散文の自画像 

創作魂を持つ大熊という人間が、散文で日々の自画像を綴る文章ブログです。

血管迷走神経反射と認識の歪み

 

血管迷走神経反射
…と言うらしい、一昨日起った精神的発作、要するに俗にいうただの「失神」や「自律神経」に該当するとの事である、かかりつけ医に聞いたのだ。

風呂上がりに血流が一時的によくなり、そのまま血が全身を駆け巡って「脳みそに行き渡らない状態」「脳みそが血虚する状態」になったとの見解である。
事実これで失神し、救急車で運ばれてくる人は結構居るらしい、さすが元々救急センターに居た先生である、私の状態がどのように分類されるのかの当たりをつけてくれた。
とはいえ世の中の数多の医師のうちのただ一人の見解に過ぎないというのも紛れもない事実なので、まあ、もう一度発作が起ったら検査をしようかな…という心境である。

 

ちなみに失神というとなんだか奇妙な綺麗さが言葉に含まれているように感じられるし、私は背骨と首の関係からして常に頭がふわふわしている感覚はあるので夢うつつの人間なのだが…あの発作、意識障害ははっきりいってかなりキツかった、あれは死である、もう陥りたくない。

 

これはストレスによっても引き起こされる…私のストレスとは何だろうか。

 

私が最近行っているのは物事が起ったり、誰かを観たりしたという事象に対して常に、無意識のうちに「主の恵み」「恵み」あるいは象徴を思い浮かべるという風に「自分の意識反射よりも先に祈りを割り当てる」ということである。

 

これをすると物事は、たとえそれが「起った」ように見えても、起った「ように見えている」のはほとんど自分の我の見解であるとわかる。
つまり物事は「一切起っていない」のかもしれないという考察に至る…至るとか言ってもたかが半月やってみた感想である。
私はとりたて、聖書のパウロにちなんで「絶え間ない祈り」と名付けたこの祈りに関して「功徳が約束されている」とは思っていないので、どこまでも個人修行の範囲である。
そのためか聖書がきっかけの祈りにもかかわらずだんだん仏教僧のような心境になっている。
仏教僧っていうのはちょっと一括りにしすぎだが…「自分が物事を認識したと思っているのはそれはほとんど自分の反応でしかないのだ」…ということを日常、延々考えるようになった。

 

一昨日の意識低迷のその時に「死とは認識の移行なのだ」という確信に至った。
死んで肉体を離れても自分という知覚システムだけは作動している。
だがその知覚システムの持つ認識域が三次元を超えるため、私の霊魂はこの時空間からは消え去ったように見える。
魂も遠くへ行くのではなくて多分「その場に居る」、だが、認識が生者と死者で互いに異なるために互いを観測することは出来ない。
認識を失っても意識はある、という確信が芽生えたといったほうが適切かもしれない。

 

ただ、死後に見えるものやそれまでの認識が全部通用しなくなったら、一瞬だけ極度の絶望に陥るだろう…その時聖母の御助けは摂理として働くのだろうか?
またあの感覚が蘇りそうで恐ろしいのだが…すぐ目の前に置いてある「本のタイトルが読解出来ない」のはひどい悲しみだった。
文字に触れられるというのは文字の持つ歴史そのものを体感することでもある。
それが遂に全く意味を成さなくなった世界に私は放り込まれたように感じ、果てしない孤独を感じた。
文字そのものが私の認識の外側へ(というよりも私が文字という言語文化の外側へ移行した)行ってしまったのだ、私の触れてきた数多の事、感動した事も空虚だったのだ。
私という人間の全てや、自分以外の膨大な世界の全部から、意味が消失していた…死ぬときにまたこれを味わうのかと思うとほんとうに恐ろしい。

 

あとは情緒。
その時は感情はあった…だが、自分の肉体と壁と急須との区別が曖昧な世界に私は居たので、当然男女の情なども唐突に忘れてしまっていた。
見知った人や、愛着のあるモノ、可愛いと思っていたモノも、唐突に意味不明の事象でしかなくなったのだ。
最早そこには何の情緒も無かった、この家も不可思議でしかなく、何故これが私の肉体ではないのか…あるいは私の肉体なのか、という境目すらも曖昧であり、色のもたらす美しさも私は認識出来なくなっていた。

 

