散文の自画像 

創作魂を持つ大熊という人間が、散文で日々の自画像を綴る文章ブログです。

職業に於けるソフトとハード


小さい頃に裁縫道具を触ろうとすると怒られたものだ、理由は「危ないから」である。
私も多くの都民と同じように核家族で育った、危ないものは火と刃物と他人であった、それは確かに半分は本当の事なのだけれど、その危ないものを自らの働きに出来たのならば…人生は倍に広がったろう。
母親は不器用だったし、女は裁縫、という文化を両親共に酷く嫌っていたこともあって私も針を持つという概念になかなか辿り着けなかった。
本当は裁縫も絵を描く事も単なる「行為」に過ぎない、それはバイクに乗って何処かへ行ったり、旅に出るのと同じ「心身の働き」なのである。
ただの心身の働き、ただの手作業である、ただのハード的認識である。

 

手作業という職業は賤業であるという認識は何故生じるのだろうか?
行為というものがソフト(思考、頭脳)によるものかハード(物理、肉体)によるものなのかで物事の甲乙が生じるのは何故だろうか?
例えば義務教育の学校という組織に於いてはまさにソフト面の強化を図ろうと躍起になる、教師も子供も親も皆がソフト面の強化を夢見ている。
ミシンにたとえると、皆が皆「家庭用ミシン」になろうとしていると言うべきか…直線縫い、ジグザグ縫い、コンピューター内蔵…そうやって出来る限りコンスタントに理解の間口を広げようとする。
機体が元々頑丈であれば案外耐えられるものである、ソフト面の優秀さとハード的な優秀さを兼ね備える人材も当然、義務教育により生じている。
だが全員が全員コンスタントにソフト面を強化する必要というのは本来、無いのである。
では何故こうもソフト面の強化を図るのか…ハード的な技術、手工業や現場作業、ありとあらゆる手作業は押し並べて賤業と見なされる「文化」があるからである、私はこういう時代に生きているのだ。

 

ソフト面の見えるハード的な物事…建築や絵画や音楽の作曲などは、ソフト面の印象が強い為に、成功者のイメージが生じる。
ただこのイメージ戦略も、時代の流れで考えると就職氷河期時代の「フリーター×夢」、というステレオタイプな概念(これすら結局正規雇用を避けるが為のイメージ戦略でしかなかったのだが…)と結びつき、未だにジレンマを生じさせている。
絵を描くというと何故だか重視されるのはソフト面の強化であり、前時代の「フリーター×夢」の公式に則って、「成功すること」「有名になる事」等が絵の目的のように語られたりもする。
実際絵の終着点というのは他者から見たらこのソフト面でしかなかったりする、だから無名=制作者の哲学を誰も理解しなかった=落伍者のイメージだけが未だに根付いている。
絵というものがややハード面を帯びてきたのが漫画業界やイラストと呼ばれるものである、だがこれにすらもう一つの固執概念が生じている。
稼いでいるか否か、である。
数多の創作家の主観では、ほとんど誰もが「絵筆を動かす」というハード面での行為の中に真髄の宿るのを体感しているにもかかわらず…世論として、ソフト面や金銭の物事を重視する傾向にある。
当たり前である、この時代というのはほとんどの人がソフト面(頭脳)の強化を図られているのでそれが物事の価値基準になるのは当然である。

 

産業革命は未だに続いている、末端の産業労働者にならないように足掻く仕組みは未だに根付いている。
それでも人間は、様々なタイプを生じさせ続けている…頭脳に向いた人間、マルチタスク的な人間、肉体労働に向いた人間、手作業に向いた人間を連綿と生じさせている、これが生物というものである。
にもかかわらず頭脳に向いていない人間も「末端の産業労働者にならないように」と頭脳労働へと引っ張られて行く…結果不具合が生じる。
このカーストに何の意味があるのだろうか?
勿論、私が今から洋裁をやってそれがどんなに楽しく、技能も習得したとしても、私一人の食い扶持を確保することすら現実には難しいだろう。
人形創作や趣味の服飾というものはいくら傍目に創作家を名乗っても、それが賃金には加算されない世界である、パート代を楽しく稼ぐという地点に終始するのだと思う。
でも創作家と名乗れるじゃないか、と思う人もいるかもしれないが…先にも言ったとおりそういう物事は客観的にソフト面を強化する場合の名称であり、体感の楽しさとは別物であるし、創作する人本人の創作欲求というものは詰まるところ…バイクに乗ったり旅へ出たりするのとほとんど同種のものであると私は思う。
だからこれをやれば成功で、それ以外は落伍者という概念は本当に、創作というジャンルを駄目にしていると思う。
この概念故に、産業革命は未だに尾を引き、名ばかりの成功者か、末端の産業労働者のどちらかが手作業というものだという認識が消えないのだから。

 

