散文の自画像 

創作魂を持つ大熊という人間が、散文で日々の自画像を綴る文章ブログです。

労働教


夜遅くの駅前、鞄を胸に引き寄せて世界を守る、「戦士の休息」、労働の後の安堵感こそが私の属する宗派の最大の恵みであり祈りだったわ。
これでも私あの労働教拝金主義宗派の言うことをそれなりにきちんと聞いて、私なりに守ろうとしていたのよ、でも自分の始末を自分でつけるのって案外大変で、それは月に13万のお金では出来っこないって事だけを証明する期間でもあったの。
数字は不可思議ね、目の前にないのに未来を映し出している。
数字は好きよ、本当は憎んでなんかいないの、ただちょっと合理性に欠けているって所が愛せなかっただけ。
合理性に欠けるのよ、一神教ってものはね、お金ってものはね、常に常にありもしないものを目指そうとさせられるのよ、誰も観たこともない未来の為に夜遅くまでくたくたになって、奨学金と部屋代で消えて行く数字を私は、噛みしめる事すら出来ない、出来っこないの。
確定しないものを崇めるこの宗派は戦後特に根強くなったようにも思う、戦前を美化なんかしいてやしないわ、戦前の苦渋は…詰まるところ誰かを虐めることで乗り越える類いのものでしかなかったのだから。
私が属していたのは戦後の宗派よ、家を代々守るという脈々と続く伝統ある宗派ではなくて、自分の始末は自分でつけるという教義の宗派。
これに属していたのよずっとね、でも思ったのよ、そんなこと誰にも無理だって。

 

「あなた子供も居ないのにフルタイムで働かないの?」
ってパート先の人に言われたりもした、ちなみにこういう事を言うのは意外にも私を「ある程度好んで」いてくれる人たちだったりするの、つまりは労働教の中でもかなり属する宗派が近いから…そのよしみもあって口出しをしてくれるというわけ。
フルタイムで働くというのはこの時代の独特の美学で、これには宗教学的な見地から言うと「殉教」ってのがぴったりの表現なの。
私がこの殉教を耐え得るということを遠回しに、薦めてて下さっていたのよ、これは厭味じゃなくてある程度本当の事なの、本心から言ってくれていたのよ、「あなたなら殉教出来るはずだ」ってね。


でも私のような女が月々残業在りの15万以下のお金で尚且つ家事もするというのは…これが殉教であると、先ず私自身が認識しない限りは実行不可能だわ。
信仰心がない限り不可能だわ、信仰心無くしてこれをやるのは時間への冒涜だわ。
ある時、ある奥様が私に言ったの。
「私の娘だって働いているのよ毎晩遅くに帰ってきて毎朝早くに出かけていくの、デザインの仕事をしているんだけどね…デザインっていうのは、携帯に出てくる広告のデザインの仕事、大変なの」
あらそう、その仕事が一刻も早く無くなって娘さんがのんびり暮らせるように願うことにするわ…って、心の中で返したものよ、携帯の広告なんざクソくらえだもの。

 

私が一番不可思議なのはこの殉教の仕事が、究極的に「誰かの為になっている働きなのか否か」について全く論じられないって事、労働教は労働の意味について論じる事をタブーとしているのよ。
今の世の中は戦後の拝金主義という一神教にマクロ的には支配されている状態だから、全く不必要な「働き」が善しとされているのよ。
そりゃあ携帯に映る広告ほどうざったいものはないにしても、雇用という代名詞に於いては全てが盲目的なまでに是とされているのよ、意味不明に働く「行為」をすること、とにかく消費すること、消費「しすぎない」事。

 

通勤鞄の中にはその重量に見合った安らぎがあった、それは事実、私は一人で「漠然と信仰している」自分を褒め讃えたものよ、ああ私は本当に真人間です…ってね。
夜の電車の中には信仰上での同胞が沢山いたように思うわ、同じ匂いを纏っているのよ、殉教の匂いを、崇高だと思いたいという切実な願いを身に纏っているのよ。
自分は今まさに祈りの中に居て、神という存在とあと一歩のところで触れ合いそうなのに、一致できないっていう無言の言葉を私はよく聴いたものよ。
あの頃、私、誰かと語り合えるなんて思っていなかった。
鳥を籠に入れておいたらその鳥は根本的には死んでいるのよ、活動を是としない限りその人は盲目のまま。
それでも海外に自由気ままに行った人のうち、バックパッカーですら、困窮邦人と呼ばれるに至っているって私は、誰からともなく知らされる度、どうして自分には鎖がまとわりついているのだろうって疑問に思うの。

