴火され、被災するというカタルシスを経て完成する演劇に過ぎない。
この疲弊こそが「職場」というものの連帯感を高める、「あなたも辛い、私も辛い、だから平等、だから許せる」、この呪文の完全に消え去った職場を私は…完全に厳密には、まだ一カ所も見たことがない。
まだ所属したことがない。

 

平等性というものを測ることは出来ない、私は関係性の軸では自分を測らないことにした。
○○会社に勤める人間だとか、○○の妻という名義上の立場とか、両親のそれぞれの出身地や、その出身地での家業の無さとか、そういうものでは自分を測らないことにした。
測ると言う言葉を使うのは、観測という意味を込めているからだ。
私は私に帰属する、と「創作」の分野で言うのならば全く問題はないし、創作の分野で私が独断的になって暴走したとしても、それでも私は自分を是とする事に決めた。
例えば、医療や政治家、学者、など自分ルールだけではどうしようもない「事象=第三者からも数値的に観測可能な物事」の場合、「自分がこう思ったからこれでいい」等という事は許されない。

 

だからこそ、事象としての物事の絡む分野や組織化した状態での活動などは、私とて、自分自身に帰属などとはのたまうことは出来ないし、暴走してはならないのでブレーキをかけてもらったりするほうがうまく回るとは思う。
…ただし、創作や芸術の分野だけは例外なのだ。
だって、くどいようだが、お歌を歌ったりお絵かきをしたりする分野なのだ。
私は自分の「目指す」芸術(それが何なのかはさっぱりわからないが)は、自分が目指す以上、決して軽んじたりはしてはならないと思っている、お歌やお絵かきを軽んじているわけではない。
だが、社会的に考えれば芸術というものは「事象として観測するのが不可能な分野」なのだ。
それがどれほど素晴らしいかを数値化する事など不可能なのだ、どれだけ本人が本気なのか…どれだけ稼げたのかやどんな経歴があるのかは表明出来る、ただそれが本当の意味での価値と結びつくかどうかを事象として第三者が観測する事など不可能な分野なのだ。

 

あともう一つ、私が自分自身に帰属すると自分では思っている事について、これを行う事で、必然的に対峙した人をも「この人はこの人に帰属する人であり、この人独自の目指すべきものに手を伸ばしている存在なのだ」という意識を持つことが可能なのではないかと推測している。
何故なら私は、社会的立場由来ではない「自己肯定感」の強い人物を好んでいる、何故好むのか?
それは、全くの思い込みによる自己肯定感の強い人物ほど、他者を同等に思いやる事に長けている事が多々あったから、である。

 

関係性で成り立つ自己肯定感の場合は例えば「俺は優秀だし周りは無能だ」ということで成り立つ自己肯定感は真の自己肯定感ではないため、そのような人と接しても無能扱いされるのがオチである(本人とて無意識的にはこのジレンマに苦しんでいるのだとは思うが)。
一方で、社会的にも関係性的にも全く「恥ずかしいくらい何の根拠もない自己肯定感を持っている人」の場合、周囲の人に対して、「きっと周りの人も自分と同じくらいの自己認識で生きているのだろう」という憶測があるので、それが対人関係を「上げる」のである、このような人は真に優しいので、相手のやることを止める事は少ないだろう。
…そして一番多いのが、関係性による自己肯定感による自己卑下こそを「美徳」と勘違いしている人、「立場」を重んじる人、多くの平和主義者や平等主義者こそが一番場を下げる害悪を振りまいている。
勿論私もこの三つの種類で言ったらここに該当してしまう、私があと一歩「やれる」と思えず、周囲の顔色を覗ってしまう事…これこそが無意識下での足の引っ張り合いに加担させられ、サンドバッグの役柄を毎回有り難く頂戴してしまうのだ。

 

関係性というものは一方だけでは成り立たない、つまり私が毎回言われる「あなたって暇そうよね」という言葉は、実は私自身が「後ろめたく」思っている物事であり、殴って下さいと言わんばかりに卑下している物事だから、それとなく棘を刺されるのではないだろうか?
頭でこうして考えても実際には、「また言われてしまったなあ…」と思うその時にはもう、得体の知れない「平和や平等」という毒が私自身にも巡っていて、全身がゆっくりと鈍化してゆくのを感じている。
反発する気持ちもある、それを言った人に対して、あなたはサンドバッグが欲しいだけよね?でも実際にサンドバッグをぶん殴る醜い自分にはなりたくないんでしょう?と問いかける気持ちもある。
実際にサンドバッグを汗だくでぶん殴る醜い弱い自分を直視している人間の方がまだ、それとない厭味や妬みを言う人間よりもずっと清らかだという気がしている。
父と私はどうしたって理解し合えない仲ではあるが、父は清らかな性質を持っている、全く彼を好ましいとは思っていないが、確かに父からすれば世の中のほとんどが触れるのもおぞましいほどに穢れているであろう事はわかる。
平等と平和…この毒の恐ろしいのは、それを強要された人間が単に傷つくというよりも、稼働率が大幅に低下するということが一番の害悪なのである。
この足の引っ張り合いを言った言われたという対人の間柄の稼働率ではおさまらず、場、全体の稼働率やポテンシャルが一気に落ちるということ…最早呪いなのだ。

