散文の自画像 

創作魂を持つ大熊という人間が、散文で日々の自画像を綴る文章ブログです。

主客一体の美/洋裁と人形への勘

※洋裁への気持ちや美の基準について思考の推移を書き殴っています。

 

勘について
何かやるときの私の勘というものは、言うなれば多次元ダム穴みたいなもので、傍目には果てしなく遠回りに見える場所にも勘が「引き込まれたら」すぐに到達地点に「落ちて」いるという類いのものだ。
入っている、触れている、辿り着いている…因果律を越えて唐突に触れている場合がある、無論それは主観的真実というものでしかないが…現に家を思い描いたのはこの家に私が既に「居た」から、だから家の間取りも内装も家具も、既に「見ていた」から難なく立案出来たのであって、だから難なく建てられたのである。
周囲の情景も、緑の小径を散歩しているという「地点」に既に「引き込まれていた」から、すぐに土地を見つけたのだと思う。
ビスクドールに何故開眼したのかを因果律で説明するのは困難だ、何で急に?と言われても事象として、時系列の理由などは述べられない。

 

洋服に対するジレンマ

洋裁について言うなれば、元来、服について不満のある人間ではある。
背が低いので大抵のものが合わないのである、そのくせ服が小さければ似合うかというとそういうわけでも無い。
現在の服というのは平均体型を基準に作られているが、これがくせ者で、大抵尻がメチャクチャ小さく作られている、実際の女の尻ってこんな小さいわけないじゃないかと突っ込みたくなるほど小さく作られている、嫌がらせか!
ホントに馬鹿みたいに身体の厚みを無視して作られているものもある…かと思うと流行のオーバーサイズばかりでなんかだぶだぶしていて無駄に着太りしてしまう。
あと女物のサイズに関しても、「数値的に理想とされるサイズほど売れて行く」という阿呆みたいな原理があるらしく、実際の数値とは若干(だいぶ)誤差があり、これまたブランドによって差があるので面倒くさい。


つまるところ女物の服というのは「私はこのサイズを身に纏える」ということに「価値を見いだす女性」ほど「多くの服を消費する」原理があるので、必然的にサイズ表記が不正確になるのである、消費社会の歪みである…だがこの歪み故に、普段服を買わない人はサイズ表記と実際の着心地の誤差に混乱してますます買わなくなるのである。
「私は9号を着てる」
という「イメージ」を売っているんじゃないかと言いたくなるブランドも多々あるように思う…だって、ブランドによって全く着心地が違うのだから。

 

美について

そして私が根源的に一番強く思うのは身に纏う服というのは主観と客観が一致(主客一体)していないと美しくないということ。
…で、私が思うに、女であれば皆着飾る事が好きというもの大いに誤解を生じさせる概念であって…だからこそ私なんかは、自分の主観で身に纏って楽なものと、はたから見て「私という人間がこうあってほしいであろう」格好、というもののおよそ中間くらいを選んでしぶしぶ身に纏う事が多い。
そう、お洒落は私にはあまり楽しくないのである、楽しくないというよりも最早若干苦行である、金を払って似合わないものを着るという苦行ですらある。
主観と客観の中間くらいが、私が主客一体になれるギリギリのラインで、そのギリギリのラインですら…似合うものや着ていて楽で合うサイズが少ないから苦行なのだ。

 

ただ、この「似合ってないなあ」と思う部分…これこそが私なりの服飾への勘なのである。
「もっとここがこうなってたほうがいいんじゃないか」
「この系統の色味だったら合うだろうに」
「この体型だとこうしたら本人も楽に身に纏えるしスタイルもよく見える」
ということに何となく勘が働くので、より一層、「現実に売っている服が理想ではない」ということへの憤りが生じ、結果的に厭世的になっている。

 

