散文の自画像 

創作魂を持つ大熊という人間が、散文で日々の自画像を綴る文章ブログです。

祈りの作用

 

私は数多の魂のために祈ります、苦しみを御母に捧げます、喜びを御母に捧げます。
私の苦しみが祈りにより昇華されますように。
私が傷つけた人が、誰よりも先に癒やされますように…それはM氏かもしれない、鶴の人の奥方かもしれない、私が気にも留めないような誰かかも知れない…この世に於いてはその人が先ず癒やされますように。

 

この前意識障害?を起こした時に味わったのは意識が移行するということ。
死というものは認識の移行である、数多の世界が在って、そこへ飛んで行くのだ…移動はしないのでその実魂はそこに在るのだろう、不動なのだろう。
しかし認識の移行は生じる。
この認識の移行先こそが来世と呼ばれるものなのかもしれない。
悲しいことに、この世で見聞きした全てが何一つ作用しない世界のような気がした、宗教観、文化、文字や言葉というものや…勿論絵も。
この世の全てが全く無価値である世界を感じた…それは人間的に観測するのならば私の脳ミソに血液が足りなかったという現象であるのだが、なんとなくそれが、ただの人間の認識に於いて観測し得る限界であるようにも思えた。

 

死というモノを人間が人間の認識で観測した場合、ぱったりと息を引き取るように見えるだろうが、それを認識の移行した先で見つめた場合、全く別の現実が見えてくるだろう。
人間の認識でこの世界を解剖しても、それを持ち越すことは不可能なのだとこの前思った。
祈りというものがずっと行われているのも…人間から見たら事象として観測が出来ないから不可解なのだけれど…認識が移行したら祈りの意味がわかると思う。
もっとも、認識の移行先を決めるのがこの人生の役割なのかもしれないけれど。
だから私が祈りというものは事象として観測可能なほどに意味がある、という確信を得ているのも、単に私が次の世を…次の行き先を祈りというものが通用する世界と、決めているに過ぎないのだけれど。

 

この家で死んだ人がいる、この家といっても前に建っていた家である。
私はこの事を縁起がいいと思った、その時はその魂は何処か遙か彼方へ三次元的な意味で飛んでいったと思っていた。
だがこの前の失神もどきで死という事象への認識が変化した、魂もきっと三次元的にはまさにこの場に在るのだろうと思う、すぐそこに在るのだと思う。
しかし互いの認識が全く別次元に入るために関知出来ない、だから互いに「遠くに」居る。

 

バームクーヘンの層みたいなものを私は空想している、その数多の層のどのあたりを次の行き先にするかは自分次第である。
ただ、魂というものへの解釈も…もし魂というものを根源的には同一だとするのならば…他者のために祈るのは本当の意味で全ての事を考えていられると思う。
魂が強固なまでに個別化していて、それぞれのカルマを背負うという解釈だと、他者への祈りという概念自体が湧いてこないだろう。
私は仏教の慈悲という概念や祖霊への祈りは実に、カトリックで言うところの「煉獄の魂への祈り」に近い感覚だと思っている。
ただ祖霊というのが直結の先祖というのに対し、煉獄の魂への祈りというのは血縁などは無関係であるため、より根源的なものに近い感覚が湧き起こる。

 

魂は実は眠ると抜け出でて、新しい魂が補充される…ということをよく考える。
魂は電池みたいなもので、私は電池を補充されているに過ぎない。
私は夜ごとに新しくなる、だから朝には全て忘れている、私は眠る前に古くなる、年月を帯びて煤けているから…だから眠りにつく。
魂をケーキやピザみたいに綺麗に分割するイメージも浮かび上がる。
魂が分割されたものであるのならば、誰かの痛みは私の痛みなのである、誰かの悲しみは私の悲しみである、それを観測しているときの私は「今日の」身体に入り込んでいるので知覚、体感したりはしないけれど…誰かの喜びもまた、私の喜びなのである。
そういう情報共有はもしかすると祈りによって成されているのではないか?と思う事がある、これは結構真剣に感じる事である。

 

苦しみや喜びをただ人間として傍観したり体感したりしているだけだとそれはいつまでも性質が変化しない。
だから苦しみそのものには意味がない。
でも祈りとして捧げると、苦しみにも喜びにも意味が生じる。
しかし苦しみや喜びといった体感を祈りとして「捧げる」事をし、尚且つ漠然と第三者へ…つまり他者(それは煉獄という概念でも慈悲の概念でもいい)への配慮に繋げること。
私は思う、この世の箱庭で苦しみや悩みというものが生じ、それを祈り捧げることによって「数多の世の何処かで」捧げられた苦しみが動力となっていることを。
祈りや執り成しというものは…エネルギー源みたいなものなのではないだろうか?
悩み、苦しみ、喜び、そのままだと別の世、別の認識世界では使用不可能のものが、それを祈り捧げることによってエネルギーに変換される。
その変換を行ってくれるのが菩薩だったり聖母だったりする女性的に見える存在なのではないだろうか?