 

日本にはびこる呪いとは、誰も幸せにはなれないことを是とする平等性の呪いである。
誰かが幸せになり、その誰かが本当は「全体」に対して恩返しがしたくとも出来なくさせる呪いがこの土地にはある。
誰かが幸せになるくらいなら誰もが苦しんでいた方が良いという呪いは確かに、ある。

 

苦しみというものは本当は観測不可能である、それでも人間は自分の苦しみを誰かに是と言って貰いたい、それが無意味だったなどと私だって言われたくはない。
でも敢てそれを口に出したりはしたくない、創作は、飛ばなきゃならないのだから。創作はもとより、仕事って本来、もっと楽しくやれるはずなのではないか?
場、全体の稼働率をあげるには、それぞれの人が自分の目的に手を伸ばすようにしなければならない、それがどんな仕事であってもそうしたほうがいい。
私は職場で「下げられる」のが嫌だった、これをどう表わしたらいいのかわからないけれど、確かに、「楽しい事を考えているのに、楽しく仕事しようとしているのに」「足を引っ張られる」のが嫌だった。
人の苦しみに比例しなければならないという呪縛が嫌だった、自分が槍玉にされるのも嫌だった、今恵まれているということも喜べなくなるし、今、現に身体が痛むということも余計に言えなくなるので嫌だった。
本来の仕事という事象よりも、この人間関係や自分に与えられる「社会悪」という立場が嫌で仕方がなかった、それに話を合わせている自分の事も、そのような物事で疲れている自分も、嫌だった。
下を向かされるのが嫌で、それを拒めない自分が嫌だった。
自分の目指すべきものや、自分に触れる七色の手よりも、社会的、感情的な泥仕合に揉まれて鬱屈としたり、諦めることを覚えてしまっている自分が情けなくて嫌だった。

 

今は少し父の気持ちがわかる、確かに人生の大部分は無駄な労働に終わる、それも労働そのものではなくて労働に纏わる心労に終わる。
だから内職をしているのだ。

 

手を引っ張り合える関係

「最近仕事に行くのがすごく楽しいんだ」
少し前の鶴の人は溌剌としていた、溌剌としているのを何処か照れくさく思っているのが見て取れるほどに、彼の職場が楽しいのを私は理解した。
目指す物を毎時間目指そう、という事を「本当に」やってしまえる人というのが居る。
だがそのような人は迎合されない、大抵の場合邪険にされるだろう。
だって、下を向いて足の引っ張り合いをしていたほうが…その引っ張り合いに於いて整合性の取れる生き方をしている人の方が…楽だからである。
毎時間、自分の過去というものが消え去り、まっさらな状態で「目指そうよ!」と手を引っ張られるのは、時に足を引っ張られるのよりも辛いかもしれない。
「毎日大変で~」
という言葉を挨拶代わりに使って、何処かで「働き者の善人」を積極的に演じている人からすれば、苦労の部分を「それはさておき」と拭い去ってしまうはたらきを与えられる事は時に辛い事だろうとも思う。
「毎時間、目指す」という事を責務としている人が、明るくて楽しいにも関わらず、多くの「働き者の善人」たちから冷たい人間であるという烙印を押されるであろうことも推測出来る。
足並みを乱したり、時に一人だけ浮くという現象に陥るであろうこともわかる、だからこそ、楽しむ人というのは勇気のある人なのだということも理解出来る。

 

だが私が好むのはまさにこの勇気で、私が羨望の眼差しを注ぐのもこの勇気で、目指すのもこの勇気なのだ、目指して楽しむという勇気なのだ、飛んでしまえる勇気なのだ、手を引っ張り合える関係を始動させるという勇気…これが私の望むものである。

 

私もどうしても人に流されがちで、立場というものを押しつけられた場合、それが仕事を超えて個人の領域に及んできたとしても為す術もなく従わされてしまう所が大いにあるので、私も「場を下げる行為には加担したくない」と胆に命じている所である。
端的だが、自分が楽しくないという行為をやらされていて、そのやらされている自分に何処かで悲劇性を見いだしている場合、まさに自分こそが「悪人」になっているのだ、サンドバッグを演じている人ほど悪人なのだ。
だからこそ悪人にも悪人の理由があり、冷たい人ほど性根は熱いということを最近理解した所だ。

 

