散文の自画像 

創作魂を持つ大熊という人間が、散文で日々の自画像を綴る文章ブログです。

枯れきった初恋の花束の色

 

渋いベージュピンク、クルミ色、そういう淡いくすんだ色のペンキを塗りたいんだ今すぐ、新しい小部屋が出来たから、枯れきった初恋の花束の色を纏いたいんだ私は。
東の部屋だから夕景の色を塗りたいんだ、終わってしまう色にこそ永遠が宿っている。
その部屋は、元は物置部屋で私の怨念が詰まっている、怨念というよりも罪悪感といったところか。
何せ今まで、判断のつかないものをそこに詰め込んでいたのだから…判断のつかないものというのは私の人生に溢れていて、今使うか今使わないかの判断すらつかないものが大半なんだ。
そういうわけで白黒判断のつかないくすんだ色のものをそこへ放り込んでいた。
その部屋を使いたくなったのは唐突にミシンをかけたくなったから。
洋裁をするには場所が要る、その部屋を洋裁部屋にしようと決めたから。
新しい事をしたくなったから、古い色を塗りたいんだ、新しい事をしたくなったから、終わってしまった美しい物の色を塗りたくて堪らないんだ。

 

ものを全部引っ張り出して、引っ張り出したものに白黒つけているうちに脳ミソから、白とも黒とも判別のつかない言葉たちはここ数日のうちに、踊りながら出て行ってしまった。
廊下には溢れんばかりの過去とも未来ともつかぬ、灰色の何かが転がっている、これを全部捨てるんだ全部。
君らは必要無かったんだ、しかし未来は、いつも手の届かない場所にある。
聴いてると宇宙の見える音楽は既に聴いたものばかり、未来の見えるものはほとんどが過去のもの、だから好きなものは既に手に入っている。
まだ手に入れてないものは私がこれから作るもの。
これから作るもののために私は部屋を作ろうとしている、これから作るもののために私は家を建て、これから作るもののために私は土地を探し、これから作るもののために私は、命を捧げている。

 

それとももう既に、命も捧げられているのだろうか?
君に捧げる青春は無かったよ、高校のアルバムなんてクソくらえだ、もう捨てたんだよとっくの昔に、制服と一緒に。
だから私は「ほんとうは」自分の事を何と名乗ったってよかったんだってことに、今更気付いた。
過去が解らないとその人をわからないと言う人もあるけれど、きっと高校時代のニキビだらけの私を見るよりも、女子高生という正体不明の何かを想像してくれたほうがマシだろうから、それでよかったんだ。
本当は私は未来から来たんだよ、くすんだ水色の世界から、青春を捧げに。
理想の青春を、君に捧げに。

 

物置部屋を空にしたということは必然的にその他の部屋に使用予定の荷物が増えると言うこと…お陰であちこちの部屋で大掃除というアクシデントが発生している。
見慣れない日常、旅行先に来たみたい、あるいは、私は今歩いているみたい、未来に使う物だけを持って歩いている。
物置部屋はこれから開かれる催しに胸を躍らせている、こっちを見ないでと言っていた人が急に婚礼前夜の花嫁みたいに目を潤ませている。
夕方を感じる曲が好き、と思ったのはもう30年も昔から、だから新しい曲を聴いてもその楽曲に夕方の色が滲むかどうか、いつも過去に照らし合わせて私は吟味している。
昔の曲の中にも夕方の色の通り道があって、それはやっぱりくすんだ空色とか渋いベージュピンクなんかの色をしている、夕方の色をしている。
私が生まれたのは16時頃だと聞いた、ね、全部はじめのうちから決まっていたんだ。

 

一番きれいなものは、しおれかけた花束、その中でもさらに一番綺麗なものは、一番好きな人には渡せないまま枯れた花束。
そういう色が欲しいんだ、その為に私は恋をして、全く叶わない恋をして、この色を掴んだんだ、枯れきった初恋の色が一番綺麗なんだ…と言っても私の初恋は30過ぎの出来事だけれど。
君の望むであろう昔の写真は一部だけ残っていた、当時から、皆が皆携帯の普及と共にしょっちゅう写真を撮るようになっていた。
ちょうどその頃から私は写真に写るのを避けていた、一つは醜かったから、もう一つは過去を捨てたかったから。
でも過去は同時に未来なのだという事にまだ、その時は気がついていなかった、ああごめんね、君に見せるような青春の写真が私には無いんだ。
きっと想像するほうがずっときれいだし、これから作る物の方がずっと価値があるよ。

 

物や過去や確定しない未来が排除された後の物置部屋は、人が死んだ後みたいだった。
「ねえこの部屋、明らかに何か、この部屋で何かあったでしょ?」って突っ込みたくなるような空気が、小さな部屋の床から天井まで、くすんだ色のゼリーみたいに詰まっていた。
「いやここ新築だから…」と私は自分に語りかけた、そうでもしないと観測不可能の何かに肩をポンっとされそうな気配があったから。
つまりね、ここに詰まっていたのは私の過去と、私の不確定な未来だった。
これからここに詰め込むのは私の、ほとんど確定した未来であり、出生時から決まっていた好みのパターン。
夕景の色、くすんだ色、渋い色、淡い色の光、そういう確定要素をここに詰めて行く、ここに詰めて私は次の場所へ行く、かたつむりみたいにこの部屋と家とを背負って。
私の苦手な色は真っ白な壁、だったら先ずそれからはじめなければ、先ずは室内用のペンキを塗るところから始めなければ。
先ずは部屋を完成させることから始めなければ…私は回り道しているのだろうか?

