散文の自画像 

創作魂を持つ大熊という人間が、散文で日々の自画像を綴る文章ブログです。

大掃除迷路の出口にて花びらの雨を望む


私が表したいのは本当の外気、聖女の死に、降るという花びらの雨。
紆余曲折の大掃除迷路の出口に私は立っている、外側で静かな花びらの雨が降るのをじっと見ている。
見えている風景の外側からこちらを見たら、私は、宝箱の中に居る玩具みたいに見えるだろうか?
私は一体の人形で、この人形を作るには粘土を捏ねて、腕、脚、臀部と組み立てていって、ああこの一体はちょっと大きめ、この一体はとても美しい、この一体は…粘土がちょっと足りなかったみたい。
そんな風に作られたうちのたった一人、それが私。

 

そういうわけで物置部屋の改築を唐突に中止した、物置部屋を宝物庫と改めて、全てフィルムコートしてある本たちを詰め込んで行く。
描いた絵も、床に直置きするよりは宝物庫に寝かせて置いた方がよかろうよ、といっても丸半分は要らない絵だ、丸半分は実は売りたくない、しかし人に見せるということはそれ即ち販売ということである。
ただ見せたいというのは一番たちが悪い、どうしてこの思考回路に陥っているのかというと、自分の手元に置いておきたい絵というものを私は量産出来ないから。
まぐれ当たりみたいな良い調子の絵が数枚あるだけで、あとはゴミ…ゴミはゴミで見せたくはない、売りたくも無い。
良い絵をコンスタントに描けるようになったら販売してもよい、販売してもよいというだけであって、手元にあると落ち着くから売れなくて良いという物欲もある。

 

おいおい、昨日まで物置部屋を初恋の色で洋裁部屋を作るって言ってたんじゃなかったのかと言われそうだが、一晩寝たら、洋裁部屋は現書斎(M氏と一部屋を半分こしている)を改造すればよいという結論に至った。

 

よって現書斎を洋裁部屋に改造する試みを行っている。


初恋の思い出はどうするのかって?あのねえ、思い出を美化しても生きて行けないのよ、初恋の色の布で服を仕立てればよいのよ。
こうやって昨日言ったことを今日覆すということを繰り返しているので、私はM氏には全く信用されていない、信頼というよりも信用すらされていない。

 

私が何故物置部屋の改築を諦めたのか…現宝物庫、元物置部屋にはちいさな窓が一つきり。
その中に10分も居ると息が苦しくなってくるのだ、ここで言う息が苦しいってのは鼻から口から吸う息ではなくて身体の毛穴からの緩やかな呼吸のこと…そうだった、この感覚がアトピーを引き起こす引き金になるのだ。
アトピーは現代建築に於ける呼吸困難症候群である!狭小住宅は悪である!と私は宝物に埋もれながら断言した、その声は小さな四畳半ほどのスペースに谺して痛いくらいに私に跳ね返ってきた、言葉は怖い、小さな小さな窓というのも怖い、独房って雰囲気。

 

そうだよ独房の中でミシンだなんてそれじゃ「洋裁楽しい」ってよりも何だか「受刑者が就業している」みたいな感じになってしまうじゃないか、いくら初恋の散った色で壁を塗ったとしたって何か不吉だよ。
マニキュアですら「爪が窒息しそうで」息苦しく、出来ないんだから、稼働するなら窓のある部屋のほうが向いているよ…という訳でそしてさらなる大掃除が始まった。
元物置部屋を空にして
ゴミを大量に出して
元物置部屋に置いてあった日用品をそれぞれの場所へ移動させ
洋裁を書斎でやることにしたために書斎に置いてある大量の本を現宝物庫(元物置部屋)に移動させ
備え付けの本棚を空にして…ここに布や糸や型紙などを置く予定にする
書斎はすっかりがらんとしていて、ミシンとミシン机の来るのを待っている状態
書斎から運び出した絵の道具は一階のリビングの隅に配置
ああ私、一体何のためにこの延々と終わらない作業を…何度も床に座して途方に暮れて過ごしたがなんとか遂行した、終わらない作業という刑罰に処されているようだと嘆きながら夕飯を作る。

 

この家、というものの中に私は居る、この空、というものの中に私は居る、何処までこの範囲を広げてみてもそれは神様の内側なのだ。
写真がいくつかあったはず、確か残っていたはず、エコーの写真も、あの子たちが育っていたとしたら15歳とか11歳とか…いけない!不吉だ!そういう年齢を数えたってどうしようもないのだ。
でも死んでいたとしたってそれは神様の内側での出来事、私の描きたい内側と外側の絵は何処まで行っても内側のまま。
膨張する内側のまま…家中が私によって引っかき回され、外を見ると田んぼでは田植えが始まっていた。

 

