Calling 呼ばれる感覚と暴力衝動について

 

顔も名前も知らない誰かだが、人を殴ったその人は今苦しいだろうか。
顔も名前も知らない誰かだが、彼の行為は集団全体のほつれであって、不自然さがバグとなって表れた、その一端を彼が引き受けただけであって、本当は皆が責任を共有している。
その人はほつれの部分を引き受けた、ほんとうは誰が引き受けてもよかった、だからそのような人を責める場合には魔術的な転移が生じる。
暴力を駄目と言う人の中の罪悪感が、暴力行為をした人に向けられ、その人が断罪されれば…自分の中の醜さも消える、というような確信を多くの人が持っているように思う、勿論私も。
だから暴力衝動のある人間が断罪され、暴力だけを見据える環境に追い込まれ、首を吊されるのを心待ちにしている。
浄化されるという魔術を信じているから。
でもそれは本当は、誰であっても変わりはないのだ、断罪されるのが私自身であっても変わりはないのだ。
だから誰かの罪というものは全体のほつれの部分を単にその人が…特段、善意というわけではないが…ただただ請け負った、それだけなのだ。
それは私が請け負ってもよかった、他の誰だってよかった、ただ全体のほつれが生じているということだけが確かなことであって、そこに善悪は無い。

 

凶悪犯罪者、というのは本当にその人自身の性根が曲がっているからその暴力行為が表明されるのだろうか?
それとも、暴力行為や癇癪というものに直視し過ぎたために、周囲の人も「自分自身の」暴力衝動を否定したいがために、より一層、力とは暴力であるという一点集中が起きた故の…事件、事故、なのだろうか。
いつだったか聖職者が居酒屋の店員を殴って退職になったのを私はニュースで知った。
その人の性根は聖職者なのだろうか?
それとも暴力衝動の強い男というただそれだけの存在なのだろうか?
殴られた人は一体何の受け皿になったのだろうか?

 

草が生い茂っている、この草は春には可愛らしい花をつけるが花が終わるとアブラムシが大量に出る、プチプチと軽快な音をたてて飛ぶ虫も大量に出る、私はそこに一種のおぞましさを感じ、愛でていた草を一気にもぎ取る。
ダンゴムシが逃げて行く、背丈20センチに満たない小さな森林世界を寝床にしていた数多の生き物が私の暴挙に慌てふためいている。
あ!と思わず怯んだ、青緑色のぬるぬるてらてら光るトカゲが眠りから覚め、寝ぼけ眼でこちらを見てから悲鳴をあげながら身体をもつらせ、走ってゆく。
彼等は何の受け皿になっているのだろうか?
私の気まぐれな愛着に付き合わされ、そしてまた庭に寝床を見つけにやってくる、草を茂らせていると蛇までもがぬくぬくと暖まりにくる。
にもかかわらず私は来年の春には「可愛らしい花」をつけるその草をまた茂らすのだろう、花が散ってアブラムシだらけになると見るのも嫌だと言わんばかりにそれを摘み取るのだ。

 

私がこの家に来たのもただ偶然、そこに呼ばれただけであって、そういうものこそが「はたらき」であって、この場を愛でる存在が必要だっただけ。
それは私で無くたってよかった。
他の何者であってもよかったはずだ。

 

散歩に行くときにいつも感じる事がある、「今歩いているというこのはたらきは…人間からは関知出来ない何かの為のはたらきなのだ」、私は私であって私ではない。
私は誰だって良いのだ、ただ日のあるうち、出来れば午前の空気をただただ吸うということ、そして道を歩く何者かの存在となり、磁場をかき混ぜに行く。
この土地が求める事を私はただやっている、人間のうち誰も意識的には望まない事だろうが…このようなことがはたらきの根源であるように私には思えてならない。
ここで言うはたらきとは人間社会の労働の事では無い。
根源的なはたらきなのだ、庭にトカゲや蛇や虫が訪れるということと同様、何かの働きの摂理が動いていて、自分がそれを担うと決めて行動する。
そこには個別認識は無い。
誰だって良いのだ、何だって良いのだ、あるとすればそれを行動するという決定権だけが私に宿っている、これだけが私の持ちものであり…そこには固有名詞は存在しない。

