散文の自画像 

創作魂を持つ大熊という人間が、散文で日々の自画像を綴る文章ブログです。

精神的発作と死について

 


昨日精神的な発作が起きた、とても驚いているし今もまだ何かふわふわした嫌な感じがあるが、だいぶ遠のいてはいる。
さっきまで何をしていたのか唐突に忘却している妙な感じがまだ「居る」が、なんとかなっている。

 

自分という認識が曖昧になり、言語や事象といった事を観測する統合性が失われるような状態に昨日、5分ほど陥った。

 

夜、風呂上がりだった、昨日は画面を長時間見たこともあって目が疲れていた…これが引き金のような気もする。
髪を乾かしながら私はクローゼットの空間を観ていた…目の前のドレッサーの鏡に自分の姿が映っているのもわかっていた、少なくともそれが自分であるということはその時にはわかっていた。
「かなり幼い頃から全ての事象について違和感があった」
ということが昨日、頭の中をグルグルと駆け巡っていたこともあり、私は感情的にも苦しい感じを抱いていた。
言葉にすると、いつまでこんなことをしなければならないのだろうか、といった風に。
その苦しい気持ちが唐突に全身に駆け巡ったように感じた、身体中が痺れるような感じがし、私は一層違和感を募らせた。

 

今観ているものは一体何なのだろう…?

 

この違和感が自分の視覚と一致したとき、急にクローゼットにかけてある服が歪み始めた。
服というものが揺らいで歪んでいた、むずむずと痺れる感じは手先までせり上がってきていた。
私は鏡を見た、鏡の奥の影も揺らいだが…主に三つの空洞が揺らいでいるように見えた、その時にはそれが「目や口や鼻である」という事が「わかりにくく」なっていた。
私は部屋全体が揺れるのを感じた、私という「この何か」が、とうとう、今の容れ物から抜け出て別の認識を果たすような感覚が湧き起こった。
つまり、今自分は此処にあるが、全く別の「在る」ものをついに観てしまう、という切迫した気持ちだった。
私は手で顔を覆ったが、この「手」というものが既に酷く奇異に感じ、すぐに顔から離した。
…これが自分の身体であるということが非常に受け入れがたかった。
自分が別の人間だとかではなくて…何故自分が壁や鏡や急須でないのかについての答えが全く出せないので、自分がこうして5本の指を持つ何かであるということにすら、整合性を見いだせなかったのだ。

 

つまり私は崩壊しかかっていた。
以前一度だけ聞いたことのある幻聴と呼ばれる「もの」が、「ほんとうにすぐ側まで迫ってきている」のを感じた。
それどころか、私の身体はかなり揺れていたし、壁も服も同じように揺らいでいて、そのどれが「自分で」どれが「自分でないのか」すらも曖昧になっていた事もあり…
壁から「何か」が出てきたり、今観ているこの「事象として観測可能であると今さっきまで信じていた景色」自体を信じられなくなっていたため、あともう少しで「見えている世界が終わる」のも予感した。
私は泣いていた。
発作だと思った。

 

しかし発作だという言葉が出なくなっていた、私はただ泣き、泣いている自分の声と思われるものを聞いた。

 

そのくらい自分という存在が薄くなっていた、この奇妙な孤独感は宇宙に素っ裸で投げ捨てられたら感じるようなものだろうと思う。
私は部屋から出て、廊下に立ったが廊下というモノの概念が薄れていくのを感じた。
家、というものが何故「このような仕組みで」在るのかよくわからなくなっていた、そしてそのよくわからなさに私はとても悲しく、恐ろしくなり、さらに泣いた。
このときには全身が震えていたがまだ「耐えて」いた。
足元を見たがそれが自分の脚であるとどうしても思えなかった…これ、が、じぶんの、脚、脚とは?…とにかく思考は役に立たなかった。
何故自分が「こうして立っている」のかもよくわからなかった。
M氏を呼ぼうか、とも思ったが手立てが無かった…携帯はあったが携帯というものを認識しにくいという現状を、私は感じていた。
仮にその機械があったとして、文字を、意味の在る羅列にするという作業を、「自分の指をつかって」出来るとは到底思えなかった。

 