 

ある日誰もが、お金というものについに何の価値も意味も見いだせなくなってしまったらどうなるのかしらって私、よく夢想するの。
そうしたら全てが壊滅する?
多くの誰かが自殺する?
電車もバスも止まって大混乱が起きる?
誰も何もしなくなる?
…本当に人間が全てから自由になれるのであれば、むしろ、何事もなかったかのように人々は働き続けると私は思う、特に、その行為が「働き」であり、御摂理であると自覚しているのならば。
勿論携帯の広告なんかは一夜にして消滅するでしょうけれど。
働きというものがその人の活動になによりも近ければ、人は自然と働くものであり、活動するものなのよきっと。

 

小さい頃私よく、自分が食べてて美味しかったものを近くの誰かにあげていたの、母親でなくとも構わなかった、それは誰でも良かった、近所の誰かとか道ですれ違った人とか、病院の看護婦とか。
小さい頃の私には見知らぬ人と見知った人との境目が曖昧だったの。
とにかくその時その瞬間に目のあった誰かに何か、手持ちの益を手渡したかったのよ、全部じゃなくちょうど半分。
半分、というのが私の美学だった、何もかもをふたつに割って手渡していたの、特に食べられる物は、特に美味しいものは。
「土地とお人形は半分には出来ない」
ということに気付いたのは妹が生まれてから…それからだんだんと、自分の手持ちを誰かに半分こしてあげるってことを、遠慮するようになったの。
だって皆持っているのよきっと、私よりもずっと持っているのよきっと、私よりももっともっと持っているのよ世界中の誰もが…だからあげなくったっていい。
私なんかが、自分から誰かに何かあげるということは私の価値観の押しつけでしかないから、何もしなくっていい。
皆の教義にも口出ししないほうがいい、お金の価値というものが危ういだなんて敢て言わなくたっていい。
黙って15万以下のお金を受け取ってヘトヘトになっていればいい。
…後々芽生えたこの気持ちこそが、我らが崇拝するピラミッド社会の理念である拝金主義に拍車をかけていて、私もそれに染まっていたのだって事に気付いたのは、もっと時間が経ってから。

 

半分こにして、あげるって精神は案外誰にでもあって、それが生きる術なのよ、半分は自分に、半分は誰かに。
この気持ちが労働の中に根源的に入っている、だから労働は崇高。
この崇高さだけが一人歩きして、少しでもこの基準を満たさない人をのけ者にする、労働は崇高…だが労働について行けない者は…?
この国は明らかにファシズムに毒されているのよ、戦勝国のね、小さい内から「労働が出来るように」って教えられるのだもの、それも戦勝国の利益になる労働が出来ますようにってね。
そこで言う労働というのは利他的という意味ではなくて、単なる戦勝国主体の拝金主義、私は嫌になったの。
私は確かにこの宗派の恩恵を受けている、でももっと有益なことがしたい。
自分の持っているものを半分こにしてあげる、というようなことがしたい、そうなの、本質ではそれは限りなく遊びなのよ。

 

ちょっと横道に逸れるけれど、ミシンに恋しているのよ今、手元にないから余計に恋しい、このやりたくてたまらない感じが物事を加速させるの。
私は単に自分用の服が作ってみたい、窓から空に向かってさっと手をかざしたら、大きな布が風景からめくれて、私はそれを織った何者かに感謝するのよ。
だってその誰かさえ、きっと私に「半分」くれたのだから。
その半分であるところの透明な布地を私は眺めるの、綺麗、夜空も夕景も全部織り込まれているのね、そう言って私は心のミシンで針を走らせ全てを縫い込むの。
そうやって出来た風景のドレスを、私は先ず自分で着て確かめるの、これが果たして美味しいのかそうでないのか確かめるの。
出来の良いものだったらまた誰かにあげるのよ、ドレスを作ったという経験と型紙は私用の半分、ドレス本体は目の合った誰かに、はいって渡すの。
心のミシンでスカートを何枚かと、ドレスのようなものを作ったの、私ね、こういうことを今の世に蔓延している教義に照らし合わせて考えようとはしていない。
例えば洋裁で自分一人の身を養うとか、考えてはいない、だってそれは不可能なことだと知っているから。
漠然と求人誌を見ても、洋裁のデザインというものをやっていく場合は月20万で魂まで売らなければならないほど、大変そうだから…そんな人果たして居るのかしらね?
月20万で身体まで壊すくらいだったら、拝金主義と労働主義という教義に於いては、私は…もうこの宗派を辞めようと思うの、そうよ、幼い頃から続けてきたこの宗派をやめようと思うの。

