散文の自画像 

創作魂を持つ大熊という人間が、散文で日々の自画像を綴る文章ブログです。

痛みと仕事のジレンマ

 

 

脚の痛みに関して人に説明をするのが今、一番、精神的に疲労を伴う作業である。
説明、というのはこうして開示することではなくて、疑問に対する解き明かしをするということ。
脚痛い感覚自体は私には元来あった…と言ってもそれは土踏まずについてであり、つま先立ちが困難だったり、ローファーが痛くて履けなかったり、たまに歩けなかったり、その他で言えば膝立ちという姿勢が幼少期から無理だったりした。
だがそれを心底異常だと思っていたかというとそうでもない、私には履けない靴が多々在り、私には歩けない日がたまにあり、私は普段スニーカーを履いてさえいればなんとかなった、勿論ローファーを履かねばならない学校生活や就職活動などは非常に苦労したが…それは若さで切り抜けたのだと今は感じる。

 

ちなみに、意外に思うだろうが私は歩くのは好きである、ゆっくりと歩くのは好きである。
こういった脚の悪さと歩きたいという歩行への欲求ははたから見ると不可解に見えるだろう…ヒールを履いたり鞄を手を曲げて持つといった姿勢や仕草が困難であることについては薄々気付いていたので、身体が完璧では無いという感覚はあったが、街を可憐な靴で早歩きするという事の得手不得手と、郊外をのんびり歩くという嗜好は別物である。
だから一言で「歩くのが好き」と言っても歩くのが「気持ちの上で」苦でないのか、それとも歩行及び運動全般が大前提として秀でているのかは…このように細かく話さない限りなかなか他人には伝わらないだろう。

 

股関節の悪さについては正直、清掃の仕事で肉離れを繰り返した事もあり、元来漠然と「腰が痛い」と思っていたのが核心的に「股関節の関節が腫れている」という感覚に切り替わった感じはする。
つまり清掃で痛めたようにも思うということ。
だが、繰り返し言うが、それと「自分の性に合ったかどうか」は別物で在る、清掃の仕事自体は非常に好んでいた。
人間は自分の身体に合わない事でも性に合っていたりする、人間はおかしい…いや、私がおかしいだけだろうか。
あともう一つは、「私の身体の臨界点が30代前半だった」ということ。
要するに股関節の悪さを「自覚」するに至ったのは、勿論診察してから発覚したので気になるようになったということもあるかもしれないが(ただ、それ以前から股関節の痛みを臀部の痛みだと私は解釈していた)、私にとっての身体の限界が30代前半だったため、身体の「老化現象」により、股関節の痛みを感じるようになったと言うこと。

 

加齢により股関節に違和感が生じるようになった、これも私にとっての事実である。

 

だが人にこれを説明するときに、相手が老齢でないと本当に困難を感じる。
というのもまだ身体の老齢期に入っていない人は「昨年まで出来た事が今年はもう出来ない」とか「昨年までは痛くなかったけど今年から痛むようになって…」という「回復しないポイントを超えた」という体感が無いため、私がいくら「股関節が痛くて…」と説明しても、「いつから?」という話になる。
そのいつから?という問いに私は「昨年」とか答える訳である。
…ただ、相手も私も老人ではないため、「じゃあそれまでは痛くなかったんでしょ?」と何故か切り替えされる事が多い。
ここで問題なのは私は「自分の肉体についての体感」を語っているのに対し、相手は(私が老人ではないため)「いつ診察を受けているのか、どういった判断を下されているのか」という医療に於いての客観的事実のみに焦点を絞っているという事。
これが事態をややこしくするのである。

 

「股関節が悪いと知ったのはいつなの?」
…昨年ですと私は答える。
「じゃあそれを知るまでは股関節の痛みに対しても鈍感だったんでしょ?それなら何故股関節股関節って拘るの?今までは気付かなかったんでしょ?普通に働けるんじゃないの?歩いているんだし、まだ若いんだし」
…股関節が悪いと発覚したのは昨年ですが、それまでは臀部の痛みだと思っていましたし、肉離れなどもしなかったのでなんとかやれていたのです。
「肉離れって股関節由来なの?どうして?」
…その説明は私は整形外科医でないので説明しにくいのですが、簡単に言うと、肉離れと膝の痛みが頻発してきたので下半身のレントゲンを撮ったら股関節に異常がみつかり、どうやら筋で引っ張って股関節の欠けを補うような歩行をしていたので肉離れや膝の痛みが起っていると解ったのです。
「でもその診断が下るまでは股関節痛くなかったんだよね?」
…いやだから、それを私は、体感では、臀部や腰の一過性の痛みだと解釈していたのです、股関節が体感として何処であるのかを把握出来ていなかったのです、股関節の後ろ側というのは実際、臀部という感覚なんですよ。
「痛かったんだ?じゃあ何故病院行かなかったの?」
…痛いというくらいで病院に行って毎回レントゲン撮りますか?私は今までずっと脚が痛かったのですが、それくらい我慢出来ると思っていましたし、家庭でもそのような認識でした、だから病院へ行って検査するという発想がなかったんです。
「今まで脚痛いって…どれくらい前から?」
…つま先立ちや膝立ちが痛かったのと、ローファーが痛くて履けなかったので、主に思春期あたりからでしょうか。
「で、何で病院行かなかったの?」
…だから、歩けたので病院とかわざわざ行かなかったんですよ、家でもそのような認識でしたので、私も我慢出来る事は我慢しようと思っていましたし、スニーカーを履いて過ごしていましたから。
「じゃあ我慢出来る痛みだったんだよね?今の股関節の痛みも我慢出来ないの?」
…だから、それで肉離れを繰り返すようになったので…肉離れってやったことあります?歩けなくなるので大変なんですよ、それに加えて昨年までの痛みよりもなんとなく悪化したように思うんです、それは年齢のせいだと私は思っていて…
「年齢っていってもまだ若いよね?」
…ええ、でも私にとって昨年出来た事が今年はもう出来ないという年齢なんですよ、私にとっては今の自分ってそういう年齢なんですよ。
「うーん、わかったようなわからないような」
…(諦め)

