a.o個人ブログ

詩や創作文章、祈りについての考察を個人的に公開しています。

家計簿と個のカルマ

※だらだらと書いています。


「あやちゃんに今年は何も買ってあげられない…」
とM氏は漏らした、私が買って貰って嬉しいモノは家と家具であった、「別に要らないよ」と私は言った、「何かもらう事は幸福とは別次元だよ、家計簿をつけたり、この家の節約に参加することのほうが幸福になれるよ」、私が言いたいのはこれだった。

 

金銭的に恵まれている=幸福
節約=苦労、苦痛
この図式がM氏にも埋め込まれているらしく、だからこそM氏にとって私はただただ幸福を与える対象としてそこに存在していたのだった。
でもこれこそが、「数字という事象と、喜怒哀楽などの感覚を結びつけている」思想行為であるので、この考え自体を撤廃してほしいと私は何度か話した。
ここに足りない概念は一つ、参加、である。

 

参加=体感
はっきり言ってこれだけが人生である、これだけが生きる目的であるようにも思う。
幸福を追い求める事をしなくてもいいんじゃないか、と思う、参加を互いに「必要だと」思う事、「参加の場で自己開示すること」、これだけがやってゆくコツであると私は思っている。
なかなか思うように参加することや、自己開示ということが出来ないからこそ、これを求めているし、自分に課しているということ…とても難しい事柄であるから。
だからこそ私は頼んだ、「私も家計簿というものに参加させてほしい、一人のこの家の一員として節約っていう事に参加させてほしい」、そういう事が「本当は幸福」であるから。
私はM氏にそう頼んだ。

 

よって生まれて初めて家計簿をつけている、まともな家計簿、家賃とか光熱費とかを真正面から見ている、手がむずむずする。
家計簿を買うとまた、その家計簿に沿って計算を組み立てるというさらなる精神的負荷がかかるため、A4のノートに表を書き写して何度か計算を試す。
負債額も、資産総額も収支合計に書き込む…負債120万、つまり資産が無くてマイナス資産だけが120万あるという状態…うーむ、来月は負債70万(返済50万)、貯金を念のため50万、なんとかなる、かな?
私はこの作業がとても恐ろしくしんどいような気がしてしまう、というのも自分で述べた通り、「数字という事象と、自分の恐れや恥みたいなものを結びつけてしまう」のだ。
この不必要な結び目を解かない限り、自己開示というものは出来ない。
借金は、カルマである、個としての生に於ける負のカルマである。
大規模な範囲に於いては、借金は善である…善悪は融合する。
だってこの仕組みが無い限り、経済は成り立たないから。
でも何によってこの小規模なカルマが生じたのかというと、私もM氏も自己開示しなかったということ。

 

互いを全く信用しなかったということ…これが個に於ける借金の原因である、が、大規模的には借金というシステム自体を盲信することは大いなる善なのだが…。

 

先ず家計簿で毎月全体の収支の見直しをする…この計算が一番怖かった。
そもそも収入でまかなえず、破綻していたらどうしよう、という恐れに私が負けていた、それでも計算すると、意外にも黒字だった。
というかむしろ何故この状態で黒字運転出来ないのか不可思議であった。
私もM氏もひょっとして結構な馬鹿なんじゃないのか?
言い訳をするならば…私もM氏も小さな幸福に日々の慰めを見いだしている、聖書やゲームである。
特にM氏は自分の真理とかはあまり考えない、そのため実に人畜無害でよく働くが、その分だけ誰の事も信用せず、開示せず、小さな小さな快楽に身を投じる性質がある。
小さな快楽、お菓子やビール、お菓子や珈琲、ちょっとした食べ物…そんなにやりたいというわけでもない習い事であるゴルフ、ゴルフ用の物品。
とまあM氏だけがホイホイ金を使っている風に書いたが私もなんだかんだで使っていると思う。
私もM氏も「この家に参加していなかった」ので、これらの小さな事を制限するという「喜び」を知らずにいたわけである。

