散文の自画像 

創作魂を持つ大熊という人間が、散文で日々の自画像を綴る文章ブログです。

私の微笑みは嘘です

 

目覚めた時の体感が1000歳くらいだったら私はもう、庭先に寝転んで口に土を食んでそのまま死にます、虫が身体を喰い、鳥が骨をつつき、太陽が虹色に輝いたら橋を渡ってそこから手を振ります。
さようならさようなら、でもその光景を見ているのもまた、私なのです、だから死ぬという事にも実は意味が無く、救いすら無いのです。
過去の整理をしたときに出てきた写真のうちいくつかを、昨今交わっている彼に送りました、その写真に写る私はどれも笑顔でした、詰まるところ抜け殻のようでした。
その写真は身内の人間により撮られた物です、私は気の置ける仲間内にはこの種の笑顔を振りまいていたのです、にもかかわらず私の見つめる世界は何処にも映っていませんでした。
私の見つめる世界を関知出来る人がたまたま周囲には居なかったのです、だから私は笑顔で居ました、それだけが私に出来る最善の事だと思ってそう過ごしていたのです。

 

私の見ている風景には焦点が絞られた物とそうでないものがあります。
服、等の制作に於いては焦点が絞られています、スカート、パンツ、カットソー、このように一つ一つが分散、独立しているので制作に於いても敢て全てを融合させてりはせずに、スカート、パンツ、カットソーというような庶民のしきたりに応じて創り上げようと思っております。
でも一方で、絵に関しては的を上手く絞ることが出来ずに数枚描きました、単に今年に入ってから数枚描いただけで、モチーフは全く独立しておらず雲散霧消、絵の具をまばらに塗ってスポンジで擦り、輪郭をぼやけさせたような代物ばかりを作っております。
この場合作っているというよりも絵の具を混ぜるという行為をしているに過ぎないのです、好きな人と本当に一つになろうとするのか、あるいはセックスだけがしたいのか、身体さえあればいいのか、そうです私はまだ絵と一体に成れていません。

 

絵と一体になろうとして私は深い場所まで素潜りをします、この素潜りが地底にまで到達するときに私は、自分の軸と思っていた物がガラガラと崩れ落ち、世界が揺れて自分という境目が失せ、魂が膨れ上がるのを感じます。
ええ、経典ではそのようなものを魔境だと言います、私の見つめる風景は魔境なのです、これは幻影なのです、軸が崩れ落ちるという事自体が幻影なのです。
でもお母さん、私、見たのよ、大勢の僧侶たちが荒野に座して巨大な門の前で唱えているのを、お母さん私見たの、私もその中の一人なのよ、僧侶は数え切れないくらい居て、皆一心に祈っているのよ。
…確かに私は口ではこのように言いました、見た物について正直に話したのです、けれども私は両親からカメラを向けられるととりあえず微笑みました、シャッターの切れる音がして私は微笑みをやめ、また荒野の坊主たちを見つめましたが両親には、今目の前の「娘」という肉体が微笑んでいるというそのことのほうが真実だったのです。
そういうわけで私の創作についての願い、魔境への憧れと実感は伏せられ、私が微笑んでいるというそのことだけがこの世での真実と成り果てたのです、本当は…見つめているものを追わない限りはこの世の働きにすらならなかったのですが、誰もその仕組みを本気で知ろうとする人が居なかったのです。

 

世に言う悪行を重ねると本当に地獄に堕ちるのでしょうか?
自分が自分だと思っている自分とは、自分の見た世界を是とする自分の事です、でもその自分はこの世に於いては何とも、役立たずなのです。
よって役立たずということの方がこの世での自分、この世での本当の自分、という認識に変化し、いつの間にか盲信しているのです。
この世で自分が何か非常に優れている部分がある、という認識すら、単にそれを知覚出来たというだけに過ぎないのです、悪行の人というのはこの認識値が狂っている…あるいは、狂わずに居る人なのかも知れません。
狂わずに居るから、酸素の足りなくなった人なのかも知れません、私はどうしても悪行をする人という存在に自分を重ねてしまうのです、だって、自分が何者でも無い地点に聖女が居るとするならば、聖女とは、その実究極の悪人でもあるのです、何者でも無いというのは何者にも成り得るということに他ならないのですから。
ねえ、聖女様、血の雨というのは何処かでは薔薇の花びらの雨だったりするのでしょうか?
だとしたら私が襲われたことにも御摂理が働いて、何処かでは煌めきが生じたりするのでしょうか?
あるいは、私が世の中にとても善い行いをしたと自覚しているのならば、それこそが悪行だったりするのでしょうか?
私の愛こそが憎悪の根源だったりするのでしょうか?
聖女様、あなたも微笑んでらっしゃる、でも私には解ります、微笑みの中にあなたは微塵も、一欠片も存在などしていないということを僭越ながら私は深く知っております、だって物置部屋から出てきた夥しい微笑みの写真の中には…私すら、居ませんでしたから。

