散文の自画像 

創作魂を持つ大熊という人間が、散文で日々の自画像を綴る文章ブログです。

くすんだ色の日々というのは幻想です。

 


私が誰かのことを知りたいからといって、一日をただ目で追うような知り方をしても、それは事象を知るという地点に於いての観測であって、その人の思想は見えてこない。
注いでくれたコップの水を、ただそれをそのままに知るという場合、誰がどのような意図でその水を注いでくれたのかという個人的真理に於いて知るのか、事象に於いて…これは水であると知るのかには大きな差がある。

 

君の思想が知りたいの、思想の推移を、変化を、作品を。

 

よく旅行へ行った、遠い国に行くまでの準備は楽しかった、その事を実行しているときの高揚感は何者にも代えがたい。
でもその前後の日々を私は「くすんだ色の日々」と認識した、遠い国へ行ったその時の私は何にも縛られずにいるような気がしていた、異国の風景や香水の空気の中で私は外側の人間で居ることが出来た。
何のルールやしきたり、その国の人たちが漠然と縛られているカーストに属さずに済んだ、そう、その時私は外国人だった、ただの旅客であった。

 

春先に両親に連れられて旅に出て、帰国し、空港からのバスの中で私の感じる重力は二倍に増えた。
空気が重くない?
やることが多くて、私は唐突に何処何処の誰々という固有名詞を得る、漠然としたカーストの内部へ没入するのを感じて、叫びだしそうになる。
今、くすんだ色の日々に私は居て、今、対面している誰かもその日々の枠の中に居て、今、私は生きていない。
解き放たれたいんだ全部、だから余所へ行きたいと言う人の気持ちはとてもよくわかる、どうして自分が今、定住しているのかの真意も私にはわからない。
でも少し思った、くすんだ色の日々と、そこに属された他者を、私は観ていなかった。

 

今、洋裁に耐えうるミシンが欲しい、性能と耐久性のよいミシンが欲しい。
漠然と押し留まる圧力がある、創作に至るまでの日々は長い、ではミシンが手に入って布が手に入って予備知識も得ている状態に至る、いざ創作!…それまでのこの日々は、果たしてくすんだ色の日々なのだろうか?
庭造りが終わってしまって、あれに没頭している時は確かに楽しかったし、セメント工事が完了したので雨でレンガが埋没する心配も無い、でも完了してしまったということはそこには…もう辿り着けないのだ。
遠い国へ行ったときの「何者でもない」感じをいつまでも求めていた、何者でも無い私は自由気ままだったろうか?
その時見た異国の景色は光輝いていた、故郷に戻ったかのようだった。
父は言っていた、「旅の為だけに他の日々を耐えている」、まさにその通りだった、日本に居て金を得るために働く日々というのは彼にはくすんだ色の日々だった。
私たちはまさにその時、例えばミシンを欲しているこの瞬間も約束の地を求めてさまよい歩いている感覚なのだ、決して到達出来ない光を求めて彷徨っている。
では彷徨っているこの日々は…果たして、幸福とはかけ離れているのだろうか?

 

全ての日々の内側に既に到達はある、鶴ちゃん、彼の料理の仕事の一本の道筋が到達するその間の日々に私は居る、でも、もうこの日々に到達は内在している。
経験が全てだと私はつい昨日言った、でも既に到達しているのだ、昔の私は遠い国へ行く前と後に紀元前と紀元後のような体感を得ていた。
だけれど…旧約と新約は既に繋がっているんだ、作品はもう既に今現段階でも到達可能なんだ。

 

家計簿を見たら、本来到達可能であった金額が垣間見えた。
それを不可能にしたのは自己開示の無さだろう。
私もM氏もまだ観ぬ城の事ばかりに気をとられていて、その城を建てるまでの人生など何の価値も無いように思っていたのだ、その日々と共に時間と共に、金銭をもどぶに捨てていた。
私は江東区を嫌いだと言ったのはそういう意味で、社宅に居たときは常に心が到達未満であった、約束の地は遙か彼方にあって、時間的にも今この瞬間には辿り着けない…そう「盲信」していたんだ。
社宅さえ出れば自由になれる、この場所から逃れればこの場所の制約、私たちを縛り付ける暗黙の人間関係、そういった重いものから真に開放されると信じ込んでいたのだ。
今過ごしている時間はくすんだ色の日々で、特段不幸というわけではないがまだ物事の発現に至らないと、私もM氏も勘違いしていたんだ。

 

根本的に「至らない」と、勘違いしていたんだ、到達出来ない日々にいるのだと、ここではない何処かというものを盲信していたんだ。

 

遠い国へ行く前の日々を、うだるような日々にしてしまっていたのだ。
本当は、遠い国は既にそこにあって、既に全ての時間の中に発現していたのだ。
鶴ちゃん、これをただの理想だと思う?
何か作るときには既に完成したものを作るでしょう?
見えたものを作るでしょう?
私の内部には既に完成された数多の絵と服飾のパターンがある、私が信じているというのはこの事だよ。 
私がそうやって家と庭とを作ったことを、鶴ちゃんももう見知っているでしょう?

