青鷺輪廻考


家のアンテナの上によく、青鷺が止まっている。
この個体は「最近来ている個体」だ。
以前、この辺りに訪れていた個体は大柄で鳴き声も大きく、私とM氏は愛情を持ってその個体を「灰色」と呼んでいた。
大柄な「灰色」は一昨年の終わり頃までこの辺りを周遊していたように思うが、その後ぱったりと現われなくなった、「灰色、何処に行ったんだろうね」とM氏と話していた折、新しい個体がやってきたのだ。
新・灰色は「灰色」よりも若干小柄だったのですぐに「あの灰色」ではないことが私とM氏には解った。
「灰色は生まれ変わったんだよ」
私とM氏はそう話しては笑った、というのもこの個体も元灰色と同じような流域を散策し、我が家のアンテナにたまにとまり、彼なりに鳴いて唄っていたから。
青鷺という鳥は輪廻して別の個体として生まれ変わり、また同じような周遊をして生活し、同じような趣味趣向でこの家にとまりに来るのだろうか?
そう思えるほどに、個体が入れ替わってもその行動は同一に見えた。

 

個体が変容しても行動が同じ生命体を目にすると、必然的に魂や輪廻の思想が思い浮かぶ。
実際には元・灰色は生きていて、何処か別の流域を散策しており、その情報が青鷺ネットワーク内で共有されている為に、縄張り争いを避ける目的で、一羽ずつ一定の範囲に生息し、一定の間隔で別個体が入れ替わり、生息する…という青鷺の掟なるものがあるのかもしれない。
傍目に観ていると実に不可思議で、個体が変わったのに行為や趣向が似ているので思わず、「あんた生まれ変わったの?そしてまたここへやってきたの?」と聞きたくなってしまう。
青鷺はこの問いに何と答えてくれるだろうか?
青鷺について(ものすごく浅く)調べた所、死と再生の象徴になっている地域もあるようだ(エジプトとか…といってもエジプトの動物神は沢山居るようだが)、多分現代の私のように、別個体なのに行動が同じで、まるで「舞い戻ってきた」かのよう、なのでこのような崇められ方をしたのだと推測する。

 

そんなわけで私は鳥の中でも青鷺が特に好きだ、顔つきの好みもあるが、生態が不可思議だからだ、輪廻を思わせる不可思議さがある鳥だから好きなのだ。

 

一方、同個体なのに趣味趣向が変化し、表面上は別の生命体のように見える場合もある、三つ子の魂百までとは言うが、私も結構変容するタイプではある。
これまで習慣化していたことを打ち破る時の快楽故に、新しいことを始めたり、家を出たりもした、本当の事を言うとまだあと人生で2~3度の引っ越しが必要なように思う。
ただ、変容のロジックを解き明かすのであれば私の人形愛も、「人間全体の割合」により調整された趣味趣向なのかもしれないと強く思う、それ故惹き付けられている。
人形愛に関しては、私はビスクドールが好きなのだが、特段産業革命時にそれを手にしたであろう上流階級の少女たちへの生活様式や文化的な憧れ、というものは感じない。
ビスクドールに関しての書籍を読むと、実際にビスクドール工房で働いていたのは孤児であったりした、という記述もあった、それがどこまで真実か否かはさておき、私が憧れるのはそれら人形を精魂込めて作り出した人間たちである。

 

私が現段階で目指しているのは今の内職と、人形の服とでコンスタントに「一般的なパート代」くらいを稼ぐとういこ。
私は脚がよくない、脚が良くないというのはどの程度かというと、レントゲンに映るものを観る限り良くないとわかるレベルである…歩くのは好きだ、でも歩くのが好きということと「毎日確実に出勤する事が可能か」という事象は最早別物だ。
誰が観ても脚の悪そうな老人がよたよたと歩いているのを毎日何処かで目にすると思うが…その老人たちに何故歩くのかと問うたらきっと答えは「歩くのが好きだから」「歩いておこうと思うから」だと思う。
歩くのが好きであることと、毎日歩くよう心がけるということは必ずしも健康を意味するわけではない、私の場合は見た目には一切解らないので自分でも「恐ろしくなる」時がある。

