散文の自画像 

創作魂を持つ大熊という人間が、散文で日々の自画像を綴る文章ブログです。

人形譚(散文)ある日唐突にお金という概念の価値の一切が消失しても、それでも行いたいという働きをしたい

 

因果律には不備があるのよ、あれは不完全な理論なの、だって閃きを感じる瞬間には内面的な知識を得ていたりするじゃない?
不可思議な啓示を受けるとき、それを了承、決意したときに生じるあの「体感」の泉、あれは一体何なのかしらね?
私は思うのよ、因果律で言うところの経験というものが無くて、何の証明も出来なくても、決意して喜びを得たときにはもう出来るようになっているって。

 

人形への愛ってものを、私は既に実感しているって。

 

昔…家に小さなお人形があってね、白猫のお人形にはリリー、灰色ウサギにはメアリー、人の形をしたのにはアンナって名付けて遊んでいたの。
人形にはそれぞれに性格があって…アンナがどんな女だったかという事は…言った方がいいのかしら?一言で言うとあばずれね、とにかく道ばたで裸になったりするような子だったの、彼女は着ている服が気に入らなかったのよ。
裸になって暴れ回っているアンナをよく嗜めていたのが灰色ウサギのメアリー、メアリーは賢いお嬢さんでコンスタントに何でも出来る子だったの、お人形たちのご飯もメアリーが毎日作っていたのよ。
お人形たちでもお腹が空くって知ってた?
誰かがご飯を作って、お人形に食べさせると本当に満足そうな表情を浮かべていたものよ、メアリーは特にお料理を楽しんでいたから。
メアリーには部屋がなかったのだけれど、白猫のリリーには書斎があったの、彼女はお祈りしたり、アンナの行動に眉をひそめていたりしたっけ…リリーは潔癖というか、挙措は優雅なのだけれどちょっと澄ましたところのある子だったの。

 

…人形たちを全部捨てたのはいつだったか、だけれど不思議だったのは…最後までアンナが見つからなかった事。
アンナは人間の姿をしていたから、脚も猫やウサギよりも長いし、体力もあるのかもしれない。
リリーやメアリー、他の動物人形たちを袋に詰めていったの、その時の気持ちは…「私は私自身という人形があるのだから、自分から乖離して遊んでいては駄目だ」ということ…今でも思い出すと悲しいわ。
別れを決意したときに急に人形たちが…物に変化したのよ…その時に私自身が主観的喜びを失ったって事に気付いたのはだいぶ後になってから。
居なくなったアンナだけはもしかしたら、その変化を免れたのかも知れない、いつだって言うことを聞かない子だったから。

 

だからこそ私の中でずっとアンナは、アンナの「部分」は生きていたのかも知れない。

 

客観的に観たら、あばずれというよりも最早一種の破戒僧めいていたアンナも、物腰だけは優雅な潔癖症のリリーも、包容力のあるメアリーも、そりゃ、皆「私」だってことくらいわかってたわ。
だけれど「本当は」人形の性格というものは造形だけではない不可思議な摂理が働いて…もしかすると誰の手元に行っても、アンナはアンナで、リリーは潔癖症、メアリーは母性…なのかもしれないと思うのよ。
押し入れを空っぽにした日、とうとうアンナは出てこなかった。
アンナはまだ何処かをほっつき歩いているのではないかって思っているのよ、これはあながち間違いでも無いような気がするの、証明は出来ないけれど。

 