 

私は歩くときに、歩く、という行為そのものになる。
私は私では無くなる、この土地を買ったとき、様々な契約を人間同士で結んだときにはまだ私には我欲が先んじていた、「私の場所」と私は叫んだがいざ当地に訪れてみると「場所」はあったが「私」などという人物は居なかった。
私は単に土地の「はたらき」の一環に組み込まれたのだ…これを受け入れたのなら幸福に成れるし、この無我のからくりを恐ろしいものだと認識するのならば人は不幸になる。
私は粘土のただひと捏ね、その瞬間にはそのひと捏ねは動いて空気を吸ったり場所を愛でたりする。
愛でる、というはたらきをこの地域は望んでいる、地底や目に見えない影たちがそれを望んでいるのだ、愛でるというのは大いなるはたらきだが…数値に於いての人間的評価は得られない。
忙しく立ち回っているほうが人間には評価される…だが、その人間的評価の歪み、ほころび、ほつれが、いわゆる「労働」を「絶対是」とする人間を凶暴にする。
こんなにやっているのにという「弱い」部分が強烈な引き金となってその人に暴力を振るわせる。
暴力というのはひずみであって、歪みであって、それは私がやったって何の不思議も無かったのだ。

 

世の中の凶悪犯罪と呼ばれるものはおよそ、私がやった、私もやったかもしれない、あるいは…私もやった、加担したと言える。
だって世の中というものに私も与しているのだから。
庭を愛でるときに私は愛着をぶつける、この花は今はかわいい、もう可愛くない、醜い。
でも庭をぼうぼうに野ざらしにさせておくよりも…手を加える「はたらき」をする存在をこの土地全体の摂理は望んでいる。
庭をいじっているときの私は私では無い、歩いている時の私も私ではない、その「行為」をする存在、それが私。
では私は今、何をやっている?
何をやろうとしている?

 

洋裁も人形も「個」としての意識の中だけでそれを認識するのであれば、あまりにも唐突で自分でも抑えがきかないので戸惑っている。
だが「歩いたり」「庭をやったり」しているときの「広大な土地、あるいは目に見えない影の一部」となった私「のようなもの、ただのエネルギー、ただのエンジン」であるところの私は、容易にそのはたらきを受け入れる。
洋裁も人形ももしかすると、この家の前の住人のように、その概念体系を構成する誰かという存在がこの世から消えたり、去ったりしたために「だれか来てくれないかな」という呼びかけが生じたのだと思う。
私は家の時もこの呼びかけに応じて出かけ、すぐに土地と出会った…が、これは「私」が呼応したのではなくて、厳密に言うと、粘土の一部であるところの私がするりとそちらへ移行したに過ぎないのだ。
…という確信がある。

 

呼びかけ、Calling、概念体系のエネルギー補填のための媒体。
ビスクドールに関しては件の英語アレルギーも難なく鎮まる、英語というのはある種の正義なのだ、絶対是であってその他は醜い、英語を嬉々として話す人の「正義感」みたいなものが苦手だったし、「私」個人はその感覚がおぞましく嫌なのだが…呼ばれている概念に対しては平気だった。
YouTubeなどでオークション動画が上がっていて、どこぞの人が美しい英語で人形たちを紹介している、「あ、あれはあの本に載ってた幻の人形、マルクじゃないの!」と私は秘かに叫ぶ。
これはすごく希少で価値がある…と司会者は話す、このときに言語というものがいかに、本来はあいまいなものであるのかを私は思い知る、言っていることの意味なんて聞こうと思えばすぐに聴けるのだ。
このような時の感覚は既に「個」としての認識を越えている、この言葉を聴いているのは「私」ではなくて「人形を好きで作りたい」というはたらきをしている存在が、言語を、概念の側から認識しているので言葉の理解度というものを越えている。
だから「私」が、というよりも…それを聴いているその時に、そこに私は居ない、私はただ聴くという決定を下しただけ。
愛でるという決定を下しただけ、人形愛という概念体系の空いている席に、ただのエネルギー補填として強く呼ばれたので、そこに腰掛けて概念の泉から湧き出るお茶を飲むと決めただけ。