情緒や美しさに対する認識というものが、きっちりと人間の軸に結びついていないと世界は甚だ異質である。
重度の痴呆症や知的障害などの「認識」が「この世に於いてはうまく」働かない人の観る世界というものはほんとうに、「嘘みたいな世界」なのだと思った。
彼等がどうしてセンスが無いのかという事について、配慮の無い浅はかな興味で昔考えたことがあったが…今は体感として凄くよくわかる、だって色に意味なんか無いのだし、流行の「形」に意味や典雅さを見いだせ等というのは…宇宙の果てを覗き込むのと同じくらい遠い物事だったから。
だから男女の情というのも、収集癖のような物欲も、美しいモノを観たい、作り出したいという欲求も…ほとんどが、「情緒という認識」カテゴリの中で行われる神秘なのだ。
罪悪と呼ばれるものはこの世の神秘である。

 

さて、我の認識をただの認識だとする私の個人修行は、突き詰めるとこの「全ての認識を手放す」という段階に到達する。
別に特段我を捨てることを目的に生きている訳ではないのだが…どうしてもやむにやまれぬ欲求で、この世とあの世の修行をしたいという気持ちが私にはある。
この種の修行の最終段階は死なのだと思った、全ての事象に「意味づけ」をしていた自己の消失。
ただ、自己を保ったまま物事を…「実は何も起きていない」ということを直視し、尚且つ配慮の出来る状態…これが出来たのがイエスキリストだと思う。
エスキリストには理論上なれるわけないので(我として生きながら我として死ぬということは理論上不可能である)、だからこそ彼は神の子なわけだが、どうしても何か今この世に於いて出来る事は何かないのだろうか?という気持ちにも苛まれる。

あくまで私の出来る範囲で、私は「よいはたらき」を出来ないだろうかと思っている。

 

その一環としての、絶えず祈るという修行なのである。

 

世の中に於いての修行というのは「働き」であると考えている。
私は仕事としてはブラック企業の事務→図書館→客室清掃…というふうにどんどん自分に合った身体を動かす作業をしていたわけだが、肉離れが頻発して股関節の異常も発覚したので、内職をしている。
事務仕事は性に合わなさすぎて自分でも唖然とした、だから立ち仕事と事務仕事の割合がほどよい図書館に居て、それでも直立して立っているのは腰にくるので、身体を動かした方が楽である為に清掃を選んだ。

 

…のだが、私の身体の許容範囲を超えた仕事だったのだ。
特段私は仕事人間だったとかいうわけでもない、楽にゆるく働ければそれでよかった、それが「世の中にとっての自分のはたらき」でもあるという認識もあった。
だから働かないで居るというのはなんだか苦しい、内職をしているが、たまに会う人とかに「なんでバイトしないの」と言われるとうまく答えられない。


このうまく答えられないのは、「私は自分に合う仕事をしたいんだ、自分に合うはたらきをしたいのだ」という意味での、「脚が痛いから、性に合う肉体労働が出来ない」という答え方になる。
じゃあ肉体労働じゃなければいいんじゃない?
というのは至極当たり前の問いだろうが…事務という事象の認識しにくさ(というか欠落)を私はもう常時知っているので、それを敢て仕事にはしたくないのである。
たかがパートでも、「ちゃんと働いていたい」からである。(何も事務だけやるパート、とかじゃなくて、、レジもかなり苦手)
で、この敢て欠落を知っているのに、敢て自分の苦手な事をやりに行く理由も無いし、本音を言うと「いかなる働き方であれ、正真正銘に働いていたい」のだ。

 

この文章だけ読んだら多分私って強烈な怠け者のように思えるかも知れないが、友人ならわかると思うが…彼も実は切実に働くタイプである、働くのなら「ほんとうに」働きたい、という欲求がある。
ただ、このほんとうにという部分には資本主義的というよりも個人の主体主義的な思想が宿っている。
私が清掃の仕事を楽しいと思えたのは「ほんとうに」その場での「人間関係などを含めた部分で」はたらけていられたから、ということ。
ちょっと思想が突っ走ってないか?って感じもある、こうして言葉にすると三十路過ぎで青臭い感じもする。
思考の労働よりも肉体労働の方が性に合うという人が身体を壊した場合、結構辛い。
この肉体、という部分には現場の空気というものも含まれていたから。
でもって繰り返しになるが、このほんとうにはたらきたいという言葉は、資本主義的な意味ではないのである…。

 

ほんとうに働くというのは限りなく空気的な、儀式的とすら言えるような意味、なのである。
まあこれまでも呑気に働いてきたわけだから、特段働くということを神格化させているわけではないのだが、敢て無理をしてまで合わないことをする、ということはもう人生で避けたいのである。
何が言いたいのかというと、勉強とかほんとうに心底無駄であった。
あのようなことで優劣をつけられ、親に怒鳴られ、挙げ句の果てに何も出来ずにいる…それならはじめからもっと、手作業などの工業が海外に流出せず、日本に在れば、私のようにレジを含めた思考労働には向いていないが手作業は出来るという「広義的な意味での肉体労働者」がこんなにも怠け者扱いされることもなかったのではないだろうかと思う。