アンナとの不思議な別れから10年くらい経った頃かしらね?
当時は等身大の人形愛好家という存在が少なかったこともあって、ネットでその存在を知った私は彼等の綴る日々の様子をよく眺めていたものよ、ほのぼのとした毎日がそこには在ったの。
セックスとか、そういうことよりも所有者の彼等が人形の中に人格を見いだしているのが衝撃的だったの、だって男の人が…アンナやリリーやメアリーと接する時の女の子の気持ちとほとんど同じものを体感しているだなんて知らなかったから。
写真に写る等身大人形は、大抵独特の表情をしていたの、それは所有者の気持ちが人形そのものの造形に何かしらの影響を与えている状態のようだった。
だって本当に、アンナはアンナで、リリーはリリーで、メアリーは誰がどう見ても優しいメアリーだとしか言いようがないのと同じくらい、その人形はその人形なのだという確固たる「魂」が…私にも見えていたから。
…あの人形たちは今も元気かしら?
それとももう、ある日、主観と客観の間に溝が生じて、そして改めて人形を見つめたその時に、昔の私が体感したような苦しさを覚えて、別れたりするのかしら?
それでも私がそのようなサイトを見るのをネットの醍醐味と捉えていたのは…心の中にいつまでも人形への究極の愛が燻っていたから。

 

人形は自分なのかしら?
人形は、自分にとっての愛すべき他者なのかしら?他者の形は何でもいい、娘でも恋人でも何だって良い、他者という位置づけならば…でもそれは究極的には自己への愛なのかしら?

 

学生時代の話ってあまりしたくなくて…学費だけかかって、結局馴染めなかったの、だって周りの皆は…お嬢さんだったんだもの。
服なんてものを脱ぎ捨ててハチャメチャに生きていたいという潜在的な欲求が「アンナ」という形で体現されるような人間は、進学すべきではなかったのよ。
お嬢さんであるところの皆の中には人形にハマっている子たちもいたのよ、私はそれを横目で見ていたの、件の「リアルドールサイト」に私は私でハマっていたから…人形所有者の発する「愛」というものに私は釘付けになっていたから。
学内の人形愛好家はそれこそリアルドールみたいな二十歳前後の女の子たちだったけれど、彼女たちに共通していたのは誰からも所有されたくない!という強い思い…ともすると怨念だったようにも思う。
というのも、彼女らは私から観ても地味で男っ気が皆無で…自分自身の身体を自分で所有するということすら半ば放棄しているようにも見えたから。
自分の身体を見る時の視点というのは主観なのかしら?
それとも客観?

 

私はね、確かに「写真を撮られると魂は吸い取られる」と思うのよ。

 

写真というものがこれほど普及してしまうと最早お笑いぐさだろうけれど、写真を撮られるときに私も一応笑うの、その時に私は自分を客観視するように強いられるのよ、圧倒的な客観概念に。
自分というものの存在が主観で満たされていたら本当は…誰もが満たされた気持ちになるのだと思うのよ、客観視が悪だと言うのではなくて、【客観視を強いられることが悪】なのよ。
これは実際社会悪なのよ、小さい頃から写真という形で客観視を強いられたぶんだけ魂は本音を隠すの。
そして自分が不細工であるとか、基準に満たないとか、あれこれ思い悩むの…果ては実際にそれを言葉にして投げかけたり、他者から当然のように嗤われたり。
若き人形愛好家の乙女たちはきっと、自分の身体や魂が人に迎合されるものでないということに、既に当時の人生でほとほと疲れ切っていたのではないかしら…男たちの言葉だけのせいってわけじゃない、彼女たちが自分で自分を客観視し過ぎたのが全ての原因よ。


当時はそれが歪んで見えたの、私はある程度の客観視と孤独な主観で化粧をして、いつものように彼氏の車に乗り込んで、無意識のうちに自分がどう見えているのか気に留めていた、と同時に…私は自分の所有を放棄して何かを主観だけで一心に愛でたいと強烈に思ったものよ。
彼女たちが羨ましくもあったの、でも、声はかけなかった、私の中のアンナは生きていたけど…旅に出たままだったから。

 