 

私が君をまだあと少し信頼出来ずに居るのは、君にとって私が、くすんだ色の日々に埋め込まれているっていうこと。
もし本当に私の言っていることを信じられるのならば、私も君を信じる、作品をもっと根本的に開示して評価してもらうことが出来る。
でも君が、今居る場所や時間を「到達していない段階」と位置づけるのならば、私はいつまでも君には信頼されていないって事なんだと思う。
私が言っているのは思想の話で、事象の話ではない。
事象として絵というものや洋裁が発現しているか否かという事についてではない。
でも、作品をこの世に世に出すのならば、先ず事象として「内的真実に於いては既に遠い昔から完成されていた作品」を、「在ると信じない限り」、「それは事象として発現しにくい」と思う、とても時間がかかると思う。
この部分を信じていない限り、君は私を信頼したとは言えないし、私も君を信頼しきれない。
君にとってのくすんだ色の日々に私が居るのならば、私も君の視点からはいつまでもくすむのだろうと思う、君の約束の地には私は居ない、ということになる。
いつまでも私は君にとって旧約の人間でいるのだろうし、君の新訳の発現に私は駆けつけることが出来ない。

 

個人の約束の地には個人でしか行けないよ、と君は言うかも知れない、創作をするというのはそういう事だからと。
でも、個人でやれることには限界がある。
事象として辿り着く事を目標にする場合も、既に到達地点が在ると互いに言える状態でない限り、どこか切り離された感覚のままで作品を開示する事になる。
それは本当に信頼しているということとは少し異なる。
何故ならそれは非日常だから。


君の日常に私は居ない、私は切り離されている、だから君が何を見て何を思ったのか、思惟の上でどのような結論をその日出したのか、それを私は知ることが出来ない。
だって君は今、作品を作っていないから。
…改めて聞きたい、では作品を作っていない君の日々は、果たしてくすんだ色の日々なのか?君はその日々をどぶに捨てているのではないか?
私が本気で絵の評価を受けるのならば、私も本気で君に対峙するより他無いのだ、でもこれは辛口というよりももっともっと本質的な質問、愛についての質問なんだ。
師弟関係というとどちらかが事象に於いて秀でていて、経験がある、一方は従う、という風に傍目には見えるが、本当は対等に対峙しなければならない。
それは全て信頼に基づく対峙である、私たちはあまりにも個人で、あまりにも我欲がある、だから信頼出来ると私は信じている。
君が、日々をくすんだものだと何処かで思っているのがわかるから、もどかしい、君が日々を本当には愛していないのがわかるからもどかしい。

 

君の背後に広がる景色は今、何色だろうか?
仕事がとても楽しいという君は輝いている、だがくすんでいる、到達地点をまだ信じていないからだ。
君にとっての私もまだくすんでいる、到達地点を私が本気で信じているということを、そのことを、まだ君は信じ切れていないからだ。
もし本当に私の事を信頼しているのならば、何かが足りない、やりたいことをやらないうちはまだ、まだ何かが…というあの未到達な反応は出てこないはずだ。

 

果たしてミシンを手にしたことのない私が「既に洋裁のパターンを得ている」と言うこと…これを君は信じ切れるだろうか?それとも鼻で嗤うだろうか?
完成した作品であると断言出来る絵をまだ描き上げていない私の言う、「でも絵は完成して数多の作品が既に在る」というこの本質を、君は本当に信じ切れるだろうか?
事象としてやらなければ発現はしないと君は言うだろうが…でも、その前に全てを信じ切らないと発現しないのだ、先ず信頼しないと何も共有出来ないのだ、愛が生じないのだ、愛とは…恋愛ではなく、この世を…相手を是とする姿勢なのだ。
私は君の中に完成した絵柄があるのを解っている、信じている、だから君が「何かをしなくちゃならない」と言うのを聞くととても寂しいのだ。
日常は変化である、思想も変化する、でも極相に達している…自分や相手が極相に在るということを信じていないのを聞かされる度、私は迷う。
私は信じているのに、という気持ちが生じ、私は広い天国に一人で取り残された気分になる。

 

たった一人の幸福は悲しいよ。

 

君の注いでくれた水は夕日を反射し、景色を水の内側に込めていた。
私の知りたいのは水の入ったガラス製のコップがテーブルに在る、という事象ではない。
私の知りたいのは、君にとってこの、水の入ったガラス製のコップ…またはガラス製のコップに入った水そのものが、何を表すのか、である。
君はこれが在ると知って、それが君にとってどのような思惟に至ったのか、それを知りたい。
現段階でどのような結論を得たのか、それを知りたい。
つまり私の知りたいのは、君が何をどれくらい信じているか。
今のこの現在の日々をどれくらい信じているか。
事象としては、私の手元に性能のいいミシンが来ても、すばらしい布があっても、素晴らしい絵の具や油があっても、なかなか発現しないだろう。
でも「完成というものは既に内在している」ということを信じていたのなら、失敗やあれこれの経験はするものの、発現させられるだろう、庭や家と同じようにすぐさま事象として発現するだろう。
私は、君のような人はなかなか居ないと思っている、きっと本当は、今の倍くらいの成果を上げられるのだろう。
誰もが。
今の倍、発現出来るのだ、何故発現出来ないのかというと完成した作品が自分の内に既に在るということを、信じ切れていないから。
それどころか、互いにその実在を打ち消すような言葉を投げかけ合っている場合もある、親子間でも単に他人同士に於いても、何よりも先ず事象を優先させる。
綺麗な絵といえば整合性のとれた絵を指すように。

 

この、本質的な到達点、約束の地、完成した数多の逸品たち…これらを先ず信じ、尚且つ到達点に既に居るのだという事を互いに信じ合え、支え合える人が居れば…この世界はもっとよくなる。
効率的な事なんて忘れていいよ。
漠然と私たちを締め付ける世論や道徳概念、善悪の考えも…先ず到達しているという事を信じない限り、何もかもが余計な重りにしかならないんだ、それを君もわかっているはず。

 

私たちは本当は既に天国に居る。

私たちの内部に既に数多の作品が在る、どうかこれを信じて、私を信頼して、君を信頼させて下さい、くすんだ色の日々というのは幻想です。

私たちは既に到達している、自己と他者をそう認識する事が、対面する誰かを信頼するということで、即ち、根本的に愛すると言うことだと私は思うのです。