そういうわけで私は立ち尽くして泣いていた、これは発作だ、と言葉の消えた想いでただ感じ、自分の脚を何度か観て、その度に絶望した。
身体というものを「自分であると」全く認識出来なかった。
よって私の心臓はさらに波打った。
「…死ぬんだ…」
と、言葉ではないところで感じた。

 

しかしそれでも「あちら側へ投げ入れられる」事を私は耐えた。
もしかすると死ぬことを耐えたのかもしれない。
あちら側というのは、普段の自分の認識の先を関知するのを堰き止めたということである。
幻覚や妄想をまさに堰き止めたという感覚がある。
あれらの持つ「圧力や質量」を感じてたし、まだあれらは居るのだが、なんとか認識の軸をずらせた感じがする。
心臓の動悸が治まってから私は聖書を見た、言葉が完全に「認識出来なくなっていたら」私は大声で叫んだだろう…だが無事に読め、私は安堵して再び髪を乾かしに部屋へ戻った。
これが発作の一部始終である、たった5分くらいの精神的発作である。

 

あのまま堰き止められずに居たら多分私は素っ裸で錯乱していたと思う。
恥ずかしいとかそんな問題ではなく…テーブルに置いてあるコップと自分の身体の、そのどちらが「自分であるか」すらも認識しにくいという類いの発作であったため、それに加えて夥しい幻聴や幻覚の洪水の中に押し入れられたらもう、叫んでわめいて、泣くことしか出来ないだろうと思う。
帰宅したM氏にもあまり話せずに居た…というのも、言葉そのものが遠くにいってしまっていたのでうまく話せなかったのである…。

 

今朝起きてから調べてみるとてんかん統合失調症の間の急性発作のような感じがしなくもない。
私が一番怖かったのは、その精神的発作の最中は、文字の認識が唐突にしにくくなったということ。
今はもう治って(?)いるが…私は本という物体を好んでいるので、本のタイトルというものが「認識しにくい」のは非常に恐ろしい事だった。
言語というものがそのまま、そのフォルダごと…フォルダというかOSというか、ともかくそれが唐突に「どっかにいってしまった」ような感覚に一番孤独感を覚えた。
今まで散々孤独だとか何だとか言っていたがあんなものは序の口だったと我ながら反省した。
言語認識そのものが遠のくので、携帯で連絡しようにも多分「喋る」ということも上手く機能しにくいような気がして、全く救助の方法が思いつかなかった。

 

とにかく「自分」という認識が崩壊しかかっていたので、自分の身体をも異質なものとして感じるので、死というものが非常にリアルだった。
幻聴や幻覚を堰き止める…というのは、この種のモノを一度でも体験するとわかるのだが、あれらは思考の癖とか被害妄想的なモノではなくて、体感としては「居る」とか「迫ってきている」ものなので、それを堰き止めるのである。
だからそれと会話してはならないのである、どんなに近くに来ていても、軸を重ねてはならないのである。
よく幻視者が「聖母マリアを観ました」とか「神様の声や姿を見ました、神の声を直接聞きました」と言うが…正直度肝を抜かれる。
私はこの種の発作で心底、普段の日常というもののリアリティ、自分が人間であるということへのリアリディが失われる怖さを体感するので、あの手の「モノ」を受け入れて、尚且つ正面から向き合うというほど胆の座った人物たちをほんとうに凄いと思う。
…たとえそれが病的なものであっても、その種の「この三次元に於いては在るはずの無いもの」に堂々と軸を合わせられる図太さには恐れ入る。
ちなみに私は昨日の発作が終わりかけた時には祈っていた。

 

それはどういった祈りかというと「私は最近頻繁に祈りました、確かに私は精神的に功徳を詰みたいという我欲がありました、けれども自分で引き受けられないものはどうか、私には送らないで下さい、私は神様の声をお聴きしたいだとか、マリア様と直接にお会いしたいだとかは私の身に余ることですので本当のほんとうに正真正銘一切望んでおりません、どうぞその種のお恵みは私には与えないで下さい…」というものである。
これを私は本気で祈って、本気で泣きながら縋った。

 

