散文の自画像 

創作魂を持つ大熊という人間が、散文で日々の自画像を綴る文章ブログです。

自分の苦しみ

 

私は立っている、玄関で内職の荷物を運んでくれる人を私は立って観ている。
私も歩けるのだからバイトでもしようかな…その時になんとも言えない骨のずれを感じる、直立不動の状態がいけなかったのだ。
座って居ても鼠径部のような場所がチクチク痛む、大丈夫、ちょっと立ってちょっと座ってを繰り返せばなんとかなる。
歩いている時に臀部の下部が痛む、ああ今日は、あんまり歩けない日なのか。
膝が痛む、しかしレントゲンで観る限り膝には実は異常はない、土踏まずが強烈に痛む時がある。

 

もし立ち仕事を始めたら、そもそも通えるかどうかで毎日毎晩毎朝悩むだろう、明日急に脚が痛くて歩行出来ません等ということにならないように、運動療法(リハビリ)を今よりもずっと熱心にして…
この心労が果たして数万円の価値に見合うのかどうかはわからない。
無理をするとすぐに肉離れをする、それを食い止めることや、股関節の痛みを耐えながら仕事する事が果たして金銭的に数万円の価値があるのかは私には解らない。

 

と思いあぐねながら私は座している、正直、もう疲れた。
何も出来ないということにも疲れたし、こんなに日々痛みに振り回されるということにももう疲れた。
歩きに行く時も自問自答する…歩けるのだからと自分でも思う、だが痛む時の歩行は跛行する、痛む時は、本当に心細い。
毎日通うとなると…本当に通えるだろうか?

私が脚を引き摺っている時に周囲の人は驚くんじゃないのか、あるいは、調子の良いときと比べたらまるで演技でもしているかのように見えるだろうか?

帰宅してから眠気が襲い、私は横になろうとする、その途端に角度が悪かったのか痛みが走る、何処、と言い難い部分。
臀部?股関節?腰?一体何の骨?いつも同じ場所が痛むという訳ではない。
なんでこんなにずっと身体の「立ち位置」「角度」「寝る時の姿勢」「座しているときの姿勢」「座り続ける事の禁忌」と「立ち続けることの禁忌」をずっと考え、気を配り続けねばならないのだろうか?

 

普通に考えたら立ち仕事は私には困難だ、毎日の「通勤」の段階で私は二の足を踏んでいる。
しかしこうして休んで過ごしているからといって身体は回復しない、というかもう身体の臨界点を過ぎたので何をするにも悪化するだけなのだとわかっている。
悪化。
私は今手術などは受けていない、臼蓋形成不全とあと何か詳しい病名があったが失念した…これについて考える事を諦めている。
骨の状態は綺麗で、しかし身体に水が溜まっているので痛みが出ている可能性もあると言われたが、「頻繁に大学病院へ行って水を抜く処置をする」のが果たして本当に身体にとって良いのかよくわからないし、水が入っているか否かを調べるためのMRIを避妊リングのせいで受けられるかどうかもよくわからなかったので、結局何もやらなかった。
頻繁に小さい手術、処置を繰り返すということについて全く、希望どころか絶望的なものを感じたのでやめておいた。
確かに清掃の仕事から身を引いてからは「如実に関節が腫れている」感じや「骨が軋む痛み」は減った。

 

そう、だからつまり、働くということは今よりも確実に痛みが増えることだという覚悟が私には必要だと言うこと。

 

こうして書くと本当に自分が甘いような気がするが、臼蓋形成不全というキーワードで検索すれば結構色んな体験談が書かれている。
これは変形性関節症の原因とされているので変形性関節症の体験談とかを読むと、多分私の言っている普段感じる痛みや苦しみがより解ると思う。(臼蓋形成不全=変形性関節症とも言える)。
M氏に「私の病名知ってる?」と聞いた、「骨のこと?知らないよ、回復するといいね、早く仕事はじめられるといいね」と言われる、ああそうだよね興味無いよねと脱力する。
M氏には私が単に仕事をやめてぶらぶらしているように見えているらしい、私は何度も彼に説明したのだが…もう一言も言わなくていいと思った。
食わせて貰っておいてなんだけど、この人に私の男関係をとやかく言われる筋合いって実は無いんじゃないか、と思う。
鶴の人にも情報を調べて貰うように促す、彼は芸術の同志なので私が何に立ち往生しているのかを知らせておく義務があるように思えた、前にも調べてもらった気がするが再度、自分で私の身体の状態を調べて貰うことにする。
このような事は本人がいくらとやかく説明しても、それをただ漫然と聞いていると聞き流してしまうので、自分で調べて貰うことにしようと思った。
そして目の前の人物の言葉というのをその実、人間てあまり聞かないよな…とも感じる、目の前の人の痛みの告白より、多数の体験談のほうが信憑性を感じる仕組みが人間の心理にはあるように思う。

 