 

だからこそ、行為をしているときの私は「私」ではない、そんな所に固有名詞は無い。
セックスも、風土そのものを愛でることも、庭の手入れをする事も。
だから暴力にも固有名詞は存在しない。
固有名詞が唯一作動するのは、ただ決定を下すときだけ。
セックスをする、と決めるときだけ。
こいつを殴ると決めるときだけ。
あるいは殴らないと決めるときだけ。
庭を耕すと決めるときにだけ私は私になり、行為の最中には忘我する、だってそれは私が行わせるはたらきではないから。

 

私も暴力を振るいたくなるときがある、醜いと感じた時にぶん殴りたくなる。
いつまでも人を覚えない馬鹿犬、躾のなっていない子供、躾けようともしない親、電車の中で化粧する女…どれも大嫌い、醜いから。
殴って欲しそうだから大嫌い、私をこんなに暴力的な気分にさせるなんて、だから大嫌い。
鳴り止まない目覚ましをそのままにする人には少しくらい脅して、虐めたほうが、解らせた方が美しくなるからいいのではないか?
少しくらいいじめてやったほうがいいんじゃないか?
そういう気持ちに苛まれるときがある。
彼等を断罪してきつく仕置きし、果ては命まで奪う、そして歓声をあげて手を振って私は叫ぶ「やった!醜さが消え去った!!これで世界が綺麗になった!!」…それはおかしいことだろう。
醜さというもので人が裁かれるのであれば世の中はおかしいだろう。
「私」が断罪される側になっても文句は言えないだろう。

 

でも今、現に、全く同じ事が生じている。
私は特段犯罪者を擁護するつもりないし、世の中の暴力的な出来事の全てを「感情の面で」許したいわけではない。
だが、暴力は絶対悪であり、そのほころびを担うと「決めた」「個人」は性根に至るまで断罪されるというこのシステムや文化的背景にはとてもおぞましい何かを感じる。
「やった!!醜さが消え去った!!これで世界が綺麗になった!!」
まさにこの叫びが囚人に対して、あるいは暴力行為をした人が裁かれるときに声高に連呼される。
囚人が死刑にされる時に魔術が生じる。
人間の性質には何か手のつけられない「悪い」ものが蠢いていて、それは死によってしか止められない。
だから死にはいつも贖罪の意味がある。
死はいつも神秘なのはそのせいなのだ、この摂理によって自殺も起っている。
確かに、暴力行為をしたその人たちは「暴力行為をする」という、内的な時間に於いては一秒にも満たない間の「決意」はしてしまったかもしれない。
だけれどその暴力行為というほころび、もつれの呼ぶ声は…誰だっていいのだ、誰がそのもつれの表明を引き受けたってかまわないのだ。
私が引き受けてもよかったのだ、誰でもよかったのだ、誰でも洋裁と人形の美のが概念に呼ばれていたのだし、誰でも、聖職者という概念に呼ばれているのだし、誰でも暴力に呼ばれている…もしかすると人間社会などという枠組みを超えた摂理から、暴力行為に呼ばれている。
そして誰かを糾弾すればするほどに…魔術に加担することになる、魔術は悪では無いが、魔術はただの迷信だと「私」は思う。
何故なら魔術は、Calling、しないから。

 

