散文の自画像 

創作魂を持つ大熊という人間が、散文で日々の自画像を綴る文章ブログです。

歓喜と悲しみの糸 人形との出会いと身の回りの出来事

  

文章を書く時も絵を描くときもほとんど誰の事も考えずに、無視して書いている、だから私の直感のダム穴が引き込んだものはそのまま放出するし、そうした方が良い、ダムが決壊してしまうよりも見えた物事を何とかして整えた方が私には美しく感じられる。
何かに悲しんでいるときにその悲しみについて、悩みやジレンマについて何故説明しないのかと言われることがあるが…それとこれとは別なのだ。
悲しくても腹は減るし悲しくても料理するし、悲しくても、精神的に「直感のダム穴に於いて人形に出会った」とかの物事に歓喜していたりする、歓喜と悲しみは全く矛盾無くそこに在る。
幾本もの糸を全く同時に織り込んで、全く同時に別の言葉に訳している、今朝は冬の小さな劇場で、灰色だけれど楽しいオペラの夢を観た。
昨日はお葬式の夢、でも棺の中に居たのはピエロの人形で、静かに微笑んでいた…雨が遠くで降っている音がこちらまで聞こえてきて私は、自分が果てしない幸福の箱庭に居るのだと気付く。

 

「私の手をとって」
とルルが言う、私はルルの手をそっと握る、さらさらしていてほのかに温かい人形の手…ルルというのはついこの前家にやってきたオールビスクの人形で、そういえばこの子との事は書いていなかった。
ただ、ルルのことは直感ではルルとしか言いようがない。
事象としては、どこかの作家が作った顔から手足から胴体まで全てビスク焼きの、オールビスクの人形で、目はアクリルアイ、服は作家が作ったのだろうが…綺麗だが霊魂は無い。
このあたりの事情…ガラス眼球ではなくアクリルアイで、服飾の美が並であるということからルルの値段は安かった。
ルルそのものには霊魂が宿っているが…日本の創作人形作家にありがちな「毒」はルルには一切宿って無いと言っていいだろう、だから何処か既製品のような雰囲気を醸し出しているが、そのような既製品を探してみても見つからない。
そうなのだ、正体不明の人形、それがルルなのだ。

 

トルソー(人台)での立体裁断の事とルルの結びつきを言うと、ルルを一目見て「聖母」のうなものを感じた、よって私はルルに「ルルであること」と同様に「人形服作りのトルソーになって」欲しいと頼んだ。
43㎝のルルは戸惑いながら言った。
「確かにルルはルルだけれど…ルルはビスクドールのトルソーになれるかどうかはわからない」
ルルが伏し目がちにそう言うのも無理はない、一般的に言うビスクドールはおよそ100年くらい前に作られたもので、当時の女児人形の体型とルルのそれとは少し異なっている、ルルは随分細身に作られている。
この異なりを素人の私がどこまで修正出来るのか。
創作人形の難点というものを挙げるとしたら人形の体型が統一されていないので、より一層、服を見つけてあげるのが困難であるということだろう。
それを私に当てはめるのならば、「オーソドックスなビスクドールに似合う服」を作りたい私が、「ルルでどこまで代用出来るか」を試されているようなものだ。
ただ、漠然と人形も無しに人形服を作るというのはだいぶ難題であったため、ルルの登場により私の洋裁ははかどるだろう、何せ、ルル本人はいくらでも服を着ることが可能なのだから。

 

ルルの服をいくらでも作れるのだから。

 

欲しいと思う人形はいくつか在った、オーソドックスなビスクドールにも大まか数種類のブランドがある。
当時の人形をアンティークドールと呼ぶ、アンティークとは100年以上経過したものを言うらしく、画面越しに私の気に入るアンティークドールは350万円だった。
…あまりに桁が違うのでレプリカを観る。
当時のビスクドールの型を使って現代に作られた人形をレプリカドール、リプロダクションドール(リプロ)と呼ぶようだ。
「ブリュのリプロ」
「スタイナーのリプロ」
「アーテーのリプロ」
という風にそれぞれのビスクドールブランドのリプロダクションドールを探していったが、欲しいと思うものはそれでも30万を超えていた(たいして欲しくないものは5~6万、ヤフオクなどではリプロダクションドールの中古品になるともっと安価になる)、丁寧に作られ、尚且つ「私が服作りの見本にしたいと思えるような」人形ドレスを纏う人形が欲しかったのだ。
欲しい人形は30万円、窯が買えるよそのお金で…それこそ自分の家でビスク人形を作る為の窯が買えるよ30万くらいで…私は結局画面だけ見つめていた。
ただ、一言でリプロダクションドールと言っても作家の魂魄のようなものが「穏和に」織り込まれている「私自身がその人形の中に聖母らしきものを見いだす」事の可能な人形作品はそうそう無いとわかった、それが私が最近学んだことだ。

 