この種の内面の告白の正反対に位置するのが「目の前の人間の笑顔」とか「女らしさ」みたいなものなのだろう。
女の抱える物事には興味ないけれど、目の前の女が笑いかけてくれたりすればそのことの方が真実、みたいな感じかもしれない。
ただその実自分で自分の振る舞いを「実感」することって誰も、出来ないと思うので、対面する誰かが何を抱えているのかを配慮した方が人間関係は上手くいくだろう。
私の体感、実感する現実と、私の周囲に見せる現実との間の溝を埋めるのは私が物事や本心を開示する事でしか達成出来ないのだ。
女という「物体」に生まれてくると内外の差がどうしても生じる、これを唾棄したいと強く望む時がある。

女の肉体というのはそれだけで一つの揺らぎ、一つの歪みである、女の人、というジャンルが私を余計に苦しくさせているように感じる。

 

身体に痛みが生じているのを「わかりにくく」させるジャンルのように思えてならないということ、女が損だとか特だとかではなくて、違和感があるのだ。
まるで着ぐるみでも身に纏っているみたいに、不自然なのである。
ニッコリ笑った「女体」というマスコットの着ぐるみ、でもその中には痛い痛いと嘆く「何か」が入っている、そんな感じなのだ。
だから対面して物事を伝えるよりも、無数の体験談のほうが身体疾患への理解が「真実味」を増すというからくりが生じるのである。
私はもうこの着ぐるみを脱ぎたい、全く以てこれを着ていると他者に物事が伝わらないし、着ぐるみだけを欲しいという人ばかりで本当に不便である(鶴の人は珍しく中身に興味を持った人である、友人も)。
この不便さが、この世の修行なのだろうと今は解釈しているが、これほど私の本質に「合わない」ものもそうそうない。

 

私は次の一時間が果てしなく長いように思え、耐え難いと思う日々が増えた。
その次の一時間にも私は骨が痛まないように気にしながら歩き、でもまだ歩けるのにと何処かで自分を責め、そして痛みを感じて立ちすくむのだ。
これの繰り返しでその日の内職を終え、金銭の事を考える。
脚が痺れてきた、立って歩き回る、そしてまた座して考える、そうしていると芸術というものが本当に遠のいてしまう。
芸術というものが馬鹿らしいお絵かきのように感じ、私は憤る、するとますます絵の具というものに触るのもおぞましいような、何の役にも立たないような気持ちになるのだ。
少なくとも私には金だけかかる趣味であるということが、嫌と言うほどわかるのだ。
創作するという醍醐味がなくなると、時間感覚は曖昧になる。
昨日と今日の区別は曖昧になる。
そして耐え難い一時間が繰り返され、私はせめてもの慰めに祈る。

 

ただこの件で少し思うのは、このように先天的な疾患の在る人、つまり回復の見込みのない人はどのように日々を過ごしているのだろうかということ。
あとは障害者と健常者の境目って曖昧だなとも思うようになった。
もっと若かった頃は、障害者の人の発する奇声とかだけが異様に見えて、結構怖かったし、正直な所、人間の壁のようなものを感じていた。
善い悪いではなくて、実感としてそう感じていたのだ。
だがこうして自分の股関節に先天的な疾患があるとわかったり、外反母趾(これも先天的なものだが)で歩きにくいとき、障害者と健常者の差ってほんとうはないのだなと漠然と感じるようになった。
こないだは失神しそうになったが、その時に言葉が遠のいたので、叫ぶということは…単に他者に語りかけたい時に自然とほとばしる声なのだなということも感じた。
私は歩けるが…まあ、だからこそ自分を責めてしまうという部分もあるし痛みもあるで苦しいと言えば苦しいのだが、歩けない人とか多分もっと身体が痛いだろう。
そして…障害者未満という言葉は語弊があるかもしれないけれど、弱視とか、障害者ではないけれど難聴だとかの人はどうやって仕事しているのだろうか…?
仕事があったらそれは善い事だけれど、一度辞めてしまったりしたら再就職ってかなり難しいはずである。
ちょっとお金が必要、でも働けない、みたいなジレンマを感じるはずである。
バイトしたいと思う時に働けるって、実はすごい事だよなあ…と、最近すごく考えている。

 

このように、他人の事を考えているときに少しだけ救われるような気持ちになる。
これは何も自分より大変な人がとか、自分と比べてということではなくて、単に他者の苦しみを見るということで心が、祈りに向くという感覚である、祈りに向くので救われるのである。

 

救われるといったらおかしいのだけれど、苦しみというものには意味があるのではないか、というような気持ちにもなる、他者の苦しみを考えるとそう思えてくるのだ。
実際には現在私は正真正銘の役立たずで、仕事もせず絵も描かず、じりじりと一時間を耐えるという状態であるので、M氏にも鶴の人にもいつも弱音ばかり吐いてしまう。
もう少し骨の違和感が減れば…
もう少し自分の性格が、楽観的であったら…
と思うのだが、何にも出来ないという状況を責めてしまう、もう自滅に自滅を重ね、気付いたら祝すどころじゃなくて呪われた存在になっている、という感じである。
苦しみに意味があるというか…何かそのようなことを漠然と是と出来たらいいのにと思っている。

 

耐え忍んでいる他の誰か、あるいは魂、そういうもののために今、祈っている。

それが自分の苦しみを耐えるほとんど唯一の方法であるということだけは、最近知る事が出来た小規模な、個人的叡智である。