 

このように認識が広大になりがちなのです、え?私は今、絵の話をしているのですよ。
私の見ている風景というものを絵にしようとしているのですけれども、色は複雑にはなりましたが、全く焦点が絞れずに居ます、世界の外側まで全てを含めようというのはいささか…やり過ぎでしょう、でも、私ははっきりとそういう物を絵の中に見る事もあります。
何処かの原住民の描いた一見拙い神話の絵などの中に、宇宙の外側が含まれる絵を何枚か見ました…そうです本当は誰しもが何処かの原住民なのですけれども。
私の認識にはどうしても仏教とキリスト教が混じっています、しかし熱で魘された時や風呂上がりに失神しそうになるときに、それらの認識の外側へ意識が飛びます。
物置部屋で保管していた思い出の数々も、ものの5分で何一つ意味を成さない風化した呪文に成り下がるのです。
何々学校を出て、どうのこうの、という個々別々の人間の持つあらゆる自己認識など、塵芥の如く消え失せるのです。
…まさにそこに、絵の世界があるのです、絵の世界はその場所からの景色の具現化なのです。

 

こうして考えると絵を描くということを恐れる気持ちもわからなくもありません。
描くということが日常の向こう側であるのならば、創作は死です、日常を永遠に続けるよう義務付けられたのがこの身体という物体なのです、そうです、身体とは本来永遠の機能が備わっているのです。
私は二十歳前の写真を彼に送りました、高校時代、中高時代、小学校、就学前…どんどん小さくなって行く私はまるで今の私では無いようです、代わりに私の母はどんどん今の私に似てくるのです。
私や妹が赤ん坊の頃の写真など、まるで母こそが私のような目つきをしてこちらを見ておりました、私は注釈しました、これは私の母であって私では無いと私は彼に伝えました。
つまり私はそこに無限の何かを観たのです、永遠に繰り返す身体の機能を観たのです、その一本の道筋には個人の識別など無いかのようでした…私たちは皆、一本の蛇なのではないかと私は思い至り、身震いしました。
生命の蛇、永遠の螺旋…その視点から見た私は何と心許ない事でしょう、私の住む家というのもきっと私が「過去に」観たものを再現しているのです。
それを具体的に誰が観たかなどということは、実に下らない事です、誰が誰でもそれは「私」なのですから。
絵を描きたいというのも誰かの持っていた「働き」が私に生じたに過ぎないのです。
しかし私個人は孤独でした、結局の所、この命の蛇に関しても、私の見つめる宇宙の外側や創作の景色に関しても…私の血縁者でそれを関知する人間が居なかったのです。
よって私はいつも探していました、絵の風景を見ることの出来る相手、観ているものの話の出来る誰かを生まれてからこの方、上の空で微笑みながらその実ずっと探していました。

 

私は誰かに成りたいとは思わないのです、観た風景の場所へ行きたいのです。
巷に溢れる概念の一つに厄介なものがあります、作品を作ることだけを目的にする思想がある、ということです。
何者かに成る、ということだけを目的にする思想があるということです、これを私は嫌っているのです。
どんな作品なのかということよりも、どのような人がそれを「どのような過去と理論で」創り上げたのかということを拡大鏡で覗くような思想があるということ、これを私は厄介な概念として認識しております。
だって本当は、その人が誰だっていいじゃありませんか。
何故って、その作品が何処から来たのか元を正せば、優れた作品というのは総じて生命の蛇の部分から訪れているのですから…個人という認識を超えているので、取り立て矮小な「自分が」何者であるのかなどということを話題にしなくともいいし、それを比べたりすることの無意味さも、少し考えれば解ることです。
どうしてこんなことを考えるのかというと…これが創作するということのほとんど最大の誤解だからです、この誤解のために私はいつも、絵を描いているというと独特に気恥ずかしい思いをします。
私が矮小な事に拘っているからです、だから私はさらに恥ずかしくなってつい、微笑んでその場を取り繕うのです、そしてその微笑みを観た人は勘違いするのです。
私が微笑んでいるという事こそを私の真実だと、勘違いするのです。