 

目先の小さな物事で自分を慰め、没入する癖がついていたのだった、自分を開示せず隠す癖がついていたのだった、相手を信用せずに居る癖がついていたのだった…これが私とM氏の抱えるかなり同質の、個々の負のカルマである。

 

「本来ならきちんと貯金出来る金額だったよ」
と私はM氏に話した、M氏は静かに聞いていた、M氏には「自分から給料明細や光熱費を見せて欲しい」と言っておいた。
M氏にとって帰宅とは、全ての「事象を観測する」スイッチoffの場である…だからこそ私にも一切何も任せたくなかったのだろう。
だが節約をともに行うとなると、M氏にも参加して貰わねばならない。
M氏の稼ぎだからである。
そのM氏の稼ぎから、貯金額を捻出しようという行いをしたいからである、M氏としても借金(リボ払い)が闇雲にかさむよりも毎月一定金額が貯金出来、さらにボーナスも貯めることを望んでいる。
M氏にも困難がある、お金という数字と感情とを合致させているので、他者に施せないということを感情抜きに直視しなければならないということ。
それを苦痛、という反応だけで済ませていたから、小さな快楽でお金を数万使ってしまっていたのだと思う、私も共犯である。
ただM氏にしてみればそれは一方で「他者の為」であったということ、私の為に使っていたということ。

 

でも人との関係性や、幸福、というものは「参加」によってしか体感出来ないのである。
だからこそ数値という事象と感情は割り切らねばならない。
「私、家計簿つけられたよ!参加出来て楽しいよ、せっかく建てたんだしこの土地を好きだから、家を守ろうよ!」
意訳すると、私とM氏との互いの「参加」が無ければ…節約は楽しくないだろうし苦しいだけである。

 

さらに訳すると、「この家」への互いの参加の意志がなければ、リボ払いなどあっけなく膨らんでいって、数年後には家を手放すことになりかねない、のである。

 

月々に数万の余裕が意外にもある、ということは逆に言えば月数万の余裕しかないと言うこと。

 

「目の前の人間と共に参加することを優先し、小さな快楽で自閉的に過ごすという個に於いての悪癖を克服」しない限り、月数万の余裕など簡単に崩れ去ってしまうのだ…それさえ食い止めればなんとかなるし貯金も出来るのである、要するに自分たちの負のカルマを断ち切ることが私とM氏に「この家を守る」という形で課せられているのである。

 

私はM氏にこの話を詳しくした、M氏が私を信用せず、私の言うことを「たかが主婦の戯れ言」のようにゲームをしながら聞き流していたとしたら、私もただただ聖書に没入し、ふらりと家を出てそれきり、だろう。


聖書がどんなに崇高な書物で、果てしなく謎で、楽しみをもたらしてくれたとしても、時に負の作用を及ぼすのである。
…まあ、個人のカルマということをもっと突き詰めて大規模なカルマと捉えるならば、没入するということも勿論、善のうちに入るのかも知れないが…
個人の借金は個人の負のカルマである、影といってもいい、闇と言ってもいい。
だが借金というシステムは「返せるし利益を出せるということを大前提に互いに盲信し、参加する」という信用商売である、だから借金は、資本主義で言うところの善、圧倒的な光、なのである。
借金は大規模に考えると善なのである。
ただ、個人間で考えるとローン未払いの状態で家を売るとか本当に避けたい、差し押さえとか本当に避けたい、それは結局個人の負のカルマを無視し続けると発生する「破綻」であるので避けたいのである。
この事を考えると…経済社会というものも本当に危うい状態で歯車が回転しているに過ぎないと思い知らされる。
皆がそれを善いと「信じて」いるからなんとか回っているのだ…崩壊するのだろうか?崩壊したその後も世界は続くのであるが…ああここで思考停止してしまう、恐ろしすぎて。

 