 

ねえ、パリコレクションの服って工場で作られているのよ、低賃金の内職工たちが作っているの、知ってた?
縫製工になりたいのよ、黙々と服をつくりあげられたらどんなにか楽しいでしょう…だけれどそれが、果たして誰かへの働きになっているのかしら?
世の中の人はそんなに服が欲しいのかしら?
年間どのくらいの衣料が廃棄されているのかしら?
…だって私は、自分で作り出してみたいだけなのよホントは、遊びたいだけなの、買いたくもないのよ、だから縫製工になりたいのかと言われると…本当はなりたくもないのよ、誰にも着られないまま捨てられるだけの服を作るなんて耐えられない、それが自分の生み出したデザインならまだしも、単に指示されただけのものであるのならば…半分こにはならない、数百トンもの縫製品が捨てられているのよ…そんなものを作ってお金を得るだなんて、怖気がするというのが私の正直な気持ち。

 

半分こというのは、半分は私のものである場合にだけ利益を生じさせるのよ双方の、だから私にとって本当に「美味しい」ものこそが、遊びこそが、利益になるのよ。

 

労働というものが本当に価値のあるものであるならば、もっともっと楽しい自発的な状態であるはずなのよ、だって自分が楽しくないことをどうして誰かと半分こに出来るの?
店内には沢山の服見本があるのだけれど、それを買う場合には採寸して身体に合う物を、自分の好きな素材で仕立てることが出来たらどんなにか良いでしょう。
数多のデザイン見本があって、どれにするか選んで、そして自分で作れたら…あるいは誰かに作れたらどんなに楽しい事か。
私は本当に物事の根本は遊びだと思う、夢想家と言われてもいいの、遊びというのは無意味なことじゃなくて意味の在る時にそれが本当になるの。

 

私個人がミクロ的な視点でこの世を糾弾したって、マクロ的には既に染まってしまった独裁から逃れられない、拝金主義からの完全脱退なんて私にだって無理よ。

 

心で矛盾に気付いていても稼ぐしかない、それが楽しい事柄であるのならば確かに、労働教は在る意味で真実なのよ…いずれにせよ人間は月何万なら魂と肉体を受け渡せるのかしら?
15万?20万?30万?
もしそれが自分の本性にきっちりと見合った活動であるのならば…夢想と現実を照らし合わせてちょうど半分くらいならば頷けるのかしら?
遠くへ行くって事が仕事をしているうちには度々起ったりするけれど、その実ほとんど無意味な「働き」だったりする。


私はあなたの手を掴む、あなたの手の温かさと、持った鞄の重みがちょうど同じくらいの熱さを帯びる。
もうあのプラットホームへ行くのは嫌、だって誰も痛みに対しての謝礼など払ってくれやしないもの、だから私世の中の労働教はやっぱり、一度崩壊するような気がするのよ。
あなたが遠くへ行ったら、それに対しての寂しさの謝礼を誰かが数値にして私に手渡してくれるのならば、私も数字に対して「半分こ」してやってもいいとは思ってるの。
でもね、このシステムには痛みや苦しみに対して不備があるのよ、システム上の欠陥といってもいい。


私は夜の駅前で鞄を抱き寄せる、もうちっとも安堵出来ない、だってこの宗派からいよいよ抜け落ちているから。
私にはこの宗派の正当な祈りである「戦士の休息」を唱える資格がないもの。
だって戦士って、いなくてもいい、だって戦いって、本当はもっともっと…本質的なものよ、例えば今、私が宗派から抜けるというようなこと、これすら戦いのひとつなのよ。
あなたの手を握り続けるってことも戦いのひとつなのよ。

 

あなたの手を握り続けるってことは私の、「働き」のひとつなのよ、とても小さな…働きなのだけれど。