楽に身に纏えるということは非常に重要だ。
合わないジーパンを穿くと如実に腰が痛くなるし、私はこの痛みの為に革のベルトというものが使用出来ない、なんかもうこれは私の人体構造上どうしようもないことなのだ。
また、スカートの丈も「ブーツに合わせたら一番きれいに見える丈」というのに難儀する。
スカートそのものは素敵で、身に纏えてもこれまた私の人体構造上どうしても、ブーツをもう履けないのである、脚の構造上どうしても履けないのである、厳密に言うと履けるのだが歩き続けられない(つま先立ちが困難なのと、膝から下の脚と足の甲が固定される事により痛みが生じる)。
小さめのブーツなら履けるが…それだとまたスカート丈を変えた方が綺麗なのである。
パンプスも履けない。
よって「足元を華奢にすれば綺麗に決まるスカート」というものを自分から除外しないとならない。
足元が平らな靴(スニーカーではなくて…あれ、何て言うのだろうか。)でも綺麗に見えるスカート丈とスカートの形というものを…考えながら既製品を吟味するということは、終わらぬ祈りのようなもので、よしんば理想のスカートが商品として見つかったとしても、低身長の私自身に合うサイズであることは確率的にほぼ無いだろう。

 

…これってさ、作った方が早くない?

 

と常に思ってはいた、思ってはいたが、自分に洋裁が出来るとは思えなかったのだ、その地点ではまだ洋裁の勘は私を引きずり込まなかったのである。
一方で常に目の前に理想の見本服は「見えていた」、「どうして出来ないって思うの?」と語りかけるくらい厳密に見えてはいた。
だが私は頑なに、「理想の服が売ってたらいの一番に買おう!」とばかり思い、同時に「理想の服を既製品の中から探し出すのって面倒くさいなあ…」という矛盾を抱え、立ち往生していた。
服のことをあれこれ書いてはいるが、私は取り立て強烈にどこのブランドが好きとかそういうものが無いし、情報をインプットする機能も元来鈍いので流行にも疎い。
挙げ句謎の美意識があるので流行ものをただ身に纏うということにすら抵抗がある。

 

美と醜さ

この美意識はさっきも述べた通り主客一体という事を頂点にしている。
だから本人の認識が「身体が痛むので身体を隠すものを着たい」と思っているのに「それを無視したような格好」をしている場合は私の体感ではそれは醜い。
だったらジャージでも着ていた方がよほど「美しい」。
いかに本人にとって自然かということ…客観を完全に埋没させるような自然さではなくて、自分がこのような格好をしていたら美しく見えるだろうし、このような格好をしていたら喜ばれるだろうという客観視も体感した上での、お洒落というものこそが至高ということ。
単にすごいお洒落な人とか、綺麗な靴を履いている人の挙措が醜い場合(脚を放りだしていたりとか)、本当に嫌な気分になる。
だから自分が着飾る場合には「それに見合う自分かどうか」を考えている…よって着物とかは特段一生着なくて良い、だって着物着ている人の仕草や動きというものを私は「知らない」。
知らない上に、そちらの勘が私を着物文化に連れて行ってはくれないので、私には「向いていない」という感じである…まあ、脚の痛い人が着物を着たら本当に辛そうなので着ない方が絶対に良いと思うが。
(着物で脚の痛い人の挙措というものが…どうにも考えつかない。もしかしたら和装というものはある程度の健康さが必要な装いなのかも知れない。そう考えると洋装(といっても簡単服だが)文化って最高だ。)

 

というふうに事細かに書いているが私はお洒落でも何でもない、地味な女である。
自分の事を棚に上げてと思うかも知れないが、自分の主客一体のラインを見極めているのである、繰り返しになるが私にとっての美意識って結局それに尽きる。
あともう一つは、あまり見られる事が好きで無いということ。
そして「見る事のほうが好きである」ということ、服に関しては(あるいは男に関して)私は鑑賞者なのだ。

 