 

このような健康の不具合、身体の状態というものも俯瞰的な目で観れば「人間全体の割合」の調整によるものなのだと解る。
この調整を摂理と呼ぶのだ、摂理には一切の人間的感情は無い、ただ呼ばれる方向があるのでそちらに従うしかないのだ。
抗うよりも従った方が楽なのだ、ぴんと張っている糸を私は手に握る、普通にバイトするということが叶わなくなると人生の可動域は恐ろしいほど狭まる、稼ぎ方も。
だから人形愛や人形服というものを私が制作したいというのは単に趣味というよりも、割と現実的な話で、現実的に稼ぐ話に繋がってくる。
仕事さえ選ばなければ何だって出来るとよく言われるが…そうもいかないということを、私と整形外科医、あとは実際に脚の悪い母親の居た「私の母」だけが知っているというのは、結構恐ろしいことだ。
世界に言葉の通じる人がたった3人ほどしか居ないということ自体にめげそうになる事が多々ある。

 

決して甘くない摂理の司るこの世とは、一体何なのだろうか?
毎日とは、一体何なのだろうか?
全ての生物には修行的要素が生まれながらに課せられているのだろうか?
青鷺の灰色も私も苦しんだり喜んだりしながらもある一定の枠組みの中を永遠に泳いでいるような存在なのだろうか?
ひょっとして生まれ変わってもまた私は「道筋」として、同じような趣味趣向に「人間全体の割合」の呼ぶ声により導かれ、手作業の輪に加わるのだろうか?
また、職人になりたいと思うのだろうか?
それが実際には孤児に割り振られた「高貴なビスクドールを作る」という名目の単純労働であったり、低賃金の内職であっても、私はそれをやるのだろうか。

 

私は針を進めながら思う、この作業を私は嬉々として行っているが私は心の性根から捻くれてしまうときがある。
団地に住んでいる子供が暴行されても、現実的に、世の中の誰もさほど同情しないものだ。
かわいいマナーの本を読んでいて痛烈に感じたのは、「この本を子供時代の私が読んでも、それを実践する前に父親に怒鳴られたりして全てのやる気を削がれるだろう」ということだった、父親が仏間に置いてあるサンドバッグを毎晩ぶん殴る音を身を縮こまらせ、耳を塞ぎながら聞いている生活にはマナーもクソもなかった。
マナーには根源的な明るさが求められる、実際に私が怒られて過ごしたのは根暗だったからだ、だが仮に私がきちんとした言葉遣いできちんとした振る舞いをしたとしても、悪漢(の状態の人)は「下層階級」の子供らを狙って都下までやってくるのだ。
貧しい地域までやってくるのだ。
命の値段の軽い順から軽んじられて行くものなのだということを、今の私よりも当時の私の方が身に染みて実感していただろう。
マナーが通じるのはマナーという概念のある人間関係内であって、それ以外の所では何の意味もないのだ、何の意味もない場所に私は居たように思う。

 

だがこのかわいいマナーの本には重要な事が載っていた、それは当時の私にも読ませるべき内容だった、「自分の身だしなみをきちんとし、ある程度の自尊心を外見に宿らせることによってのみ、他者に一人の…人格を宿した人間として強く認識させる事が可能だ」という、生命の絶対前提である。
一度他人に唐突に暴力を振るわれた人間というのは自然と自分自身から脱魂し、周囲を周遊する、その間身体は適当なものを身に纏ってぼうっと上の空で過ごす、そして次の暴行に自然と引き摺られて行くのだ。
適当な存在として扱っても良い、というシグナルを出してしまうのだ。
これも一種の摂理だが、その摂理に「NO」と言う事は実は可能だ、「人間全体の割合」の呼ぶ「暴行被害者」という穴の手招きに私はNOと言うべきであった。
人間に与えられているのは真の自由意志ではない、だが目前の何かを拒否する権利を元来誰もが有している…この本は思ったより奥が深い本であったが、一つ言うなればこの本を手に取った少女のうち、素直に実践出来るほど「強い」女の子が居たとすればその人は元来選ばれた人なのだ、元来、強い人であり、勿論狭い家で父親がサンドバッグをぶん殴っている家庭で、息を殺している子供ではない、ということ。
選ばれた人、のように見える人が居る、その人たちへのやっかみは普段あまりないのだが、ふとしたことでふつふつと湧き上がったりするときが私にも、恥ずかしながらある。