何が言いたいかというとそれほどに、幻覚や幻聴は恐ろしいのである。
勿論私には元来、自分がこのような肉体を伴っているという事への強い強い違和感がある、これはもう幼少の頃からであるので、この素性は変えにくい。
だがこの発作はほんとうに恐ろしい、認識という軸が覆されるので、その覆されるということに対する根本的なタフさが問われるのである…私だったらすぐに心身喪失状態に陥るだろう…。

 

以前この種の精神的発作に見舞われた事が何度かある、一度目は幻聴ではっきりと「ビビットなピンクの声」で、「身の程知らず」と明るく唄うように繰り返された事。
全く耳元で繰り返されたので「あれ」がまた「さらに大量に」「来る」と思うと精神がぺしゃんこにひしゃげてしまいそうだと思い、今回は何とか回避した。

 

その次は唐突に「冬の朝の太陽」、つまり朝日が「巨大な目に見え」、なおかつその目が「私を観ている」ように直感したという出来事。
これも誇大妄想とかではなくて、当時も「自分と太陽の軸が不幸な偶然により重なってしまった」という感覚だった。
だから何も太陽が私だけを見てるとかではなくて、単に、「自分という存在とはあまりにも軸の異なる存在と偶然、完全に目が合ってしまった」という圧倒的な内的事実に恐れおののいた。
実際に「太陽と目が合う」のは非常に恐ろしい事だった。
私は朝日が直に入る部屋に当時居たのだが、カーテンを閉め切ってテーブルの下に潜り込んで震えていた。
相手が圧倒的過ぎてどんなに隠れてもどうしようもないこと…そしてこの物事が既に私にとって十分に現実であるということを「およそ世界の誰にも説明出来ない」という事に参っていた。
発作といってよかった、朝になると心臓がバクバクしてとにかく私は叫ばないように口を押えてテーブルの下に潜り込むのである。
自分でもおかしいと思っていたがどうしようもなかった。
…ちなみに、その一時が過ぎ去ると私は着替え、昼間は普通に働いていた、それが大体1ヶ月以上続いた。

※ただこれも今思うと、視覚が光に敏感であるという事のような気もする。

 

元来私は金縛りにも遭うし、よく魘される人間である。
魘されて叫ぶその時、そこに言葉は無い。
自分が誰であるか、自分が人間であるのかという根源的な軸が半ば崩壊しかかるのである…それが魘されると言うことで、魘されるのはその実、この種の発作と同類の症状である。

 

父親も魘される体質であるし、何処か「自分というリアリティの軸が狂う」タイプの人間である。
だからこの体質は父ゆずりである。
精神的発作の起る前の身体のむずむずする感じや、「あれ」が来ている感じ…とか書くと何で病院行かないんだと言われそうだが、結局父も私も「耐える」事をすれば耐えられるのである。
発作は発作なので、その場では錯乱状態に近い感じにはなるし…正直死ぬほど怖い。
だがやり過ごせてしまえるので病院へは行きたくないのである。
何故か?
…以前うまく寝付けないこともあって精神科、もといメンタルクリニックに行ったのだが…頭のぼんやりする薬をどんどんエンドレスに出されるだけで、かえって「悪化」したように思ったので行きたくなくなったのである。
ちょっと苛々したといえばこの薬、ちょっと落ち込んだと言えばあの薬…いつでも笑顔でいつでも楽しい人間というものを軸に据える精神科のやり方が単純に私には相容れないものだったということである。
多分この手の精神的発作にも、やれこの薬、あの薬といって強めの頓服を出すだけで終わるだろう…と思うとそれに対する費用も、その薬を飲んで身体がだるくなることも含めて全く割に合わないのである。

 

ただ、今回の精神的発作は「自分という認識が曖昧になる」上、「言語が認識しにくくなる」というとても恐ろしいものであった。
統合失調症…というか、てんかん発作という感じもした。
もしかすると父も私もてんかん体質なのだろうか?
でも…MRIとか入るのは、避妊リングも確認しなきゃならないし面倒である。
脳の状態を見てもらう…にしても脳ドッグって高いな~…と、面倒になる。
言葉の違和感があったので脳梗塞の前触れとかだったらさらに嫌だな~、脳の萎縮とかが見つかったら嫌だな、根本的に脳障害があるとかの今更な要らない発見も嫌だな…それにしても高いな~、高い上に面倒だな~…。