 

私は全ての喜びと苦しみ、一生と最後とを御母に捧げます、御母よ、力強い執り成しによって煉獄の霊魂を救い給え。

 

私は今現在はどの宗派のどの教会…といったものには所属していないので、解釈の仕方も個人的な「体感」による。
だからそれはとても軸のないものに見えるだろう。
聖書にも煉獄という概念は書かれていない、そのような言葉はカトリックの創作なのだが、私には納得がいく。
この世はエネルギー製造場なのではないだろうか、エネルギー牧場と言ってもいい。
だからわざとてこの原理で物事がぶつかって、そこで生じるエネルギーを…何処か別の次元に運ぶという働きが連綿と行われているのではないだろうか。
その働きが、祈るというものなのかもしれない。
例えば骨が軋む、この軋むということが事象であって、痛むというのは反応である。
これと同じく何か事象が起きて、それにより苦しみという反応が起る。
喜びもこの原理である。
だから本当の所、人生には苦しみも喜びも痛みすらも…ない、それは観測は出来ない主観的な反応なのである。
でも私はこの反応にこそ意味があるような気がしている。
この反応自体を止めたり、制御したりする意味は無いように思う。

 

祈っていて一番実感があるのが他者への祈りである、自分の苦しみを捧げる祈りとか、喜びを捧げる祈り…このエネルギーが霊魂を(特段この次元のというわけではなくて)救う動力のほんの一欠片にでもなればいいなあと思う時に、私は自分が救われたのを感じる。
逆に言えばそれ以外の祈り…とにかく熱心に祈るということとか…これは私は幼少期からやっていたのですごく好きではあるのだが、もしかするとそんなにやってもやらなくても無関係なのかもしれないと感じる。
ただ、喜びに関しても苦しみに関しても…この世での反応を無駄にしてはいけないと思う。
この世での苦しみを無駄にしてはいけないと思う、喜びも苦しみも一人で抱えていてはいけないように思う。
苦しみというのは人間の視点からすると「汚い」という反応が湧き起こりがちだが…私はこれについて根源的なエネルギーだと思うようにすれば、それが喜びに満ちあふれた感謝の祈りでも、痛み苦しみの嘆きを捧げる祈りでも、どちでも質量的には変わらないと思っている。
菩薩や聖母はそんなに狭量ではないだろう、苦しみを捧げるということは汚れをそのままぶつけるということではないし、仮に汚れをぶつけたとしても彼等は決して他者を罰したりする「神」ではないのだから。

 

唯一ちょっと違うなと感じるのは神社。
私は神社が昔から…宗教的タブーもあり怖いので、一人ではあまり近寄れないのだが、あそこはなんとなくこの「捧げる」というシステムの管轄外のような気がしている。
穢れという思想自体が私はどうにも肌が合わないので、他者への配慮がないという時点で社会的な意味であまり心惹かれないのだが…そういう次元の話ではなくて、根源的に何か、繋がっているのが人間の喜怒哀楽や慈善などではなくて、道徳などでもなくて…私はあれに向かってどう祈ればいいかもわからないのでなんとなく傍観している。
友人は神社アレルギーは無いようなので、友人と居る時に神社に行ったりはする。
孤独死や自殺というものが「迷惑」とか、土地が汚れるという価値観が根強くあるが…個人の生死の尊厳よりも場の浄化を優先させるという思想が在るということ自体恐ろしい。
ただ、裏をかえせばこの「恐ろしい」という感覚自体が「本当の体感」でもある、つまりこの価値観は、穢れの価値観や穢れ思想、きっと神社由来のこの祈りのシステム自体の実存を裏付けているとも言える。

 

御母、私の苦しみを捧げます。
私の喜びを捧げます。
数多の魂を救って下さい。
私が救う事は出来ないが、私のエネルギーを元に大いなる誰かが使用し、第三者を救ってくれる。

 

M氏にも臼蓋形成不全や変形性関節症の体験談を読んでもらった、どうやら伝わったらしい。
もしかしたら、いつか遠い昔、あるいは未来に誰かが捧げた祈りが今この次元に於いて作用したのかもしれない、だから私は真っ先に思った、体験談を書いてくれた人たちよ、ありがとうございます。
見知らぬ誰かの祈りよ、ありがとう。
鶴の人の世界ももっと知りたい、抱えている悩みも、希望も、喜びも。
私の祈りは何処かで作用しているのだろうか…それは現時点から見たら未来や過去なのかも知れないけれど、本当は同時に起っている。

 

初夏の並木道、木漏れ日の中の菜の花、桜の青葉から垂れ下がる芋虫、去年の私よ、一昨年の私よ、きっとこの木陰の何処かにあなたは居る。
先生に絵を描いていたのが去年だなんて、なんだか果てしなく昔みたいだ。
100年くらい前みたいだ、前世みたいだ。
ああいう風に幸福な人を私は今、ここから見ている、互いに認識は出来ないけれど。
出来なくてやめるということをもうやめたい、たった一歩、進み出て天空から垂れ下がる千羽鶴のうちの一つを私は手に取る。
絵を描けない苦しみも捧げます。
絵を描いたら、その喜びも捧げます。
去年の私の喜びは、今、何処で作用しているのだろうか。
今の私の痛みや苦しみは、何処で作用しているのだろうか?
もしかしたら数多の世の何処かで、ここから見た煉獄で、ここから見た三千世界のうちの何処かで、光っているのかも知れない。

 

この世の苦しみを無駄にしてはならないと思う。
この世の喜びは、数多の世々に分け与えねばならない。
それらはこの世では活用が難しいが、捧げることはたった一秒の決心さえ在れば可能である。
祈るのは、一秒の決心さえあればすぐに可能である。
祈りの作用について考えている。

 

私が傷つけてしまった人が、誰よりも先に癒やされますように。