人形への愛が母性だというのは短絡的な話ね、男性にも母性や父性はあるのだろうけれど…ああいうものの愛を表現する言葉が見当たらないの。
子供への愛というのとは別物だと思うの。
異次元への愛、みたいなもの。
理想化した自分への愛?だったら私の生み出したあばずれのアンナは?あれは理想というよりも…なりたくない姿だったわ。
でもそのなりたくない姿の、なりたくない奇異な立ち振る舞いのあばずれのアンナを、私はまさしく愛していたのよ。
いろんな子が居たけれどどの子も愛していた、その愛が燻って、焼けるように痛いときがある、肋間神経痛のほんとうの原因はきっとこういう魂の物事なのよね。

 

聖母マリアの顔を見たときもそうなの、私の中の疼くような気持ちが芽生えてくるのよ、ええ勿論聖母マリアの本当の顔なんざ今生きている誰も「因果律」的に考えれば、知りもしないって事くらい解ってる。
聖母マリアを見て途方もなく「懐かしい」ってことをどう表現したらいいかわからない、マリア様はマリア様よ。
全く同時に、サンタムエルテもマリア様なのよ、私は聖母マリアという存在は神々しくて禍々しいものだと思っているのよ…だってそれが、真理というものだと思っているから。
聖母マリアやサンタムエルテの御像を、毎年丁寧に作って着せる文化があるそうね、私は、私は、そういうことがしたかった、したかったというか…それらを見ると、私は…今の自分が自分でないようなもどかしさを感じるの、もっと自分自身に成りたいって強烈に思うのよ。
この胸の苦しさが母性愛?
この胸の苦しさが理想化した自分への愛?
所有欲?それともナルシスティックな欲求なのかしら?
あるいは自分自身の持ちうる全ての客観を投げ捨ててしまいたいという衝動でしかないのかしら?
全てに於ける自他の境目を無くしたいという究極的な願望なのかしら?

 

カメラというものが普及して、人々が自分の内部の客観、批判に晒されるという社会現象が起ると、人はこうも歪んだ愛を人形に見いだすのかしら。
もしカメラというものが無くて、誰も自分の外見などそこまで気にせず、批判し合わずに過ごしていたとしたら…私は人形への秘めた渇望は芽吹かなかったと思うわ。
それともやっぱり、呪術的な「神」としての人形にどうしようもなく惹かれたのかしら?
人形の存在しない文明ってきっと無いと思うのよ、どんなに原生林に暮らしていても、お守りや呪術、祈り、伝説を具現化するということを人間は行ってしまうの。
それが人間というものだから、人間は何処かの地点で自分と他者を区分けしているのよ、これが動物と異なる部分よ。
空気までもが自分自身だと言うことを忘却しているのよ。

 

全身がピリピリする、私は自分の脚の痛みを言う時に一番適切なのは「境目を越えたから」って事なのじゃないかと思うの。
修復の境目を越えた、若さの峠を越えた、でも若さって…とても客観的よね。
どの地点というのが実は常に現在であることを考えると本当に年を数えるのは不毛よ、もう不毛なのよ、だから自分のおぞましさとか、自分の愛がはたから見てどうだとか、そういうことってもうどうだっていいの。
この皮膚のピリピリする感じには実は覚えがある、アトピーだった頃の記憶よ、あの頃、私はアンナたちと遊んでいたの、アンナの肌は綺麗だったから、服で守ってやる必要も無かった。
アンナは私の代わりに踊っていてくれたのかしら、小児アトピーを越えた私は今度は老人性アトピーになるのかしら、そうしたら彼に捨てられるのかしら…ね?客観は無駄なのよ。
だって内部で起る客観はどこまでもその実、主観なのだから、客観視をしてほしいならば誰か他人に頼むしかないのよ実質。

 

自分の身体は上手くいかない、でも人形の身体も欠損があったり肌の色が微妙に変化したり…決して万能ではないの、時代によって顔自体が変化して生産されるものだから余計に、古くなりやすいの。
私がここ数日でどれほど沢山の人形を見たのか…そのどの時代、どの地点にピントを合わせたのかそろそろ語るべきね。
結局一番綺麗だと思うのは陶磁焼きよ、ビスクドールが一番綺麗ね、ちょっと厳かな所が一番…目が合っているって思うの。
ねえ私、ビスクドールを既に手にしているような気がするのよ、重みもわかるの、その人形の考えてることも。
確かに人形はある地点までは「物」なのよ、私が自分の中の愛に正直になった瞬間に口を開いてくれるの、大丈夫呪詛なんて吐かないわ、私は強いて言うのならこの情熱は聖母マリアに感じる情熱だと思うの…だから人形は皆、私にはマリア様なのよ。