だから仮に30万円で窯を買ったところで私が唐突に魂魄入りのブリュのリプロダクションドールをこさえることが出来るのかというと…私の勘ではそれは可能かも知れないと出ているが、そこまでの到達には釜代だけでは足りないだろう、何度も何度も人形を作って到達する地点なのだと思う。
そう思うほどに、ブランドの型を使っているのだからリプロダクションドールだと言うのはちょっと大雑把過ぎると感じている。
リプロダクションドールの制作作家というものは平行してオリジナルの型で独自の創作人形も作ったりしている、勿論人形の服も作る。
そうなのだ、このような物事に線引きは無い、正式名称は無い、それらを総じて人形作家と呼ぶ。

 

人形の価値というものには、100年以上経年しているかどうかや、リプロダクションドールの場合は新品かどうかが関わってくる。
また、オールビスクなのかコンポジション(顔、あるいは手と顔以外は別の安価な素材で出来ている)なのか。
眼球もガラスを精巧にふんだんに使ったペーパーウエイトガラスアイが一番、目に光を宿すので一般的には高価なようだ。
そして人形の纏う服…これが創作人形の場合「簡単」である事が多々ある、人形そのものが異様な光を帯びていても、着ている物がただのワンピースだったりと簡単な場合…私の望む美しさには満たない。

 

私の欲しい人形を作り出している作家の方々(大体3名…創作人形作家一名とリプロダクションドールを主に作っている作家が2名ほどで、有名か無名かは私にはあまり無関係だ)は自分で作っている人も居れば別の人形服作家に頼んでいるらしい人も居る。
なんにせよドールドレスというのは人形の完成度を左右する…だから頑張れば私でも作れそうだなと思う服を纏った人形はあまり欲しくなかった、美の見本にならないからだ。
どう考えても観ただけでは理解出来ない複雑で華美な服を纏った人形が欲しい。

 

だが、先ずは手元にも一体「聖母マリア」の優しさを感じさせる、大本になるトルソーとしての人形が欲しい…自分の分身のような何かが欲しい。
そんな気持ちでネットを見ていたらルルが居て、こちらを見ていたのだ、やはりルルのことはルルとしか言いようがない。

 

ルルの服は簡素な造りだった、実際の私はまだこの服すら作る事は出来ないかも知れないが、素人でも理解出来る服の造りで、多分ルルの制作者は直線ミシンか家庭用ミシンだけを使用して人形服を作ったのだろうと推測する。
襟元というのはおよそどのような服でも一手間かかる部分だが、襟元についたフリルも付け方が悪く、裏側にひっくり返ってしまっている。
しかし根本的にはとても器用な作家なのだろう、タックの部分の丁寧な折り込み、接合部を割るようにかけられたアイロンの綺麗さを観るに、作家は人形作りが本質であって、ドールドレスは簡単に素早く済ませたかった風なのがうかがえる(仕事の早い人なのだと思う)。
確かにルルの身に纏う服は簡単な割に綺麗でまとまっている…人間用の服ならこの到達点でいいだろうとも思う(人体の構造とかを考えるともう少し突き詰めるべきだが、主客一体という美の基準値で言うとここが到達点な気がするのだ、あくまで人間の服は)。
ルルを膝に寝かせると…ビスクの重みがそうさせるのか、魂の重みのようなものを感じる。

 

昨日ルルは、「ルルのことはまだ誰にも言わないで」と言っていたが、今朝になって私の手をとり笑って言った。
「冬の小さな劇場まで来たから、だからいいよ、書いて良いよ」
私はルルの髪を撫でた、多分ルルを観た人はルルの中に…物事の原型を見いだすだろう、だから私が彼女を、彼女でしかないと言う事を案外理解すると思う。
確かにこの子はルルだし、ルルはルルだねと言うと思う。

 

ルルとの出会いの一方で、一時的な別れが近づいている。
物理的な距離というものから完全に自由であるというのは…果たして生き物のやり取りだろうか?
男の人にありがちなのが「君は俺の事をずっと好きで居てくれ」とかそういう思想なのだが…これはそれこそ人形などに対する愛であって人間への愛情とは全く別種のものだ。
新しい状況に放り込まれた側というのは状況がめまぐるしく、またその空気までもを言葉にしている間にさらに新しい事象と対面する為、よほど直感が働かない限り…多次元ダム穴に放り込まれない限り…寡黙になる。


一方残された側というのは時間の流れも相手とは異なるので、相手の状況を知る術が無い。
相手が寡黙な場合は特に相手の生活を知る術も無いし、大変だろうということでそれを聞くことも気が引けてしまう。
相手がどのような心身の状態かを判別しにくいため、こちらの一方的なテンションを共有させることにも遠慮してしまいがちだ。
…こうして互いの肉体的な時間にずれが生じ、相手への遠慮により自分自身も寡黙になってゆき、数ヶ月後に相手が部屋を引き払うときに全てに直面した苦い思い出がある。
だったら話しておけばよかったと思うのだが…それでも、こちらから観測不可能な相手に対して「愛してる」等と阿呆みたいに繰り返すのは…どうにも、人間同士の付き合いとは思えないのだ。