行為が、理にかなっている時にそれははたらきになる。
労働とはたらきは別物だが線引きは無い。
それらが入り混じった状態に在る人を、導かれた人と言う。
でも私は導かれた人というのは特に固有名詞を持たないのではないかと思う、だって、呼ぶ声は溢れていて、ただ聴けばいいだけだから。
決意は個人のものだけれど、はたらきはだれだって良い。
このはたらき、の部分は一切数値化出来ない。
自分も楽しく、周囲も楽しい状態、それで人間社会上の数値、利益が生じたらそれは天職だ。
だけれどはたらきについての考察はあまり見ない、例えば歩いたり、植物を愛でたり、家という場所を好き好むというただそのはたらきはおよそ人間には観測されない。

 

父親に怒鳴られるとき、私はまさに父本人の影になるのだ。
父の不出来な部分、醜いと感じてきた部分、こんな人物だけはどうしても殴りたくなるという、影そのものになるのだ。
「俺は…下戸ではなくて、ハキハキとモノを言って、バリバリと働く女を娘に欲しかった、お前は根暗な屑だよ」
父の言葉には影が含まれる、影をやっていると影がわかるようになる、私は暴力を振るう人間とそうで無い人間の区別はつく。
同じ影を発している人こそが憎く、醜いのだ、だからこの魔術に引っ掛かってはならない。

 

暴力衝動というのは癇癪と同種だ、これは実は正義感とも連結している、私は正義感が強いほうではあったが…癇癪衝動もある。
この癇癪衝動とは何を基準に働いているのか?
答えは、「私」の場合は醜さ、である。
私の基準とする醜さというものは主客一体を美の頂点にしているため…例えば電車の中で化粧をする女がいたとしたら、その女性の格好が囚人服だった場合には案外、何をやってても許せてしまうのである。
何故なら、主客一体しているから。
でもその女性の格好が小綺麗であればあるほど、「醜い」という感情が炸裂しやすい。
この癇癪衝動をどうすればよいのか?
暴力衝動をどうすればよいのか?
何か自分の中で湧き起こる醜さへの糾弾感情をどのようにコントロールしたらよいのだろうか?

 

答えは一つ、それを創作に向けるということ。
何が美しくて何が醜いのかの「弁」が作動し過ぎるので暴力衝動が起きる、だがそれを無理に自分から引き剥がしたり無理に「克服」しようとしたり、「善人」になろうとしたりしなくてもよい気がする。
これはただのエネルギーであって、ここにはまだ何の「決意」も無い、まだ何の「行為」も無い段階の話である。
よって自分が暴力衝動というエネルギーを今、感じているという「認識」が起ったら、その「弁」の感覚を創作に当てはめる「決意」だけをすること。
創作というのは…何がイイもので、何が凡庸なのかのポイントが単に自分にあるかどうかが鍵となる。
だから創作の場合には癇癪感情が、善い、はたらきを成すと私は感じている。
この弁の無い人、あるいは見えにくい人は優しい人かも知れないが、こだわりが無いということは必ずしも根源的に優しいというわけではない。
弁がはたらくからこそ、「マルクが美しい」という認識が起る。
暴力衝動や感覚は決してただ蓋をすればよいというものではない…仮に自分で蓋をした場合、行き場を失ったエネルギーは放出先を求めて動き回り、結果的に嬉々として魔術に加担してしまう。

 

呼ばれるという感覚に身を任せたい。

 

ちなみに、天職のことを導きと言う。
適職ではなく、天職のこと…導かれて成る職業のこと。
導きの呼びかけは…Callingと表わされる。
これは私の思う分には、人間社会を超えた「はたらき」と人間社会的な「労働」が見事におり混ざった状態を指すのだろうと感じている。
私は人間という存在全体が、この呼びかけに本当に素直に、本音で応じ、「この身になりますように」と誰もが心を開くのならば、誰もが天職に辿り着くし、この世は本来そう出来ていると思っている。
暴力衝動をはじめ、エネルギーは、本来余すところなく循環すると信じている。