 

命の値段、ということを考えると…有名私立小学校に入り込んで惨殺を行うということはこの問題への抗議行動のように見えてしまう時がある。
私の内部の「子供の部分」が言う、「私が酷い目に遭っても誰も何も反応しなかったよね」、「でもこの子たちはこんなに世間が騒ぐんだ?」、「やっぱり命の値段が違うからだね」、私の内部にはそのような子供が居て、報道を見て嗤っているときが確かにある。
多分この種の犯罪への共感というものを抱いてしまう人は、子供時代が「本人にとっては」酷だったのだろうと思う。
酷いことをされた人が酷いことをされた人を嘲る、ということは実際に起る。
綺麗事を言うと命の値段は皆同じと私も表現するとは思うが、同じなのは主観に於ける命の値段であって、客観的には一人一人の人間の値打ちは異なる。
別に有名私立の子供たちが全員惨殺されれば良いとかは一切思っていない。
バスに乗っていると私立の学校に通う子供たちが乗ってきたことがあった、彼女らの振る舞いや言葉遣い、歩き方などを観ていると実に軽やかで全体的にしなやかであった。
私の子供時代に団地の中を意味不明に絶叫しながらフラストレーションを発散させる汚らしいガキは、その集団には一人も(というよりも一匹とカウントしたいような子供は…一人も)居なかった、そういうものなんだ、と私は自分に言い聞かせた。
反感を持ったわけでもない、哀れみを乞うているわけでもない、その摂理に自分は呼ばれなかったのだという事実だけを私は実感し、内部の子供の絶叫するその口をぎゅうぎゅうにふさいでやり過ごした。

 

私は美しさに傷つけられているのだろうか?

 

いつだったか鶴の人が「政治ってさ、結局誰がやっても同じ事なのかな?」と悲しげに呟いた事があった、寒い雨の夜だった。
「そんなことないよ!」
と私は反射的に言ったが、単にそう信じさせて欲しいという欲求を口にしたのであって、実際にはどのようなものであるのか判別がつかなかった。
鶴の人がこう口にしたのも何だかんだで政治活動に於けるマニフェストなど実行されてこなかったから、庶民の目から見たら政治というものが舞台上の空虚な演劇のように見えた、という話なのだ。
そんなことないと私も思いたかったし、個々の政治家の指揮というもので現実に株価などに変動があって、母の資産が増えたりもしたが…でもこの母の資産だって世間的に見たら雀の涙である。
もっと俯瞰したら、母の資産が増えようがどうだろうが大まかな人類の道筋に変化は無いように思う、だとしたらやはり、政治は誰がやっても同じ結末を招くのだろうか?
その日の朝、ワールドニュースを観た私は参っていた、ウイグル自治区の巨大監禁施設を見て恐ろしくなったのだ、調べてみるとウイグル族は民族的に根絶やしの憂い目に遭っているようだ。
そんな遠いこと、と思うだろうか?

