a.o個人ブログ

詩や創作文章、祈りについての考察を個人的に公開しています。

キリスト教概念と仏教概念の融合

 

仏教思想とキリスト教概念は融合可能である、ということについて考えている。

 

①仏教的個人視点「カルマが生じる」ミクロ視点→
②キリスト的視点「カルマを含めて目視可能な他者=私」というミクロとマクロの両方を共有する視点→
キリスト教的根源同一の視点=神のマクロ視点
④仏教視点①~③の輪廻運動と①~③のさらなるマクロ、ミクロ展開

 

特にこの②の「認識まで視点が到達すれば」確かに「神の観測は可能である」し、認識出来るもの全てが神と同一であると完全に体感出来ると予測する。
そして③神のマクロ視点は同時に、「その次の世」に於いての「個としてのミクロ視点」に置き換えられる、だからそれすら「とても小さい視点」である可能性がある。
全く同時に、神のマクロ視点すらも、常に輪廻運動を繰り返しているので全てが同時に揺れ動いている。
つまり、永遠にミクロ~マクロが連なっている可能性と、また同時に全ての段階で「運動」、生死が起っている可能性がある。

 

この世は「運動」であり、この世は運動の「反応」であり、よって運動による反応が「生じなければ」この世は「空の状態」である。
この①~③の認識域はそれぞれに輪廻運動をくりかえしている。
で、この①~③の輪廻運動は、もっと広大、あるいはミクロの世界にも生じている。

 

仏教の視点では、個人はおおよ永劫に個人である(視点が個人に固定される)、だからカルマというものも因果律というものによって生じている。
キリスト「本人」は、「根源同一の視点を共有した状態の人間」であるため、キリストからは「他者は自己である」ので、「他者を許せ」としきりに言う、この赦しの中には「悪事も善行も運動である」という観点が含まれる。
キリストからは、キリストを磔にした人も迫害してきた人も嘲笑してきた人も、「遍く全てが自分である」と認識しているため、「他者への赦し」が生きながらに可能であったと推測する。

 

裏をかえせばキリスト的視点を得ない限り赦しの感覚は発生しないし、発生しなくても特段「善い」ということ。
赦しは在る。
だからこそカルマは消えない、それも含めて「私」であるから。
キリスト的視点まで「自己認識を進化」させることが可能であれば、今隣に居る人や理解し難い人も、石ころも、実は全てが自分自身であったという認識に到達すると思う。
そこに特段「個人視点に於ける愛着感情」を持たなくてもよいと私は思うし、そういうものを善としなくてもよいと思っている。

 

言葉の上で「自分の世界は自分が作り出している」と言うことは容易いが…そこでいうのは「認識や反応」の話であって、配慮を含めたキリスト的視点の話ではない。
キリスト的視点というのは「本質的に自己と他者は遍く私である」というものだと私は考える。
個人として生きているときに他者と同一であるという視点は得難いし、取り立て得なくてよいと私は思う。
…ただ、生理的に無理だったりする人や生き物が実は本質的に自分自身であるということへの「是」は、生きている内に済ませた方がいいような気はしている。

 

その「是としにくい」感情や諸々の反応についてを、単なる運動の一環として「捧げる」ということをやったほうが効率が良いような気がする、そのような意味でも、地蔵菩薩やマリア様というものは「働きとして実在」していると私は思う。


普通に考えたら自分が暴行され、その相手が実は自分で在ったなどということは非常に苦痛を伴う。
キリスト教概念でやたらと他者を許せとしつこく言うのは、「認識域を引き上げれば(あるいは引き下げれば)」、それら全てが自己であるため、カルマの昇華を含めて、早めに許したほうが根源同一の視点への到達が早いよ、ということなのだと思う。

 

配慮の概念は何処から来るのかというと根源同一の視点から、である。
それは最早キリストを超えている。
あの視点こそが御国と呼ばれる認識領域なのだろう。

 

何故こんなことを言っているのかというと、失神しかかったときに意識が絶妙な具合に「通常の認識域からピントがずれて」しまった感じがあった。
その時見た自分の手足は、全く身知らずの何かであった。
自分とは「どの領域までなのか」ということが一瞬、一切混濁し、それが私の中で確信に至っている。
その混濁を引き摺っている、目の前のコップが自分かもしれないと何となく戸惑っている。
…というよりも、ちょっとでもピントをずらした場合、全く見ず知らずの音や認識が広がっているのだということを「体感しかかって」とても…心細さを感じている。
今生きている認識というものが本当に薄い膜であること。

カルマは実在するということ。

 

カルマを含める全ての働きを「運動」と捉えたら、そこに善悪もつけがたいと思う。
では運動しなければよい、というのが修行なのか?と今までは思っていたが、精神的には追求している状態なのでそれもまた運動である。

 

細胞のたった一つ、それが私なのだ。
私という認識、その認識だけが今の私なのだ。
認識域が肉体からほどけ、さらなる認識域に到達できたのならば。
…きっと死んだら驚くと思う、全くの「知らない他者」だらけのこの世界が、実は自分で在ったことに、驚くと思う。

 

 ※キリスト教的思想と仏教思想の融合は私にはとても理にかなっているという実感があり、むしろ何故この思想が実在していないのか不可思議である。

まあ、キリスト教と仏教の融合というと、新興宗教的としか言いようがないのも事実だが…。