 

ただ、この自分の思想というものをよく観てみると、私もまた資本主義的な優劣思想に染まりきってるのがわかる。
私が他者から働かないこと(それでも内職はやっているのだが…)を聞かれたときに湧き起こるのはその実、社会に対する怒りであるということ。
そのような認識が私には在る、ということ。
実際に手作業という分野が日本からかなり流出しているということ。
で、資本主義が進んできているので得意な分野が現在の日本に無い人は、頑張って思考労働や感情労働に自分を合わせてゆけねばならないということ。
その合わせるという際にも、病気の有無や身体の弱さなどを聞かれ…どこまでも、どんなに簡単な仕事でもハードルが無駄に上がっているということ。
ほんとうに私が自分の思想というものを冷静に持っていられるのならば…私は単にこう答えればいいだけなのだ。
「今は内職でいい」
ただそれだけである、「今は働かなくていい」、ただそれだけである。

 

私自身が優劣をつける前の段階で「祝して」から問いに答えればよいだけなのである。

 

資本主義をぶっ壊したいわけではないのだけれど、はたらきという事で今思っているのは…勿論金銭は必要で在る、対価は必要で在る…だが、思想や本当の感情も含めて働きたいということ。
それが本当に世の中のはたらきになっていたらいいなあということ。
…死を思うとそれすら無駄なのはわかってはいるのだが、そのような事が一番の修行になるだろうな、ということを考えている、個人の修行をしたいのである。
例えば誰かから暗に「怠けている」と言われたとき、その言われたという事象に反応する前に祈り、ただ目の前の他者は、その人物の価値観を述べたのだと思いたい。
このような事がまず第一のはたらきであるように私は思う。

 

血管迷走神経反射の話に戻るが、これはストレスでもなる。
確かに、私は世の中的な意味での存在意義を失っている。
絶えず自分を罵倒する声に囲まれている…が、それは自分の思想が自分にとってよくない作用をもたらしているのだ、これこそが私の抱えるストレスなのである。
自分を屑だ、と私はつい思ってしまうが…それって自分以下だと見なした人にはもっと当たりが酷くて当然という考えでもある。
自分は馬鹿だが自分より点数低い奴はさらに存在意義が無い、という思想。
内的批判というものが私のストレスの元である…だって、脚が痛いというのはそれ自体の痛さに対応する苦しみはあれど、それに付随する「自分の好きな働き方が出来ない、だから漠然と怠け者扱いされる」という苦しみの方が遙かに苦しみが勝ってるのだ。
それは自分が、働いていないと世の中のためになっていない…と暗に決め込んでいたからである。
このままだと、働いていない人は世の中のためになっていないと私は信じ込んでしまう、それが正義だと思い込んでしまう。
金を稼いでない人はよくない人なのだという価値観に陥ってしまう。
人間を人間だと認識できなくなってしまう。

 

資本主義資本主義と繰り返してしまったが、特段政治的な意図は別に無い。
だが私が祈るのを「宗教的だ」と嘲笑する人が仮に居たとしても…私は思うのだ。
最も人を盲目にさせるのはカルトでもなく広義的な意味での宗教心でもなく、没入する祈りでもなく…社会的風潮なのだと思うのだ、これが一番他者への配慮を失わせる、他者への配慮というのは根本的な自己への配慮の事でもある。
完璧な感情労働、完璧な思考労働、末端すら完璧な五体満足という大前提でのパートやバイト…これが本当の働きだろうか?
こうしたもの故に、労働という輪になかなか入れずにいる多くの人も居る。
私は資本主義というものこそが巨大カルトだと思っている、人間には確かに優劣はあるし、働きによってそれ相応の報酬が受け取れるという思考は素晴らしいが…それが人間思想にまで染み入ってしまっているということに私は危機的なものを感じる。

 

私は、祈ると、自分の盲目さ加減を知る。
意識障害を伴う失神によって…認識というものの意味の無さ加減を知る。
私の一昨日の発作を起こしたのは、結局の所、私の認識の歪みのせいなのだろう。
それがストレスとなって自分に起ったのだ。

 

ほんとうの働きがしたい。
そのためには、働いていないということや、役に立たないということに対する「是」の祈りを先ず述べるのが最短ルートであると、私は思っている。