a.o個人ブログ

詩や創作文章、祈りについての考察を個人的に公開しています。

カルマ思想と魂同一論 自己と他者、善行と悪行の融合

 

融合するカルマ 魂同一論

本日は仏教国なのでカルマ思想に浸かっている…さて、では私が小学校時代に襲われたのはカルマだろうか?
昔は新興宗教仏教徒だったため、100%カルマのせいだと思っていた。
特に創価学会でカルマがどうのこうのという話は特段出なかったが、漠然とカルマだと思わざるを得なかった…というもの運命や神という多次元的な力の話は教義に出ないので、どこまでも個人主義で人生を解決するより他なかったのである。
しかし当の私はいかんせん子供だったため、性的な放逸だとか悪事を「この人生で働いたから襲われた」という図式は成り立たなかった、よって私は「前世のカルマ」というものを採択した。
きっと「前世に性的な悪癖に溺れていたのでこうなったのだ」と私は解釈した…これが思春期に壮絶な違和感とみじめさをもたらしたのは言うまでもない。
襲われる、それも子供が襲われるということに何か原因があるとしたら、「その時その場に居た」ということである、こうして地球に肉体を纏って生まれてきたということ…これこそが因果律の因である。
ただ、前世などに話が及ぶと最早「それを結局の所事象(観測可能なモノ)として確認出来ない」ので、因果律は未完の思想であるようにも思う。

 

魂というものがもし、元来大きな一つのものであったのなら。
大きな一つの魂が何故か散り散りになった状態で個として存在するのがこの地上であったのなら。
だとするとカルマというのはもっと別の視点から観測する概念が必要になってくる。

 

例えば股関節の事にしてもそう、最近は右腕や指の付け根も痛むのだが…これを仏教思想が根付いている日本で「やれ関節が、やれ骨が、指の付け根が…」と常時言っていると本当に嫌われると思う。
だから実際には私は言わない…というよりも言えないと言った方が的確である。
痛みに関しては素直に言えば言うほど怠け者扱いされるのがオチである。
怠け者というのは周囲に敵意を持って生きている人間よりも性根が悪いとされる風潮がある、私自身にすらこの視点がある、だから右腕の痛みや指の痛みというものを最近自覚してさらに滅入るのである、これは何か私のカルマがそうさせているのだろうかと気落ちするほどに、滅入るのである。
だから痛みが生じたらひたすら耐える、耐えられるところまで耐える、これを私とて、採択してしまうのである…。
苦痛というのはカルマがそこにあるからで、自分が馬鹿なのも全部自分のせい、道を歩いていて襲われるのも「そういう空気を出していた」から…これは魂が、ということ。
よって個人の苦痛はどこまでも個人の魂が「カルマを背負っている」から起っているのだということ。
これは結構当たり前に浸透している感覚だと思う。
唯一の問題があるとすれば、カルマ思想には配慮という概念が欠落している。

 

確かに人間は個別の生を送っている。
事象として、一人の人間はどこまでも一人である。
だからその人の背負うべき荷というものも確かに存在しているようにも思う。
それを直視しなかったこと…制限しなかったこと…これが私の駄目だった部分であり、確かに、男への恐れや甘え、金銭への直視や性的な制限、そして芸術へのロマンと嫌悪、そういったカルマを「直視し実行するという経験によって」正さねばならないと思う。

 

…だが一方で魂というものが根本的に同一であったとしたら?
この世、そして次の世、数多の別の世というものがあって、その諸処の認識に於いてはやはり私はどこまでも「私という個」だろうが…何処かの地点で全てが融合する場というものがあるだろうと感じている。
何故なら、このカルマ論自体が、他者を救うというものではないから。
それを私は体感してきたから。
魂がどこまでも一粒のままだったとしたら、他者への配慮というものは心底不必要である。
だが魂が同一であったとしたら…

 

私は今身体の股関節や右腕という場所に痛みというものが生じていて、最早この事象について、私がどのような精神論を述べたところでその症状が軽くなるわけではない。
それどころか身体はどんどん要所要所が軋んでいる。
では他の人は?
道行く老婆がリウマチや諸々の医学的要因により身体が痛んでいたとして、それを「あなたのカルマなのですね」とだけ言うのは果たして…善い悪いという事より…それは真実なのだろうか?
ある認識地点までは、死後に於いても、様々な世に於いても、多分個人のカルマというのはつきまとうとは思う。
だがそれは一過性のものでしかなく…あなたの、という個の背負うべき業、というのは根源的には間違っているように感じられる。

 

つまり、すれ違う誰かがが身体の痛みを訴えていたら、その誰かは、多分、根源的な状態に於いては「私自身の痛み」なのだろうと私は感じる。
だからその人はきっと私の分も痛みを引き受けているのだと思う。
ただその引き受けるということは、「今のその人が決意して」引き受けたのではないかと思う。
何の身体的障害もないという実感を生きる人も居るだろう、それは「その人がその状況を体験したいと望んだから」引き受けたのであり、そういう働きをしてくれているのだと思う。
個人主義や自己責任論が根付くのは日本が仏教国だからであるが、その根源は魂が本質的には同一であり、大変な思いや嬉しい思いも全て、他者が体験して「くれている」のだと思ったりする。
襲われたことも、きっと私が引き受けると決意したのだろう…無論、このような思想で私に同情を寄せる人というのはあまり居ないだろうが。
痛みについても、身体が痛む毎に…特に寝ている時に骨のずれを感じて痛むのが一番、精神的に絶望する…つまり寝たきりというのは相当キツいと思う。
で、その相当キツいことを自分のカルマとして体験、引き受けている魂が実際に在るのだと、身体が痛むようになってからはかなり如実に感じるようになった。
身体の痛みというのは、肋間神経痛についてもそうである、刺すような痛みが在る度に、多分これ以上の苦痛を引き受けている魂が在るのだなと、思うようになった。
これに関しては、非常に独特な言い回しで注意が必要だが…ありがとうございますと感謝している、この理屈についてまだ、うまく説明出来ないのだが、世の中の様々な苦労や、一見何の価値も無いような苦痛に、私はそれを背負う人のカルマと、決意を見る。