鑑賞

私服が主客一体していて自然で尚且つお洒落な男性(女性もか)には本当に惚れやすい…ここで思い浮かぶのは先生である、先生のかっこよさってまさに主客一体の装い(私服)ということにある(と書くとまるで外見だけの男みたいな表現になってしまうが)。
鶴の人もそういう意味では格好いいのである、身のこなしがよいのと、自分に合う物を選ぶ力があるので服の数は異様に少ないのに決まっているのである、彼はモテるだろうとわかる。
私は正直、恥ずかしながら…お洒落な男性にはすごく惚れやすい気質の人間だ。
世に言う美形、イケメンかどうかは全くどうでもいい、そこに美の基準値はない。
ただ、お洒落な装いと挙措、自然な振る舞いの男性には滅法弱いので…言葉で言うと私は面食いである、男女の感覚に於いては私は鑑賞者である。
外見だけというわけじゃなくて、外見というものに振る舞いが組み込まれているのでこの振る舞いを見て、格好いいと言っているのである。

 

逆に言うと判で押したようなスーツ姿の男性とかは…申し訳ないがM氏以外ぶっちゃけ悲しいほど見分けがつかない。
スーツ姿でそのスーツの色もテカテカしたような寒色系を、黒髪の男性が一斉に身に纏うのは…ちょっと本当に個としての見分けがつかないのでこの文化は即刻消え去って欲しい。
実際仕事する場合もスーツの職場だと私は男性職員が見分けられないという秘めたる強烈な困難があった、見分けがつかないなんてなんて失礼なと思うが、単一民族の同系列の服というのは本当、何かの間違い探しなのかと言いたくなる。
見分けがつかなくて仕事に支障が出ている人、結構居るんじゃないか?挨拶したはずが別の人だった、とか。
学校の男子とかもわかんなかったなあ…よほど五月蠅い奴(友人とか)しか認識出来なかった…。

 

最高の服とは

さて私が思う完成している服の装いというものは、修道女と、チベット仏教の僧侶のえんじ色の服、どっちも宗教服だが客観と主観のバランスがよい。
例えば巫女の服というものになると客観(見た目)の要素が強まるので美しさのレベルが「下がる」、ウエディングドレスは主観的すぎる服であるので美しさの品位は実は「下がる」、一方囚人服等は内面と社会的なものが織り交ぜられた服であるため、主観的なウエディングドレスよりも「長期鑑賞に堪えうる」という点では、「主客一体しているという点で美しい」…勿論、私の主観の美に於いての話だ。
主客一体の振る舞いと装いというものを美の基準にすると、修道服というもは男女ともに年老いてもそのまま着ることの可能な服だ、長期鑑賞が可能、長期着用も可能…素晴らしい服である…ただしそれを「美しく」身に纏うには本当の修道女になるしかないのである。


と、まあ美の基準について語ってきたのだが、それがどうして人形に?と思うだろう。

 

トルソーと立体裁断

服を自分で作る!となると型紙を作るというところからはじめたりもする…無論、それはずぶの素人には難しいが慣れれば言うほど難しくないという勘が働いている。
ただこの型紙という二次元から三次元のものを作り出すというのはちょっとやりにくいように思った、「それならトルソー(人台)を買って、トルソーに布を実際に巻き付けて、布の方向性を見ながらスカートを作って、それをハトロン紙に写して型紙にした方が、早いし正確じゃない?」と思ったのだ。
これを立体裁断(ドレーピング)と言うらしい。
このドレーピング技法についてやたらと難しいだとか言っている洋裁関係者が多く居るが…あのさあ、あなた方、わざと難しいって言ってない?もしかして素人に服作らせたくないみたいなアパレル業界認識とかあるのだろうか??