でもこの「恐ろしいという感情反応=数値という事象」というこの認識こそが、経済を「盲信」させ、目の前の小さな快楽を喜びや幸福であると勘違いさせ、人生の真意を失わせる働きを引き起こしているのだ。
私とてこの目隠しをされ、それを選択し、生きてきたのだ…私だって馬鹿なのだ。
私には事象と感情を結びつけるという思考的な癖があるので、これをさっさと解きたい、馬鹿じゃなく、なりたい。
資産を貯めるとなるとやはり本当は…数値ではなくて、実物、なのだろうかと最近考えている…が、この話は長くなるのでまた。

 

内向的な人間にとって、何かに参加して自己開示するということはとてもハードルが高い、私もM氏も内向的というカルマを背負っている。
何かに参加…その何かというのが目の前の人間との共同作業であればまだしも、結局、目の前のゲームや本、といった精神世界になってしまうのである。
勿論精神世界はすごく大事である。
だが、その精神世界を現実に活かせない限り、それは悪行である…が、前にもいった通り、それを活かしたいが為の行為こそが悪行に転じたりはするので、あまり善悪について事象として語るのは避けたいが。
聖書はいつでも人を呼んでいる、聖書を読むと「これを読んでいるあなたこそが」というサブリミナルが響く…とか書くとそれこそ危ない書物のようだが、聖書は対話型の本だと思うのである。
ゲームもそうだと思う、聖書もゲームも対面した個人を助ける働きを帯びている物品なのである、だが、その働きを外部に持って行かない限り、内向的な人間に対面しているその人を助ける事は、出来ないのである。

 

今までも家計簿をつけるという行為に、家計に、M氏との生活の場に、参加していればよかったと私は後悔した。
正直言って、下手に働くよりも資産が生じただろう、この前までは貯金を出来ていた当時の自分たちを凄いとか勘違いしていたが、今思うと共働きで社宅住みだったのに何故それしか貯められなかったのか不可思議な金額でしかないと気付いた。
…まあ当時は働くということに参加していた、とも言える、消費に参加したとも言える。
働くのは楽しかったし、良い経験は出来たのだが、金銭という事象を直視出来ずに居た。
ただ闇雲に働くということが参加であると思っていた、そうでないと参加する意味が無いとも思っていた。
でも家計簿への参加は第一にM氏からの信用と、給料明細の自己開示が無いと始まらないのである。
信用されないと、信頼出来ないのである。

 

信用されないと、人は参加を放棄しがちなのである。
参加、と書いているが…他に適当な言葉が浮かばない。
社会参加、と置き換えても構わない。

 

何度も書いてしまうが私は底辺高校に通っていた、で、そのような底辺高校に通う人間というのは「参加する」ということへのポテンシャルが低い、高校に「参加する」ということ。
社会参加、対人関係に於いての参加、それらへの誠意が低い、何故誠意が下がるのか?信用されないからである。
周囲の人間も生徒の性根に「参加している」という感覚が欠落していることを知っているので、「在学していても退学してもどちらでもかまわない」感覚に陥るのである、余計な感情を結びつけたくないからである。
ここで負の連鎖というか、負のカルマが渦巻くのである、居ても居なくてもいいなら居なくて良い、辞める、ということが頻発するのである…人は人から信用されないと堕落するのである。
私は性格は真面目であるので、はじめのうち、高校を退学するという心理は理解し難いと思っていた。
退学したら中卒である、中卒を挽回するためには通信制定時制に通わねばならない…そう、結局何かしらの制限がかかって、何処かに認定してもらわないと中卒のままなのである。
中卒だったとしたらバイトすら難しいのである…いくらなんでも、とはじめのうちは思っていた。
だが気付くと「友達」とかが高校に来なくなっていたりする、かの「友人」も高校を辞めていたりする、同じ高校ではないがこの影響を否が応でも受けてしまうのである。

 