 

100年以上前に作られた人形にどうして愛着を覚えるのか、どうして不可思議な懐かしさを覚えるのか、触った感覚までもがわかるのよ。
自分自身で纏うには心が逃げてしまうようなドレス、自分自身では直視し難い「自分の」眼差し、自分だったら隠れてしまいたくなるような…愛らしい振る舞い。
そういうものを主観だけで一心に見つめていられるのが人形なのよ、私、洋裁をやりたいと言ったでしょう?
私は因果律で言うところのずっと「昔」から、作品を作りたいという使命を帯びているのよ、洋裁が本当に作品になるとしたらパリコレクションか人形のドレスだと思うの。
人形、それもビスクドールの纏うオートクチュールドレス…完全に客観から逃れている存在、それが人形なの、そうでない限り洋裁は作品には成らないのよ。
美学にはいろいろあるけれど、肌の美しさと眼差し、そして根源的なレベルでの「畏れ」の宿った存在は聖母マリア像やサンタムエルテ、そしてビスクドールなのよ、私にはね。
だから思ったの、こんなにもビスクドールのドレス制作に向いている人間は居ないって、唐突に私は思い至ったのよ、ビスクドールドレスを作る職人になろうって。

 

私ね、何処かの地点では自分は既にドレスを作っているのではないかと思うの、こんなことは誰も信じないでしょうけれど。
人形も、作っていると思うのよ、今特に一致しているのは人形用のドレス、淡い渋いシルクやレースで作られた作品の手触りなのだけれど。

 

職人、という名称だけが一人歩きしないように言わせて貰えば、人形のドレスという「作品」を作ってパート代を稼ぐというのが私の目的、働きにしようと思うの。
…稼いだ先に何があるのかって?
私にもわからない、ただ、もしかしたら私は私のバグダッド・カフェに辿り着くことがあるかもしれない、そこにアンナも居るかも知れないから…その時の旅費に貯めておこうかしら。
それとも人形で、使ってしまうのかしら?
新たな布代で使ってしまうのかしら?
でも一つだけ確かなことがあるのよ、「ある日唐突にお金という概念の価値の一切が消失しても、それでも行いたいという働きをしたい」って。
きっとね、ビスクドールのドレスを欲しいと思っている人は居ると思うの、私の作るドレスを欲しい人は居ると思うの、嘘だって思う?

 

因果律で言えば裁縫もろくにしたことのない私がこんなことを言って、ついにやきが回ったと感じる人もいるかしら?
そうなのミシンすら触ったことがないのよ、ミシンどころか、ビスクドールにすら触ったこともないのよ、文化的にもゴスロリに興味があったことすら無い、それでも唐突に因果律を越えて【触れた】美に対して私は素直になろうと思うの。
脚の痛みを考えながら、金銭という名目がなければ意味すらも消失する仕事に就くのは、私は…私自身の愛に対して失礼だと思うのよ。
仕事をするときにネックなのは脚の痛み、だったら内職をすればいい、それも…作品作りを生業にすればいい。
作品を作りたい欲求に、どうか素直になれますように、マリア様…人形の微笑みのマリア様。
直感や内面の知識については因果律では解き明かせないわ、だってこんなにも私、理解出来るのだもの、人形の世界を。

 

私が言いたいのは、人形への愛を決意したってこと。

自分の中に宿る言い尽くせない情熱に頷くことにしたということ。

客観的にそれが醜くても、愛を貫くって決めたって事。

どうかこの愛を貫かせて下さい。