 

だって何をどう考えても【平面図法を制作してから洋服を作る】ほうが難しい、立体裁断の方がやっぱり何をどう考えても断然簡単だ。
だって幼稚園児や小学生に唐突に洋服というものを作らせるとしたら…おそらく多くの子供が人台、あるいは自分自身に布を巻き付けて服の原型を作る手法をとると思う、だって服は三次元の代物で、人間の身体も三次元である、だから人台を型にして服を作った方がどう考えても【型紙作り、原作図の考案】が楽であるし、誰にだって出来ると思う。
これが、私の勘である。
平面裁断の場合…型紙【二次元】制作→→完成【三次元】…そもそも二次元から三次元を起こすのでよほどそちらの勘が働かない限り難しい。

しかも平面裁断の場合は【果たしてそのサイズが本当に美しいのかどうか】という一番重要な点が完成してからしかわからないのが最大の欠点である。
欠点というか最早致命傷である。

 

では立体裁断の場合はどうだろうか。
立体裁断の場合…人台に布を巻き付ける(立体裁断)【三次元】⇒(型紙の段階で一度二次元に落ちるが)制作⇒完成【三次元】…いやもう何をどう考えても立体裁断でしょ、デザインも楽に考えられるし、服のイメージを考えついて人台に巻き付ける…この巻き付ける事が可能であるという時点で、その人台(トルソー)のサイズさえ自分サイズであれば、その服はもう完成したも同然である、立体裁断は視覚認識しやすい。
素人にもわかりやすいと素人の私は思う。

 

トルソー⇒主観が無い⇒主客一体しやすい⇒人形

こうして勘に於ける多次元ダム穴の中で私はいくつもの服を立体裁断技法により作りながら叫んだ、「そうだ!実際にトルソー買おう!」と思って自分サイズ、尚且つ長年使うことも考えて人体のゆるみ構造入りのものを吟味する日々が続いた…(実際には半日くらいかもしれない)。


…しかししばらくすると、トルソーが身に纏う服が美しくても、それを自分が着こなせなければ意味ないよな…という気持ちが生じ、私はスタート地点に戻ったのである。
当たり前である、客観的に美しい服をいくら私が作っても、自分でそれを着こなす気持ちが無ければ服は作っても意味が無い。
だったら人民服でも着ていればいいのだ。
でも…トルソーには自己認識が無い、トルソーには主観が無い、だからトルソーは、サイズさえ合えば何だって身に纏えるのである、主観が無ければ主客一体しやすいのである。
というような閃きが走った、初めのうち、洋裁は自分のためのものだったが逆転現象が起きた。

 

ここで、トルソー=人形、という図式が生じた…ような気がする。


完全に作品に成る服があるとすればそれは、「人形の服だ!!!」という衝撃が私を貫いた…ような気がする、実際にはあまりに唐突に「人形か!」という閃きが起ったので何とも言えないのだが、とにかく主客一体した洋裁作品といえば詰まるところ人形にしか身に纏う事が出来ない…作品を纏うという行為は人形でしか完遂出来ないのではないかと思い至った。

 

しかし人形というジャンルに関しては、リアルドールなどのサイトは昔見ていたものの、これといって…事象としては触れてこなかった、にもかかわらず多次元ダム穴的勘が働き、気付いたらここ一週間ほどで人形への愛が花開いているのである。
これが因果律だけでは証明出来ない勘というものであって、愛というものだ。
事象としては私は洋裁はおろか裁縫すらもやってこなかったので…因果律的には私が何処まで人形美や人形服の美について触れているのかを証明は出来ないのだが、私の勘に於いてはどの人形が素晴らしく美しいかはわかる。
人形の美というのも主客一体かどうかに尽きる、人形は人形なので確かに主観は無い。
だが人形の持つ視点というものは何故か「実在しているように感じる」ものである、だから人形の視点と人形の身に纏うもののグレードが合致しており、その完成度が高ければ高いほど価値が上がるのである。
様々な人形を見たが…やはりビスクドールが美しい、人に媚びないので美しい。

 

ビスクドールの美についてはまた語るとしよう。
ただこれも、触れてきた年数とかよりも勘の導きが大きいので、洋裁同様余計に惹かれている。