そういう中で一人で通うのは本当にキツいものがあった、なんせ「在学していても退学してもどちらでもかまわない」学校である、「君は出勤しなくてもいいし仕事もしてもしなくていい」という会社にそれでも通うしかない、なんてことになったら誰もが結構しんどいと思うが、そういうしんどさだった、辞めたかった、私がそこに居るのを誰も望んでいないからである。
有り難い事に仲の良い子たちと数人で「励まし合いながら」「退学しないように」通った、たまにどうしても「通学そのものが」耐えられなくなり、昼過ぎまで電車に乗ってだらだらと過ごした。

 

誰も私の頑張りなど、見ていないし、誰も私の事など「高校を卒業するだろう」とは「特段思ってないし気にも留めてない」から、通学すらも、耐え難いほど苦しかったのである。
誰も私の事を信用していないから、先にこちらが信用という人間関係の世界からおさらばしたくなってしまうのである。
もっと困窮するのは目に見えているのに、出て行きたくなるのである。

 

信用の無さ、これが底辺というものの辛さの正体、なのだと私は思う。

 

この、信用されないから頑張れない、よってその場を出て行くという放蕩癖は、この世から去るということに置き換えてもいいと思う。
自殺をいけないことだと(あくまで)生者が噂するのもこの辺りの負のカルマ説に起因しているのではないか?と思ったりもする。
一度「下」つまり、「誰にも信用されない環境」まで行くと、なかなかそこから這い上がれないのである。これは私の実体験である。
だから因果律で考えると、自殺で死んでこの世界からおさらばしても、もっとさらに誰からも観測されない地点に行く…という仕組みが、無いとは言い切れない。
そこへ行くとどうなるか…さらに性根を放棄したくなるのである、少しの制限にも耐えられなくなるのである。

 

最も、因果律には配慮という概念が圧倒的に欠落しているので、未完の概念だとは思うが。

 

信用の無さが人間をますます駄目にするという図式は、ホームレスとかの社会的弱者と呼ばれる人たちもきっと当てはまるだろう、参加するということへの人間的ポテンシャルの根本がかなり低いので、全て放棄し、誠意すらも放棄してしまうのだと思う。
弱者、と書くとすごく綺麗でか弱いイメージがあるが、申し訳ないがホームレスとか実際屑だと思う(私とてM氏がいなければ普通にホームレスだが)。
何故なら、底辺高校も屑が多かったからである、ブラック会社も屑の寄せ集めであった、その屑の中に参加欲求の高い、ポテンシャルの高い人が居て全てを取り締まっていたのである。
無論私も出来ない人間であった、出来ないからこそ誰からも信用されないのである、で、信用されないからますます参加するということへの誠意自体が下がるのである。
生活保護を貰って即日使い果たすとか、一見どう考えても自分が困窮するだけで損だろうと思われるような事象を引き起こす人がいる様子だが…私にはその気持ちもわからんでもないのだ。
自分自身に対する不信があるので、目の前の小さな快楽に全てを投じてしまうのだ、そういう負のカルマが私にもある。

 

鶴の人のカルマは女性関係だろうか。
それは一見、人間関係への参加型の「善い」カルマのようにも思う。
だが単に次の女、次の女、新しい次の玩具、という風に目先の快楽に手が伸びていたらそれは、目の前の人とは本気で対峙しないという負の連鎖を引き起こすだろう、精神的負債を背負うことになるだろう、私はそのようなことが起きたら離れるしかないと思っている、このように書くと傲慢なようだが…彼のためにも。
一方で、その負のカルマを帳消しにして有り余るほど圧倒的な、この人の持つ善のカルマがある、それが、人を信用することである(だからモテるのである)。

 