 

私にとって遠いことは突き詰めると私の道筋上触れる事の出来ない全てである、有名私立の子供たちに起った悲劇とか、鶴の人の大阪行きとか、先生の内面とか、それら全てが私には遠いことなのだ。
従って、逆説的だが遠いことも私の一部なのだ、だから世界のニュースを私は比較的好んで観ているのだが…何より恐ろしいのはこの手の真実を日本の報道機関が一切やらないこと。
「NHKをぶっ壊せば日本は少しずつ変わるし、一票というもので貢献出来たら面白いよ、誰がやっても同じなんて事はないよ☆」
と私はその後を考えずに鶴の人に言ったが、本当にそうだろうか?
かの党はかの放送局がスクランブル化したら解党するという、では実際にスクランブル放送になったら…BSニュースを適宜に観る為にはさらに金を支払う必要性が出て、さらに言うと「今よりももっと世界の状況から日本という国が取り残される事になる」のではないか?
ウイグル自治区の悲劇、中国の凶行などは現在でも日中記者協定らしき掟により報道されないが、さらに情報が少なくなり、馬鹿らしい、資本主義だけを追求するような映像ばかり垂れ流されるのではないだろうか?
テレビという媒体は既にネットよりも「劣った」情報機関でしかないが…唯一の強みは「情報をいちいち獲りに行く労力や知恵が無くても比較的簡単に情報を入手出来る」ということ。

 

どうやったら全体が全体を「同種のもの」として認識し、見渡せるように、人間という種が進化出来るだろうか?
それともこんなことは、果てしなく遠い遠い事であって、やっぱり誰がどう足掻いても、摂理によって統率者は決まった動きをしてしまうものなのだろうか?
誰がやったって同じ結末なのだろうか?

 

私一人が足掻く事なんて無駄なのだろうか?

 

私は同じような事でもう何回も、ひょっとして何千回も何万回も何億回も悩んだように思う、その都度投げ捨て、どうだっていいと吐いたように思う、そしてまた同じ輪廻の枠の中に引き戻され、同じ問いかけをされる。
私は居ても立ってもいられなくなる、こんなことやったって無駄でしょうと思う、私がやったって無駄で、誰がやったって結末は決まっているのでしょうと叫ぶ。
私は何度もミシンを買って、その都度何度も諦めたように思う、既視感が湧くのはこのせいだ。
私は何度も針を動かす、きっともう何万回も、ひょっとすると何億回もやったのだろう、だから刺繍ははじめてなのに針は勝手に進んでゆき、図柄がひとりでに浮かび上がる。
その時ようやく私は自分が、「以前」見ることのなかった絵を見てはっとする、確かに救済というものは一定の摂理に従って行われ、特定の人間だけが選ばれるような仕組みにこちら側からは見えるが、それでも修行を辞してはならないのだと私は、糸の織りなす文様に語りかけられる。

 

ちなみに模様、というものの和風の言葉は「綾」「あや」である、あやであるところの私はあやに語りかけられている、もっとも、私の名前は「何の意味も宿らないように」という念の込められた、ひらがな名なのだが。
名前に意味が宿るなんて恐ろしい事だよ
と母ロミは言う、あやという言葉の意味が模様であると告げても彼女は笑い飛ばすだろう、彼女は「道筋」を嫌っているのだ、このような人間になりますようにという願いそのものを厭わしく思っているのだ。
摂理は働くがNOともYESとも言えるのだ、私はYESと答える事にすると、誰にともなく告げ、針を進めている。

 

青鷺の灰色と同じように、私も何度生まれ変わっても私なのかも知れない。
何度生まれ変わっても同じような階級に生まれ、何度生まれ変わっても同じような事で悩み、何度生まれ変わっても見えない欠損を身体に生じさせるのかもしれない。
何度転生しても人形愛に目覚め、何度も何度も創作に挑戦するのかもしれない、何度も何度もパート代を稼ぐ事を現実目標にし、何度も何度も挫折するのかもしれない。
きっと刺繍は沢山やってきたのだろう、はじめのうち刺繍をするのはとても「恐ろしい」気がしたが自然に手は動き、静かな糸が私を導いた。

 

今日も屋根に青鷺が居る、どの個体だろうか?
…どの個体でも、関係無いのかもしれないが、それでも「灰色」は青鷺の一生を生き抜くのだろう、輪廻の中を周遊しながら生きながらえるのだろう、結末が決まっていても、個体が変容していても、青鷺の「灰色」は灰色なのだと私は思っている。

 

私は青鷺が好きだ。