庭の外をふと見ると自転車が家の壁に停められている、さらに「その自転車に」遠慮するかのように狭い道の反対側に連なるように自転車が停められている。

あのなあ…道の両脇に自転車停めたら歩行者の邪魔になるだろうが!どかせ、そんなこともわからんのか!遠慮する対象を履き違えるなよ、歩行者に遠慮しろ!!
…とは実際、言うに言えずにむしゃくしゃしながら庭から自転車を見つめていた、田んぼでは稲作大会が開かれていた、大会もいいけどこういうマナーはどうにかしろよと悪態をつく私に気付いたらしい人が自転車を移動させる、そうだ、はじめからそうしろと私は彼等を庭から見下ろす、私たちは互いに動物だ、縄張りがあるんだ。
ここで人間らしい事を言うなれば、私は道を退くとか退出者が出るまで待つとかいうマナーにうるさい方である、道を独占するように停める自転車というのが自宅の壁に停められていたということよりもその実、この細い道を行く数多の歩行者の邪魔になるからどかせ、というのが私の言い分なのである。
この場合私が元来持つ優しさこそが仇となり、私という人間は優しさのぶんだけキツくなる。
人様の家庭をぶっ壊しといてどうしてマナーにうるさいのだと思う人もあるかもしれないが…それが何処まで美学と癒合しているかという点が物事を測る基準である。

 

どうでもいいことは極限まで譲る方が世の中が美しくなり、一方で全身全霊をかけて欲しいものは、手に入れた方が美しさが増すので、欲しいのである。
こうしたことでも善悪は融合するのだ、最終的にはただのエネルギーに成り果ててしまうのだ、そのエネルギーを作る為の田んぼはどうしてかとても穏やかである、農耕は一種の美学である。

 

まだ見ぬ洋裁部屋を瞼の開閉と共に写し出して見ているうちに、時間感覚は曖昧になってゆく、もうかれこれ100年ほどこうして模様替えしている気がする。
一方で自分に30余年もの過去があるとは到底思えない、だってこの感覚は、幼い頃と寸分違わずに在るから。
家についての愛着も、既に「見知っている物を建てた」気がしているので、新しいとはあまり思っていない。
私はこの家への愛着が強いが、本当は、絵の具だけ持って、誰でもない人として、何処かへ行ってしまいたい。
物置部屋からさらなる過去をゴミ袋に詰めた私を、知っている人というのはその実少ない、別に自分が誰であってもよいのだと思うと唐突に、さっさと出かけたくなる。
でもその行き先は、時間感覚の外側…しかし外側へは行きようがないのだ、聖女しか到達出来ないエリアなのだ。
そして時間の内側、神様の内部である地続きのこの世界を、何処へ行こうとも、私はきっと目の前に田んぼや畑を作り、家を建て、その家の中に物置部屋や洋裁室、絵を描くスペースを作るだけだろう。
何もかもを自分の愛着の通りにしようとするだろう、だから今は何処へも行かない…。

 

…本当は、創作をする傍らで、彼と目を合わせたい。
彼も創作をして、私も創作をする、それぞれに創作をして、たまに見つめ合い、身体を求め合いたい。
それはもう叶っているのだろうか?
私が瞬きする間、目を僅かに瞑っているその間、世界が反転している間は彼は創作をしているのだろうか?
何かをやっている時でないと本当の人生を歩めていないような気がしているけれども、この認識自体がまやかしであって、目を瞑る瞬間毎に世界は開けているのだろうか?

 

聖女の言う薔薇の雨というのはもう、降っているのだろうか?

私が目を閉じている間は世界は薔薇色なのだろうか?

 

私はたった一つの縫い目。

私が、自分を自分だと認識しているのは長い長い糸のたった一つの縫い目、マナーのなっていない誰かだと認識したのもその実、同じ糸。
布地は縫い目から見たら広大だけれど、本当は糸と同じような性質で出来ている。
全て織り込まれている。
たった一つの縫い目であるところの私は布地の上を歩いて行く、今生、来世、再来世…その実全て同時進行の作品作りであることを知るのは果たして「いつ」なのだろうか?
いつ、というものを超えるのは「どこ」なのだろうか?
人間というものが一つの縫い目に見える地点とは一体何処なのだろうか?
そこにさえ到達出来れば、世界は花びらの雨で満たされているのだろう、そこに辿り着きさえすれば、皆が皆聖女に成れるのだろう。
私はそこに行きたいの、その場所から見えるものを描きたいの、そこは何処?その時私は自分を自分だと認識などしない、私は誰というよりも私は何なのだろう?
何者でも無いということは即ち、数多の何かであるということ、神様、私をそこへ連れて行って下さい。
でもその前に洋裁部屋を完成させて下さい、書斎を洋裁部屋に造り替えて下さい。

 

私の青春の代わりに祖母の写真が出てきた、杖をついて微笑んでいる、彼女は声の出し方が独特で、猫がゴロゴロ言うような音階で喋っていたように記憶している、この祖母から私は脚の欠陥という遺伝を賜った。
猫の音階というと猫なで声を想像する人もいるかもしれないが…鳴き声ではなくて、喉を鳴らすゴロゴロ音が声帯に含まれている低い声だった。
この声はまだ何処かで響いている、私の声としてではなくて、風の中に紛れている、死んだ人というのはエネルギーだけをこちらに残して過ぎ去ってしまう。
元物置部屋を宝物庫と言い換えても、これすら、私がフィルムをかけた数多の本すら、空気の内に霧散するのだろう、神様の内部に散るのだろう、その時に果たして枯れた花束は花びらの雨を降らすのだろうか?
私は答えたい、花びらの雨が降ったように見えた事を私は描きたい、そうすれば本当になるからと聖女に言いたい。

 

聖女は私の傍らで微笑んでいるのだろう、数多の霊魂の傍らで微笑んでいるのだろう。

花びらの雨は絶え間なく降り注いでいるのだろう…過去にも未来にも。