人を信用すること、自ら、先んじて信用すること。
彼は自分の眼を信じているので「現物が無くても」「それ以上の資産を生み出せると」信用出来るのである、鶴の人の信用というのはまさにこれである。
私はそういう意味で鶴の人に信用されている…信頼、というとちょっと言葉が、芸術に於いては異なるし、残念ながら私は芸術面ではまだまだ全く彼を信頼させてはいない。
情緒面も含めての芸術的信頼ではなくて、創作をする人間であるという根本的な信用である、アートというものが一過性の装飾、虚飾でなく、一生に於いての善のカルマであるという信用、である。
このところすっかり参っていて、持ち上がったポテンシャルも一気に下がっているが、それでも鶴の人は私を信用してくれている。
この信用があるので、私も、目の前の事象に取り組む勇気をもらえるのである。
自分一人では参加出来ない事も、鶴の人が居てくれれば頑張れる、出来ない事や努力が必要不可欠であっても、やれると思って取り組めるのである。

 

だから先ず始めに信用されると、こちらも人生に於いて参加しようという意志が芽生えるのである。

甘えた意見のようだが、人生のほとんどを勉強などを含めた「効率化」で裁かれて来た人間ほど、信用に飢えているのである、信用さえされれば踏ん張れるのである。

 

家計簿をつけるのにも私は手間取る、この手間取っているのを見てM氏は「やらなくていいよ」と言っていたのである。
それは在る意味で正論である、物事を効率化したいのならば手間取る人間には参加してもらわないほうがうまく回る…と考えたのだろう。


効率化と自閉化という世界規模の精神現象がM氏個人にも起きていて、だから私も閉塞感を感じてしまっていたし、家という共同の場に参加するという意欲がかなり低下していたように思う。

 

だって、「やらなくていい」ことを頑張ってする意味、ないから…。
そう思っていたら雪だるま式にリボ払いが発生しているのである。
私は本当に計算が苦手で、家計簿の表についてもまた、逐一自分で考えながら癖で独自のシロモノを作ったりしてしまうため、嘘みたいに時間がかかる。
そういう時間のかかる要領の悪い人に任せておくのが、M氏には面倒くさかったのだろう。
しかし私はM氏にとって目の前に居る人間なのである、実際こうして努力して計算していると、「この家に参加している」ということを肌で感じるようになる、そして貯金が出来ると事象として、認識可能なので嬉しいのである。

 

自分で考えて自分で認識出来たから、嬉しいのである、それを共有したいのである。


これは私がどんなに計算が苦手でも、私が参加しなければいけないことなのだ。
私は苦手だからやらなくていい…
誰も私に頼んでないからやらなくていい…
私は居なくていい…
効率化、これは悪事なのである、善行による悪行よりも負のカルマが溜まる悪事のようにも思う、生きるという事象への参加が減るので社会的にも悪事なのである。

 

さて、何よりも先んじて信用するということ、これは資本主義に置き換えると貸している状態、であり、資本主義の理念にも近い。
これによりどんどん借金がかさむことを資本主義は是とする。
信用することは善である、借金も是である、その実世界経済の半分は借金である。
これで世の中が「辛うじて」回っているのである。


しかしこの回転はある一定の領域に於いては逆回りに回転する、個人間では逆回りである。
個人間に於いては、信用が発生しない場合、往々にして目先の快楽のために負債だけが膨れ上がるのである、これが善に隠れた闇である。
善、光=皆にとって善い
闇、悪=避けるべきもの、忌むべきもの
この図式から私も抜け出したいのである…ただ、単なる数式の世界に於いても何処かに臨界点といものはあるのだろう、その臨界点が個人と大規模な視点の境目とは限らない、もっとさらに包括的な視点からすると…経済は死と再生のように必然的に定期的に破綻する仕組みになっているのではないか?(という漠然とした直感だけでモノを言っています。)

 

個人間では善でも、ある一定の認識域まで数値が達すると反転するような因子が、おそらく全ての数字、全てのこの世のものに含まれているのだろう。
家計簿をつけながら、私は善悪の融合地点を見つめている、参加することによって個のカルマから抜け出せるのかどうかを見極めている。