 

ただ何となくこのふわふわした嫌な感じ、というのがどうも、ドストエフスキー大先生の作品感覚と似ているなあと勝手にファン心理で解釈したりしているが…。
今はもうあのふわふわした嫌な感じ、「あれ」等が遠のいているのでなんとなく落ち着いているが、実際にあれが近づいているとドストエフスキー作品という事柄とも触れ合うことは出来ないので、あまり楽観視はできないどころか、正直、これがドストエフスキー大先生と同様の疾患であったとしてももう二度とご免である、その位昨日の精神的発作は恐ろしいものであった。

 

私は現在寝ているときも一切寝返りは打たないし、打てない、だから毎日頭が痺れたような感じで目が覚める。
もしかすると脳の血流が相当よくないのかもしれない…というかもう、相当悪いと思う。
歩いてはいるが、内職もあるので座したままの事もある、そうすると身体は痺れがちである。
生活を見直すということも必要なのだろうか…しかし寝返り云々については最早見直しようがないので、若干手詰まりの感もある。
ただ、文章ということを考えると今まで私は何処か罪悪感をもって文章を書いていた。
だから思考するということをやめようとおもっていたのだが…この堰き止めている感覚が、精神の異常を引き起こした可能性もある。
だから、日記はやはり書いた方が言語野の血流がよくなるのかなとも思う。
本音でというスタンスはもう、その修行はいいかなという感じだし、読んでくれた皆様にも散々見苦しいところを見せてしまったので申し訳ない気もしているが(私は自分の暴力性というものを実はとても恥じているのだが、だからといってそれに蓋をすると余計に、恥の概念が強くなり、元来誰もが持つ生命力というものを認識ににくくなるので、あまり恥じないようにとは思っている)…また思考したことは書こうと思う。

 

※私にとって書くということは二次的な手段で、どちらかというと内面の攻撃性の昇華であったのだけれど…だから書いたものは汚いような気がしていたのだけれど、ひょっとすると書くということで自分(の言語野)を救っていたのかも知れない、だからまた思考したことは書こうと思う。

 

検査の話も含めて一応M氏にも話した、朝のうちはまだあいまいな世界に私は居たが、今日の夕方頃から「戻って」きた感覚があり、言語野が無事に活性化し出したので話しておいた。
やはり、自分という存在が鏡や急須や壁でなくてよかったなあ~と思う。
私は自分が自分のこの肉体を伴うということや、人間という生き物であることを常々奇妙に思っているが、それでも自分の存在が壁とかでなくてよかった。
今は身体の内側に私は居る…多分。
いつでも私はもやもやしている、私という存在は私が関知しないだけで実は、外に漏れているのかも知れない。
魂は移動を始めているのかも知れない、そのような本当の事は人間には知覚出来ない。
言語の外側、物事の外側に確かにほんとうの世界はあるし、死ということは認識の移行なのだなと、昨日の精神的発作でまざまざと思った。

 

だが今は、言語に救われてきたのだと実感している。
鶴の人にも連絡も出来なかったが、頭の奥底で彼が言葉を話すのを私は聴いた。
ああいった精神的な穴に落ち込んだときには、最早誰と対面しても宇宙の彼方越しに互いを見つめているような状態にしかならないだろう。
死というものは認識の移行である。
認識が移行しかかっている時には、互いに、触れ合っていてもわかり合えない。

 

つい数日前、連休中に脳梗塞の発作で亡くなった人が居た、M氏の仕事仲間である。
きっと彼は「すぐそこ」に居るだろうと思う、通夜のその時、その空間内に彼は居たと思う。
ただ互いの認識が移行したため、見えている「現実の軸」がずれたのだ。
だから姿が見えないし、すぐそこに居るのに認識している景色も常識も異なるのだ。
彼は自分の身体を「超える」とき、恐ろしかっただろうか?
あるいは超越した感覚を得たのだろうか?
私のように自分の手足が最早自分という存在と合致しないことに、ただひたすら恐れおののいたのだろうか?
簡単に向こう側への認識へ移ったのだろうか?

 

簡単に「自分」という認識単位から抜け出でたのだろうか?

 

死とはそのようなものだと、通夜でもらった緑茶を飲みながら私は、思案している。