創作や手作業について、この視点を理解していないと「頑張れ、お前ならきっと有名になれる」という素っ頓狂なゴール地点を提唱されかねない、私は結構この矛盾を伝えるのに苦労する事がある。
だってバイクを好んで乗る人にそんなこと言うだろうか?
今から旅に出るという人にそんなこと言うだろうか?
単にこの種の言葉が意味するのは「産業革命以降の最低カーストから免れろ」というエールである…しかし実際は、主観的真実に於いては、体感だけが全てなのである。
目の前の手作業をやる、ということだけが全てなのである、それを楽しめる人に自分が生まれついたというただそれだけの話なのである。

 

私が現在好むビスクドール産業革命以降の品物である、そりゃあブリュやスタイナーといったメーカー開発者は天才であるし、題材となった「女児の人形」という概念…市松人形の存在も奇跡である。
だがその沢山のビスクドールの絵付けをした一人一人の職人の…ソフト面、頭脳や個人的な哲学は一切見えない、勿論それでいいのかもしれない。
沢山の量産性の人形のドレスを縫った内職工の日常は見えない。
状態の良いアンティークドールの値がとんでもない額になろうとも、彼等は無名であり、彼等は低賃金のまま生涯を終えただろう。
名前が残るのはメーカー開発者であり、これこそが今現在も脈絡と続く、「創作家=名を残すこと」という呪詛でもある。
本当は…主観的真実に於いてはただひたすら「質のよい、生きているかのような人形を作る」ということに終始していたのだと思う、手作業及び数多の創作とはそのようなもので、足掻くようなものではないのだ。

 

手作業というのは創作だけではない、料理や掃除なども手作業の一つである。
私はよく父に言われた、父本人は忘却しているだろうが私には深く突き刺さる言葉であった、「ブルーカラーにはなるなよ、這い上がれないぞ」というものである。
それは真実である。
私は手作業の方が向いているので事務職→図書館→清掃と職業に於けるハード系手作業ループに入り込んで来たが…確かに、手作業は身体の調子が狂うと本当にやり直しが利かない。
しかしこのやり直しが利かないという考えが何処から来るのかと冷静に見つめると…義務教育時代になされたソフト面の強化に端を発しているに過ぎないのである。
産業革命以降の「現場作業は最低カースト」という仕組みそのものを一丸となって盲信しているので、手作業に進むということがまるで社会から転げ落ちていくような印象を抱かせる結果になる。
生きていたら、掃除は必要である、だからそれが仕事として在るのは当たり前である。
料理も必要である、建築物も必要不可欠である、火も刃物も必要不可欠である。
子供と接する事も必要不可欠なはずである、だから何かを可愛いと思う時、人形を可愛いと思うときには即ちその仕事も必要不可欠な働きの一種なのだと私は再認識する。

 

「そんな無駄なもの作ってどうするの」
昔、両親にそう言われる度、私は反論出来なかった、私はいつしか創作は悪であると思うようになった、だから心理的に自由に創作しているという人が羨ましくてならなかった。
家も狭かった上、父は若干潔癖であった、そうでなくとも創作中の部屋というのは部屋自体が蠢いているかのような雰囲気になる、よって私は堪えていた。
確かに在る意味で創作は悪である、不必要な縫製品が大量に生産され、何処も競うように安売りをし、それがまた生産に拍車をかけ、さらなる速さで既製品が工場から吐き出される。
縫製品を作るということは縫製品を作る人が居て、その人たちのお給料の為に服が作られているのであって、最早誰の為でもないのである、他者の為の服ですらないというのが今の実情だと思う。
その有り余った服…店頭にすら並ばず、何処の会社も買い取らなかった服は倉庫から焼却炉に直行である。
これは何処かの地点から見たら、縫製会社のエゴによって生じる無駄である。
焼却炉に勤める人は誰かが創り上げたものをただ焼く、そこにはその人たちの思考や頭脳といったソフト面は見えてこない、その人たちもまた現場の人員であり、個人ですらないのだ。
…この仕事は果たして必要だろうか?
物凄いスピードで縫製品を作るという働きは果たして必要だろうか?
確かにある地点に於いては、創作は悪、なのである…本人の思考や思想が見えてこない限り、仕事は悪を含んでいる。

 

現在はひきこもりの人が大勢居ると言うが…何を以てひきこもりと言うのかが曖昧である、私も「出勤していない」という地点に於いてはひきこもりだろうか?
稼いでいないという点では引きこもりだろうか?

何もしない事は悪なのだろうか?

何でも良いから何かして、猛烈なスピードで縫製品を作って猛烈に焼却したほうが「善い」のだろうか?そのほうが「健全」なのだろうか?