 

気付いたことが一つある、「稼働」と分類される物事のうち、どうしても場所が必要な物もあるが、絵は場所を必要としないということ。
絵は絵の具とイーゼルさえあればなんとかなる、私甘えてたよ、絵に関して。
あちこちに絵の道具をちまちまと置いて、その道具を置くための場所を私は考えていた…だがそんなものは必要無かった。
稼働とは言い難いものに「祈り」がある、これも場所をとらないし、どうしても祈る対象が必要かというとそうでもない、祈り方にも作法や礼儀を重んじる方法もあるけれど、本当はそんなものは必要ない。
祈りたくなったらその場で祈るとよい、祈る場所というか、位置は決めておいてもいいかもしれない。
でもどこでも祈りの場所に成り得る、何処でもあの宇宙への扉は開いている…時間と空間とをこの手に欲しければロザリオなり、数珠なりを持てばいい。
その中に夕日に染まる広大な雲も、月夜の野山も、連綿と繋がる街から街への道も全て含まれているから。

 

場所をとらないものは、自分の体感と実感が全てだから、わかっている、君の宇宙は彼方に在る。
君の作るもの、君の祈りは「絶対に不可能」という文言が内在している、それが「完成品」に内在しているという時点で善悪や白黒といった地点を越えている。
君が作品作りを怖がるのもわかるよ、生死を超えているのだから。
自分の体感と実感が全てのものは、習う必要は無い。
絵も掃除も演劇もセックスも、習う必要は無い、恋も、人生も、好きな音楽のその色を好きと思う事も、自分の感覚だけが真実味を帯びている、主観だけがほとんどの答え。

 

反面、場所をとる物は、ある程度まで客観の法則に従う必要がある、だから試行錯誤の末、答えを聞くというやり方で習うのは到達への近道だろう。
内職も最低限、机が無いと出来ない、つまり最低限のやり方は習わねばならない。
料理も、最低限のキッチンが無いとなかなか難しいだろうから、やり方は習わねばならない。
それと同じく洋裁も最低限、机が無いと出来ない…ミシンが無いと何かと難しい、つまりその分の学習が必要だ、しかしこの時点での学習は私にはあまりピンと来ない。
私が知りたいのは服の補正についてと、体型別に服を仕立てるということについて。
型紙から作れるようになるには単に型紙から作れるように試行錯誤すればよいと思っている…が、その型紙をその人の体型に合わせて作れるようになるには勘だけでは難しいと感じている。
…ちなみに洋裁経験はまったくのゼロだし、親もミシンに触れている人間ではない、周囲に服を作れる人も居ない…そういう文化圏じゃないって感覚。
にもかかわらず創作や内職といった稼働に慣れているので私としては結構、服は当然作れると踏んでいる、だってもう見本が沢山あるのだから。
洋服自体は私だって持っているのだから、型紙を見てわからなくなったら着用している服を見ればよい。
このような当然出来るでしょって気持ちは家を注文して間取りを作る段階にも起って、庭を創る時にも湧き起こって、そしてまた、ミシンに触ったことも無いし型紙の見方もわからないのに既に自分の服を創作したくてうずうずしている。

 

型紙は、いいなと思う感じの本をいくつか買った、ただ型紙についても不安はある、というのも私の感覚では服作りといったら布を身体か、あるいはトルソーに巻き付けて、そのままデザインを起こしていくやり方を夢想していたから。
型紙から服を起こす場合、どうしても身体の厚みというものを後回しにしがちである、だって二次元から三次元に起こすのってそれだけでもうひと手間じゃない?
トルソーに型紙を巻き付けて行くという場合はその厚みが既に含まれているから、楽じゃない?
トルソーに型紙を巻き付けてデザインを生み出した方が…早くない?だって三次元だから。
生まれながらに三次元のデザインの方が汎用性が高いような気がするけれど…どうして平面図法で服のデザインというのは決められているのだろうか。
勿論、三次元のデザインを、布に落として裁断、というときに二次元に一度落ちる、世界は二次元に落ちるけれど。
服を作る場合全て、一度二次元の通り道を通過するのだけれど。

 

今通っているこの道は、大昔に住んでいた団地の模様替えの時にも通った道だ、シェリル・クロウを聴きながら通った道だよ。
生まれる前にも通った道だよ、あれこれ考えあぐねて、そのあれこれのもたらす淡い色合いだけが私を満たしている、根源的な道。
だから全ての創作物は究極的には「既に出来上がっている」、君の創作物ももう出来上がっている、君が絵を描いてくれたら。
君が絵を描いてくれたら、君の好きな色が私に飛び散って私の夕景は汚されるだろう、それでも私は踏ん張って、在る意味では影響を受けすぎないように君と戦わねばならない。


だけど愛って、何処かに憎しみがあるときにこそ本物になるような気がするよ。
と言っても君との間柄は恋人とは言い難いのだけれど。
いつだったか私が新撰組について話したとき、君は薩長の事を話したね、そうやって戦ってきたような気もした。
でも何処かがくすんで汚れている時ほど綺麗さというものは際立つ気がするんだよ、相容れない個というものがそれぞれに強く在るからこそ、わかり合える気がするよ。
目を引く色だけを塗りたくっても重ねても下品なだけだけれど、下品で悲しいものほど何処かに神秘性が宿っていたりする、君と私の性衝動はそういうものだし、私たちの情というものは醜く、美しい。
芸術が本物になるときもきっとそうだよ、君が「稼働」するとき、私の平安が終わる。
それまでに私は新しい小部屋を渋い花びらの色で塗っておくよ。
そしてイーゼルに立てかけた絵の続きを描いているよ、私はそこで待ってる、くすんだ色の小部屋で。

 

渋いベージュピンクの花びらに埋もれて私は待ってる、枯れきった初恋の花束を抱いたまま私は待っている、きっと生まれた時から私は待っていたんだ君を、つまり君はもう到達しているってことを、ペンキを塗りながら考える事にするよ。