 

仕事というものを通勤と定義するならば私は仕事をしておりません。
仕事というものを人と折り合いをつけて事象として切磋琢磨することだと定義するならば…私は仕事をしているのでしょうか。
こんなのは不健康よと言う人も居ます、多分私がふらふらと生活をしているということに疑問を抱く人も居ると思います、居ると思っているだけで本当は一人も居ないのかも知れません。
本のフィルムかけは仕事なので、もう駄目出来ない、等とは言っていられません、その場その場が本番で数をこなしてゆき、これを誰かが手に取るのだという確証の元作業を進めます。
私は静かな午後の部屋で強く思うのです、私は仕事に助けられている、と。
対人という確証が得られるということそのものの恩寵を私は、文字通り人知れず噛みしめる事が多々あります。
対人という確証が得られる状態で、絵もまた、生じるからです。
…私がまだ初恋の味を噛みしめていることをどうかお許し下さい、あの人に絵を見せるのは甘美でした、甘美過ぎて目を背けているのです。

 

さて、本のフィルム貼りと違って絵がいつまでもぶっつけ本番でないので、いまいちはかどらないというのは、哀れなこの世の真実です。
絵というものが誰かの目に触れるという確証があってこそ、絵は完成するのです…私はこの確証を恐る恐る、触れるか触れないかのところで手を引っ込めてしまうのです。
何故って、絵がまだ完成しないからです。
お解りでしょうか?
私は永遠の輪に囚われております、それもこれも…極限まで突き詰めて言うのならば、死が怖いからです、死そのものを怖くないと思う気持ちと死を回避する働きは別物です。
死、そのものを忌避する働きが私の身体には卑しくも宿っております、これが行動を制限する柵の役割を果たしているのです、そうです、私の身体は常に私を生かそうという働きに殉じているのです。
死に向かって手を伸ばし、触れる事の出来る人を私は知っております、だから彼には全部のことを伝えておきたいのです、私の微笑みは嘘です、そう伝えておきたいのです。

 

不寛容さは自分を窮屈にさせます。
働かない事を恐れ、働かない人を責める人があるとすればその人は、自分自身の身体が不自由になったとき、自分の世界というものが牢獄に変化し、自分自身に呵責される運命にあるのです。
不寛容さは自分を窮屈にさせます、だから私は悪人を観てもあれは自分自身であると思うように…なりたいのです。
私の不寛容さは、作品作りに於いて作品よりも作者に軸がずれているような思想そのものを糾弾したくなる部分に在ります、そこでの私は自分を許せないのです。
醜さが許せないのです。
我欲というものが強いからこそ、過剰な醜さを投影してしまう癖が私にはあります、この醜さの投影を隠す故の微笑みを体得しており、そのことによってさらに私という人間の本性が見えにくくなっているというのが、私の現状であり、私の人生だったのです。

 

こういう認めたくないものを、私は物置部屋で見つけたのです、もう一度言います、私の微笑みは嘘です、しかしこの嘘無くしては生きてこられなかったのです。
だって私は、何にせよ、この「地点」まで来なくてはならなかったのですから。
きっと生命の蛇の軸に於いては、あなたも私も同じ存在でしょう、だって私の言うあなたを解るというのは…まさに母子のそれなのですから。
私も寛容になります、我について寛容になります、そうすればもう少しピントも絞れるでしょう。
聖書を読んで寝ることにします、聖書の旧約と新約を交互に読むのです、そうすると1000年や2000年をあっという間に感じる事が出来るのです…人の名前も記号に過ぎないと思い知らされるのです。
明日目が覚めると仮定して私は眠ります、ほんとうは、それが明日という地点であるのかを正確に観測することは誰にも出来ないのです。
だから目が覚めたときには1000年くらい経過しているのかもしれません、だとしたら私は土を食むでしょうか?
庭に寝転がってそのまま死ぬのでしょうか?
…おやすみなさい、聖女の微笑みは私には不必要です、聖女の観ている景色を私に見せて下さい、そして描かせて下さい、神様。