じゃあ飛んでしまえる勇気をもたらしてくれる、私が加担、参加出来る「楽しい」「場を上げる」人間関係って何処にあるのだろうか?
そこで思い浮かぶのは…やっぱり、先生なのである。
鶴の人にとってはその相手がムッシュという人間であったように、私には先生がそれに該当するのかもしれない。
もうこれを社会的に、人間関係上の言葉で表わそうと思ってもそれに対応する用語がないのだ、勿論先生は好みの男だし好きだが、そういう話でもないのだ。
私が飛んでいける場所、あの景色の綺麗な場所に彼は居て、そこに私も行くことが出来る…と私は思っている、先生は遠くに居る、遠くに居るから飛んで行ける、それを説明する事も出来ないし整合性もとれない。
社会的に考えると本当に一方的な感じで恥ずかしいし申し訳ないのだが、「先生に見せる絵」と仮定して描くときには遠くまで行くことが可能なのだ…先生本人に言っても笑われてしまうかもしれないが。
整合性のある色んなことや、社会的な立場、名前を守るという事への恐れと、畏怖、それらがない交ぜになって私の真意をごまかしている。
何一つ考えないまっさらな状態では、先生に絵を見せる時の楽しさを私は受け入れることが出来る。

 

でも待合室に居る時には既に辛くてどうしようもなくなっている、一方的な恋慕とも信頼とも取れぬ自分の情が世間にばれてしまうのが恥ずかしく、同時に彼の名を汚すようで恐ろしく、また、彼にとっては社会的には私という人間が全くもって取るに足らない存在であるということがわかるので、どんなに描いても本当の意味では対等になれないので、虚しくもある。

 

彼にもっと本音を言った方がいいような気もするが、結局の所一患者でしかないので、特段あけすけに言う必要性は感じない。
でも、普通に生きていて会える人でないことは解るのだ、普通に生きていて会える人は私の場合、足の引っ張り合いゲームを楽しんでいる人だったりする、いつまでも平和のために楽しまない選択をしている人だったりする、それを超えた存在…妬ましさや嫌悪感を超えて、相手の楽しむ事を伸ばしてやりたい、目指すべき道を教えてやりたいと切実に自分に課している人間…それが先生なのである。
先生の信奉している子供教(生めよ育てよという理念)は私には不要なのでそれについては賛同は一切していない。
彼に絵をこれからも見せるとして、一つ難点があるとすれば…社会に発露するという取り決めをしない限り、「この場限りで終わる絵」を彼が是とはしないだろうということ。
先生への開示だけで生命を終える絵を、彼は厭うだろうということ。
絵を実際に飛んで行かせることを、課さねばならないだろう。
勇気が欲しい、個人的視点に於ける勇気が欲しい、全体を上げる勇気が欲しい。

 

そして鶴の人の手をとる、それらを説明する言葉など、在りはしないのだ。

私は手を引っ張り合う関係を築いてゆきたいだけなのだ。

 

場を下げる関係性が蔓延しているのがこの国の負の遺産であると豪語する私の出来る事は、自分が場を上げる関係性に加担することが効果的だろうと思う。
人間関係が嫌でつい引きこもってしまいがちな私ではあるが、人と人との関係性に於いて、稼働率が爆発的に上がる地点や関係というものは確かに在る、手を引っ張り合える関係というものは確かに存在する。
だから何も人間関係の全てを断ち切りたいとは思わない。
本音をひた隠しにしたいとも思わない。
今まで人間関係というものを軽んじていた、稼働率の上がる人間関係というものを自分から探して自分から動こうとしてこなかったのだ、有り体な場所に転がっている関係性なのかどうかも定かではない、手を引っ張り合える関係というものはいつどこにあるのかわからないびっくり箱みたいなものなのだ、だからその在処がわかるのであれば、自分から動くしかないのだ。
親とこのような関係を結べている人は類い稀なるとんでもないラッキーな人で、大抵の場合は自分を低く見積もって生きる事を知らず知らずのうちに「演じさせられ」ている状態を「社会的善」だと刷り込まれてしまう。

 

私は稼働率の上がる人間関係を探している、だから先生にもやはり絵を見せたい、その関係性は何も私だけの関係ではなくて、双方が揃わない限り事象として成立し得ない。
…私は先生をもっと信じることにした、彼が絵を見てくれたということを、その現実をもっと信じること、信頼することを自分に課すことにする。
本音で話せる人を探すには本音で話すしかない、目指したい場所や、創作に至までの自由奔放な想いをそのままぶつけるのがこの文章であり、私の対人関係の基礎である。
甘いだろうか?
甘くて良いと私は思っている、人間同士の対話というものは元来楽しいものだと、無口な私は信じている。

 

私は、他人の幸福を共に喜べる人間になりたいと思っている。