 

私は主観的な肉体の違和感を訴え、相手は診察などの客観的事実について話している、だから話が噛み合わない、それはわかっている。
だが、自分の肉体の痛みという実に主観的なものを人に説明する場合、どうしても話が主観的になりがちである、なりがち、というか痛みや不具合というのは概ね主観である。
それに加えて互いに「自分にとっての整合性のある」真実について質問し、回答しているので話は遅々として噛み合わない。

 

そもそも、この手の質問をしてくる相手は大抵健康なので、「回復する目処のない不健康」についていくら話しても理解出来してもらえない。

 

私がおかしいだけだろうか?
それともやっぱ生活階層が違うと意志の疎通出来ないのだろうか?カーストが異なると言語って通じないのだろうか?

 

身体に異常がある=検査←この方程式を絶対視しているのが脈々と続くある一定以上のお家の方々の信仰みたいなものなので、身体に痛みがあるのに病院行かないという選択肢自体が理解不能なだけな様子だったりもする。
一方私からするとこの「身体に異常がある」ということと「病院」という二つが必ずしも結びつくわけではない。
底辺の人間は大概自分の身体を放置するが、私はその意味が凄くよくわかる、それくらいで病院とか行かないよね。
行けないよね…だってそうやって育ったんだもの。
というかそんなさ、元々の身体の痛みをどうのこうのっていうことの為に、どうしようもないのに病院行ってどうなるのって感じもあるので、必ずしも「身体に異常があるから」「病院へ」という図式に誰もがなるわけではないということはすごくよく解る。
それを「何でそれまで病院行かなかったのか」という堂々巡りをされるとさ…論点はそこじゃないわけで、論点は今痛むということ…つまり体感であって、客観的事実についてではない。
私からするとこんな事も理解出来ないのかよ、と悪態をつきたくなる、馬鹿なんじゃないか、と悪態をつきたくなるのである。

 

可愛さ余って憎さ100倍理論で思いあまって馬鹿って書いてしまったが…あるいは何、やっぱ、IQの差があるから会話が成立しないだけだろうか?
IQの低さについてだけは私は自信がある。
私の説明がまどろっこしいのだろう…誰か会話を成り立たせてくれ、頼む、誰か通訳してくれ、彼に通訳してくれ。
身体の不具合について相手に伝えたいという時に、整合性の取れる説明を誰か、通訳してくれ。
この文章を読んだ「身体に痛みがある人」ならば私の言い分を解るはず、痛みを耐えられるかどうかは刻一刻変わるということを解るはず。
あるいは単に老齢というものを体験している方なら私を理解出来るはず。
昨年は出来たんですけど今は無理なんですという体感への理解、うん、そうそうただそれが言いたいだけ。
身体の不具合という事象について他者に伝わらない、伝えられないというジレンマが一番ストレスである。

 

「元々脚痛いのにどうして身体動かす仕事選んだの?」
この質問についてだが…これは私も自分でどうしようもないのだ、どうしても事務仕事系が性に合わず、どうしても現場で動くみたいな仕事を選んでしまうのだ。
、のような感じ、である。
本当にこれはどうしたらいいのかわからない、私は今とても困っている。

清掃のように身体を動かす仕事は…したいけど出来ない。
事務系の仕事は…したくないし能力的にも呆れるほど出来ない。
接客系は…脚を引き摺ることもあるので今はやめといたほうが吉。
…ああああどうしよう、何をやったらいいかわからない。

 

でも金を稼がなきゃならない、それにやっぱりそろそろ働きたい、ちょっと働きたい、ちょっとでいい…何故ならあまりにもダラダラ過ごすと身体が鈍っていて、かえってそれはそれで骨が痛むのである。
これ以上脆弱になるのを回避したい、少しずつまた脳ミソ的な意味でも身体に於いても仕事筋をつけたい。

 