 

襲われた、と書いたが、襲った側の人はどのようなカルマを持っているのだろうか。
襲う側というのは得てして楽しそうであった、楽しい、というよりも…楽しさの奴隷というべきか。
自分は楽しんでいる、自分は強い、ということへの奴隷と言うべきか…笑顔の仮面をつけていて、制御出来ない、でも中身は恐れおののいている…そういう感じがした。
あの「恐れおののいている」部分こそがその人の性根、直視すべきカルマ、だと思うのだ。
何故なら、きっと彼等は、「私」だから。

 

犯罪加害者などの、屑であると言わざるを得ない人の背負うカルマというものも、もしかするととても大変なものなのかもしれない。
祈っていると何となく、自分の本心や本質的な理想までもを直視してしまう、だから綺麗事ばかり並べてしまうようで自分でも恐ろしい。
ただその綺麗事というものほどの、強烈な悪事はないだろう。

 

カルマの融合 善悪の融合

何が言いたいかというと個人のカルマはある地点を越えると、他者と自己の区別が無くなるということ。
在る地点を越えると他者と自己は融合する、だから他人の苦しみは自分の苦しみでもある、他人の喜びは自分の喜びでもあるということ。
だから自分を捧げる祈りは有効なのだということを私は感じる、そしてまた祈りによって体感する綺麗な思想や善行というものもまたある地点…多分社会的な枠組みを越えると、恐ろしい事に、悪行に転換するのである。
このことについて私は深く体感している、螺旋のように続く業のなかに私は居る。

 

例えば私は普通に生きていて窃盗などはしない、万引きもしない、何もそこに善意を感じないからである。
道ばたに数万落ちてても交番に届けると思うし、数十万を泥棒したいとは思えない、数百万でもなんかまだ面倒くさい、善意を感じないからである、真理を感じないからである。
だが、自分が漠然と思う理想や、この社会に於いての矛盾をもっともっと日々直視し続けたら…
数千万
数億円
数百億円
こうやって莫大な金額が目の前にあったら、「世の中に対し善行をしたい」という強烈な根源的欲求のために、私は窃盗をすると思う。
時にそれは殺人を含むような強盗かもしれないし、横領かもしれない、でも「世の中に対し善行をしたいがために戒を破る」ということを私はするだろう、私はそういう人間である。
この部分を突き詰めて考えると…万引きや、人の一見下らない悪事を責められるかというと最早、責める資格なんて無いのである。

 

善意と悪意はある地点を越えると融合するからである。
だから苦しみを捧げるのも、喜びを捧げるのも、祈りという感覚世界に於いては大差無いのだ、だから祈るのである…そこから脱する方法など実質無いのである、これを禁欲的にカルマを脱すると称した修行に置き換えてしまうと、本末転倒である。

 

私は祈りだなんだと内面哲学をつい、たらたらと書いてしまうのだが、実際には不倫ということをしてしまったし、現にしている。
これについてはM氏にも開示した時点である程度の赦しというものが互いに行われたようにも思うが…
社会的にも、鶴の人の元奥方にも、その息子の神無月くんにも…彼等の家族の一員を「盗んで」しまった、そういう害悪を行っているのである、これについては弁明の余地が無い。
だが、その実私は「それは世の中に対し、芸術という善行を私も鶴の人も行いたい、その気持ちのために行ったこと」なのだと心底思っているのである。
つまり私は「善行のために社会的悪事を行った」のである。

 

じゃあやっぱり祈りというものや、自分の真理を追究するということは「危険」なのだろうか?
私が絵を描かなかった時期は幸福だったろうか?否である。
私は実際にセックスを5年我慢したことがあるが…結果は排卵が起らなくなり、偏頭痛に悩まされるという苦しみであった。
つまり自分の真理を追求するという経験そのものに蓋をすると生きた屍になる、排卵が起らないということを男性に説明するのならば、5年くらい射精出来なくなったと解釈してもらって構わないだろう、辛くないか?
生きた屍になっている人間は確かに「事象として観測出来る害悪」は、もたらさないかもしれない。
だがそれがこの世に生きているということなのだろうか?

 

だから自殺に行き着くのではないだろうか?

 

何かがこの世に起って、てこの原理でぶつかって、そこで発生する膨大なエネルギーを是とすること…この生産が、この世の存在意義なのかもしれないと思う時がある。
きっと私は生まれ変わっても悪事を働くと思う。
その為に善行というものを考えざるを得なくなると思う、善行のために悪事を働いてしまうと思う。
このカルマのために、私は自分を捧げる祈りをしている。
このカルマのために、身体の痛みを引き受けているのかも知れない、根源的に同一の魂のために体験を引き受けているのかも知れない、その為に善行と悪行を引き受けているのかも知れない。
そんな事を考えながら祈っている。