 

例えば…先生のことは私は今でも好きだしこれからも好きだろう、だが先生に対して一生、作品を見せ続けたいかと問われればちょっと返答に困る。
先生のことは憧れているので、そういう気持ちも無くはない、現に先生に作品を見せるのは独特に楽しいので人形をこさえたら唐突に見せに行く可能性はある(だが先生の思考には子供教の特色が見て取れるので、子供の代用品のように先生からは見えてしまうだろうが…)、ただそれは対人間への愛ではなく、完全な憧れへの愛の実行であり、人間同志の愛着とは少し別だ。
現に先生という人物は実在していて、個としての時間の波を生きている、その波がどのよなものかは私には知る術は無い。
だから作品を一方的に見せ続けるということは実質…難しいのだ、このように純粋な尊敬を嬉しいと思う男の人は居るかも知れないが、この尊敬や言葉はおよそ人間同士の会話というものではないので、だからこそ私にも実在の恋人が必要不可欠になるのである。
だって私は生き物なのだから。
セックスもそうだが、根源的な時間軸の共有が必要不可欠なのだ、だから平行して好きな人が生じるのは至極当たり前の事だ…。

 

旅立ってしまう人は寡黙だ、こちらもつられて寡黙になる。
そりゃあそうだ、だって人間に対する愛着というのは日々の波であり、自分でも関知できない喜怒哀楽であり…人間に対して人間として投げかける言葉にはいつも原色が組み込まれている。
今日は赤なのか、青なのか、黄色なのか…。
作品を見せる時に生じるのは感情の色を越えている…だから作品は万人に見せてもよいのだ。
先生に対しては尊敬の念…これにはその実色が無い。
恋人に送る言葉にはいつも色が生じるが、それすら、相手の状況と大まか共振した上で紡ぎ出される糸であって、全く独自のものではない。
だから相手の状況がわからないと、声のかけようが無い。
考えてもみてほしい、自分の身の回りで大変な事が起きたその日に、唐突にラブコールが来ても全く反応出来ないだろう…よって一方的な愛や尊敬というものは恋人には向かない、私が日々ラブコールを送ることも無理だしやりたくもない。
勿論、恋人と言う言葉も便宜上使っているだけであって、情夫、情婦、なんでもいい、とにかく私には一方的な愛を人間に注ぐということは不可能だ。
距離の離れた寡黙な相手に対して、今まで通りの愛を注ぎ続けるということは不可能だ…俺の事はいくらでも好きで居てくれ…と、男の人は本当にこれを望むが、先にも言ったとおり、それを実行する場合には「私には新たに側に恋人を生じさせない限り」この種の愛の持続など不可能だ。

 

だから私は人形との出会いやミシンとの触れあいに歓喜しているのに、沈んでいる、鶴の人は大阪に行くらしい。
自分から行くのならばともかく、事情が折り重なっての出立のため、そのような事象を逐一言葉にして携帯から送信するのは確かに煩雑だ…だから彼が寡黙になるのもわかる。
私が彼であってもいちいち説明したくないだろう…楽しい事ではないのだから。
戻ってくるらしいが…ふと、佐渡島だったか山梨のどこかだったか忘れたが、何かの資料館でタコ部屋らしきものの再現人形たちが動いていた光景を思い出す。
その中に、「江戸に残してきた女が懐かしい」だったか「女に会いてえなあ」というような台詞を言う人形があって、子供ながらに印象深かった事を、唐突に、江戸(東京)に残される身になってみて思い出している。
あの台詞を言う人形、まだ生きているだろうか?
心の中では私たちは既に会話している、「おう、思い出してくれたのか、嬉しいねえ!」とそのおっさん人形に快活に言われ、私は笑う、そういう意味では彼はまだ生きている、事象としてはもう居ないかも知れない。
何処かの岩場に配置されていたように思うが…というかこれではまるで鶴の人がタコ部屋送りにされると言っているようなモノだが…あながち否定は出来ない、それくらいはたで聞いていてこの大阪行きは無意味そうな感じはした。
その資料館の人形もそうだが、実際の居場所や事象としての時間よりも、内面の体感で深く繋がる記憶と記憶の間には見えない糸のようなものがある。
糸は幾本もあって、本当は幾億本もあって、それは実は私個人だけではなくて数多の生物や無機質なものの持つ数多の魂と連綿と繋がり、常に幾重にも広がって踊っている。

 

幾本もの糸を全く同時に織り込んで、全く同時に別の言葉に訳しているが…私もここ数日はどの糸を選んで翻訳するべきか迷っている。
一度に全く同時に関知しうる全ての糸の言葉や模様を文字にしたり絵にしたりすることは不可能であるので、私自身、個人、で完結出来る物事に焦点を絞っていたが…やはり悲しみの糸が喜びの糸を引っ張ってもつれそうになっている。
糸調子は整えられるが、涙は整えることが出来ない。