私は、それならば働かない方がマシだと思えて成らない。


ちょっと話は戻るが、ひきこもりなどの現象についてここで言いたいのは、押し並べてソフト面を強化したことによる仕事の偏りが、「手作業系」の人間の仕事の幅を減らしてしまう結果になったのではないかということ。
産業革命に次いで戦後の日本が進めてきたのは日本という国自体をソフト的な立ち位置にしようという目論見なのだろうが…あまりに生物の理論を無視していたのだと思う。
結果的に、世の中にはソフト面の強い人、手作業などのハード面が強い人など様々な種類の人が居るにも関わらず、皆が皆「会社に出勤してソフト的な仕事をこなす」という一律基準を、義務教育時代から押しつける事となった。

 

よって、自分のやれる仕事が無いと思う人が「増えた」ような現象が起ったに過ぎない
本当は昔からある程度の割合で、手作業好きの人は生じていたはずなのであるが…手作業を「食い扶持」に出来る賃金水準ごと他国へ流出させたがために、手作業で生きる等というとあまりの低賃金故に「半分は遊びでしょ」というような語弊が生じるのである。(もっとも、私は仕事というものが楽しければ楽しいほど、根源的には本気の遊びであるほど純粋な働きになると思っているが)

 

すぐ近くの街も、歴史的には元々織物の街であった…仕事探しといえば手作業が主だったろう。
接客業なども、元来は接客が好きな人が自然に流れ着く仕事であって、無理矢理愛想よく振る舞うのは果たして「働き」だろうか?

誰がそんなことを望んでいるのだろうか?

 

さて…私が開眼したように愛ではじめたビスクドール(というジャンル)についても、洋裁についても、このような物事は通常の時間の流れとは別次元の出会いであるような気がしているので、取り立て、過去のあれこれに自分の全てを見いだそうとしているわけではないのだが…


それでも少し…後悔の念が生じている。
危ないものには触れさせるなという風潮…これは本当に害悪である、現に私は幼少期に何度も針に触れようとした事がある、母のサーモンピンクの裁縫用具入れをよく隠れて触っていた。

 

そりゃあ…母一人が幼児たちの面倒を見るというその時に、子供が針に触りたがったら普通止めるだろうが…私は本当に手先を動かしたかった、母が悪いわけでも何でもないのだが、後悔先に立たずである。
そして洋裁や裁縫というものの持つ…それが女への強制であった時代の古風な概念や、それに対する両親の嫌悪というものや、何でも押し並べてソフト面を強化し、誰もがコンスタントに物事を理解し、社会に於いて「上」を目指すといった「魂の抜けたような競争概念」に、私も、だいぶ足踏みをさせられていたのだと思うと、何だか悔しくてならない。
手作業はどんなに頑張っても内職工なのだという社会認識によって、好きな事に辿り着かずに居たということが何だか惜しい。

 

月末あたりにミシンが来る。
もしこれをお読みの方に…こんなことを言うのは何様?という気持ちもあるのだが…お子さんが居る人とかが居たら、その子がもし料理や裁縫に興味を持っている風であったら即刻、針や包丁を触らせてあげてほしい。
勿論手を切ると思うし、針も何度も指に刺さると思う、血も出るだろうし痛い思いもするだろう。
だが、それでもやらないよりかはやったほうがいい。
指ぬきの付け方もわからないのに手作業がやりたいという熱を…燻らせているその事にすら蓋をし、数十年も遠回りするよりも、さっさと基礎的な事をやらせてみてほしい。
さあ遊べと言われて漠然と校庭や公園で無為な時間を過ごすよりも、熱意を持って、「本物の火や刃物」で「何かを作り出す」ということに慣れた方が絶対に良い。
…まあ、これを読む子供の居る人って居るのかどうかわからないが、少なくとも友人よ、お前は子供関連の仕事をしているので、子供が危ないことをしそうになったら止めているのだろうが…多分、子供が危ないことをするのは、危ないことを過度に止められているからである。
何を精神論をとお前は言うかも知れないが、子供というのはいろんなことをやってみたいのである、私は子供の頃の認識というのが結構残っているタイプの人間なのでそのことがちょっと解る。
火はどういうものなのか、針はどういうものなのか、それによって何が作られるのかというハード面の強化、その欲求が遊びというものである。
その欲求を燻らせたまま、表面的に遊べと言われるので虚無感が募るのである。
危ないことをせずに遊べというのは大いなる矛盾で、そうやって無為な時間を過ごしてきた子供は自分は何も出来ないという気持ちだけを募らせ、そのフラストレーションがいじめ等になって放出されるのである。
多分、子供時代にハード面を強化するということが機体(肉体)の強さに関わってくると思う、これはとても難しい事のように聞こえるだろうが…漫然と遊ぶ時間だけを過ごした人というのがどのような苦しみを抱いているのかを私はよくわかる。

 

無論これはただの精神論で、実際に、子供の面倒を見るという事に関する賃金対価はあまりにも低い、その低い対価で子供の発達まで導いてやるなど…現実味の無い話であって、それこそ倍の給金を貰えばやれるというのが現場の体感であるとは思う。

そう考えると、悲しくなってくるが。

多分私のような、情熱を持て余したようなタイプの人間が、社会的に遂に落伍者になってようやく手作業に対して辿り着くのではと思うと、心底…心が痛む。

今、無為に遊んだり、無為に塾に行ったりしている子供たちのうちの大半が、私の抱える虚無感に直面するだろうと予想する。

 

頭脳思考の人、肉体思考の人、思考労働、現場労働、手作業…数多の仕事が本来の働きという意味合いによって、社会を動かす時が、どうか来ますように。