しかしちょっとでも限度を超えるとまた脚を故障したり…そもそも現在は既に股関節も痛むし回復もしないとわかりきっているわけで…本当に無理は出来ない。
金は欲しい、だから働きたい。
でも無理は出来ない。
身体が故障した時に対処する金銭的余裕がそもそも、ない、だから金が欲しい。
働くということ、これは今の私には最早賭けなのである。
一種の賭け、なのである、金銭と体感を得るために脚がどれだけの重みを耐えられるかの賭けなのである。
この賭けに勝つか負けるか…とか考えると次の一手が恐ろしいのである。
これから家計簿をつけて、M氏にも出費を把握するという意味でも協力してもらって二人で節約を頑張ったとして、なんとか再来年に黒字に転じるという感じ。
それまでは雪だるま式にリボ払いが増えて行く…節約しても、多分再来年まではどうしたって赤字である、節約するけど。
膨れあがったリボ払いのために建てたばかりの家を競売にかけるとか(そこまで行ってないが私は怖がりなので考えてしまう)、さすがの私も嫌である…まあ再来年まで自転車操業的(別にカードはVISA一枚なんだが)にやりくりすればなんとかなるのだが…その間貯金すら出来ないのはやはり恐ろしい。
貯金の為にも働きたい、というかホント、金が必要なのである、しかし身体を壊すのはもっと避けねばならないのである、金がかかることは出来るだけ避けねばならないのである、しかし金が必要なので働かねばならないのである。

 

考えてみたらM氏とは入籍してから金を貯めた、私はパート代から食費を担い、M氏は貯金した、何だかんだで結果的に8年くらいで1000万弱貯まった、家計簿もつけないのによく貯めたと思う。
その頭金を全て潔く使って家の軍資金にした。
それほどまでに私たちは飢えていたのだ、人生の中で自分の内面が、現実の強固な城によって守られる、誰からも守られるという幻想に飢えていた。
そこだけは合致していた、だからこそ互いに対面するときは柔和で、その実一致する軸が何一つないという状態でも、強固な城を欲する気持ちだけは合致していた。
だから何となく私もM氏も甘かったのだ、金はすぐ貯められると思い込んでいた、この家の対価というものがどれほどなのかを体感していなかったから予想外の出費というもので簡単に歯車が狂ったのだ。
それは本当にちょっとしたこと、ちょっとした互いの病院代、検査代、自転車のメンテナンス、欲しい家具、すぐになくなる蜂除けのスプレー、本、…私の身体の故障。
このネジを出来る限り元に戻さねばならない、だから働きたいのである。

 

だがもう身体を故障させたくないのである、一方で自分のやりたいこと、出来る事をやりたい…そうすると働き先は立ち仕事だったりする、もう身体を壊して辞めるということを避けたい。

 

気持ちの面でも、無理してまた身体壊して職場を去る、みたいな迷惑のかけ方はもうしたくない、迷惑だけはかけたくない。
迷惑というか…なんか、おかしい言葉の選び方のようにも思うが、裏切り、みたいな感じ、裏切りを避けたい。
元気(な振り)に入ってきて、「脚が痛くて…」ってさ、そこに誤差があるのでなんか、裏切って居るみたいな空気を感じたのだ、だから申し訳なかった。
身体壊すのが裏切りかよと突っ込まれそうだが、物事を始めるときというのは大概元気である。
そして辞めるときは元気がない、私はこれが嫌なのである、もう嫌なのである。

 

私が今理想に思うのは、「股関節が悪い」ということを開示出来る職場。
今日はスタスタ歩いているけれど、前日はヨタヨタ歩いていた…ということが、普通である職場。
日々変わる痛みについての整合性を、理由を、闇雲に求められない職場。
他にも身体の具合の悪い人が働いていたらすごくやりやすそうである、これは差別的な意味ではなくて、いろんな状態の人が居るということ。
でも実際には立ち仕事の面接で「股関節悪くて…」などと言ったら落とされるだろう。
どうして自分のやりたいと思う仕事は肉体的な仕事なのだろうか…ホントに自分でも不思議なんだが…まあ、身体も頭も悪いとなると頭の悪さはどうしたって仕事が実際に完遂しないという点に於いて、カバー出来ないのである、よって結果的に肉体労働を選んでしまうという感覚かもしれない。

 

ああ、股関節(脚)さえ悪くなければこんなに苦労しなくても済んだろうに…
歩くの好き、身体を動かすのが(得意というわけではないが)好き、仕事に於いても肉体労働が性に合っている。
股関節さえ、この部分のネジさえきちんとしていれば私はここまで思い悩むこともなかったのに。
…客室清掃の仕事を辞めることだってなかったのに。
お金だって貯められたのに。
人に自分の事を説明するとき、何一つ矛盾点がなく相手に理解してもらえただろうに。

 

こんなに悩まなかったのに。

 

何が得意なのか
何が好きなのか
何が辛いのか
何をやりたいのか
何が必要なのか
何故このように生きているのか

 

これが一本の線にならない、ということについて私は堂々巡りをしている。

 

仕事と身体についてのジレンマに、私は悩んでいる。
この苦しみを聖母は受け取るのだろうか?
苦しみは祈りによって昇華されるのだろうか?
もしこの悩み苦しみ、ジレンマが何かの役に立つのならば、私は悩み、祈りたい。
祈らせて下さい、聖母よ、これが私の、ひとつ老いる日、誕生日に考えている事です。