散文の自画像 

創作魂を持つ大熊という人間が、散文で日々の自画像を綴る文章ブログです。

絶え間ない祈りと宗教観、ロザリオや数珠に含まれる時間感覚

 

絶え間ない祈りについて
これは祈りに関する「個人的な思想」である。
目の前を通り過ぎる物事、人、大小のアクシデント、仕事に当てはめるならば内職で取りかかる目の前の本の一冊一冊、清掃時代だったら一部屋一部屋、接客時代の私がこの祈りを実践するとしたら一人一人の利用者だろう…自分の目の前に「今」在るそれら事象に対して都度、観測しうる範囲で「恵み」あるいは「恵みがありますように」「御助けがありますように」といった祈りや祝する言葉を思い浮かべることをしている。
これは特段どの本に書いてあったとか、誰に師事してもらったとかそういう事ではなくてふと、思いついた個人的な祈りの思想である。
ただ、聖書をあくまで自分なりに読んで感銘を受けたという精神状態であるということは明記しておこう。
祈りというと大げさな感じがするかもしれないが、実感として高い効果を感じるということが切実に迫ってきた思考法…祈り、なのである。

 

神聖な祈りの場所で啓示を受けたり、聖書を読んでいて感銘を受けたりするということについての「信仰の実感」は素晴らしいものだ。
だが祈りの場所を一歩外に出たときに他者…あるいは事象としての自然災害を含め起った物事についてどのように自分の「根幹」が反応するのかということに軸を据えたいという気持ちが私には元来強くあった。
例えば家に宗教の勧誘が来た、その時にすぐに、何よりも早く「自分自身の祈りで相手の存在を是とする」という事を私は行う、反応としての嫌悪感、あるいは「見下されたような感覚」が起ってもそれをただの自分の反応だと「認識」出来るようにしておく。
そうすると、私自身も相手を見下さずに済むのである、相容れない概念の他者に対しても平静で居られる…これは本当に救済であると私は感じる。

 

この「目の前の対象(だと認識した事象について)への祈り」、思考や反応の前段階に祈りを据えるという思考方法を敢て祈りと呼ぶのには理由がある。
実感として、このとき自分自身を捧げている、繋がっているという感覚に満たされるというのが第一。
この感覚についてはそれを体感しないと解らないので、もしかすると世界中で私一人にしか通用しないものなのかもしれない、つまり思い込みなのかもしれない。
第二の理由は…これが仮に思い込みであるとして、個人の思考方法なのだと言い切って自己解脱に取り組んでいるという認識の場合、案外簡単に慢心するということへの危険性を自分に感じるのである(私が袈裟を着た僧侶を嫌いだと認識するのはこのあたりの理由かも知れない)。
慢心というのは…うまく言えないが、前の自分よりもレベルアップしたのだという感覚、だろうか。
これを何故危険視するのかというと、この階級感覚が自分に根付いた場合、人を段階で見分ける、事象を段階で見分けるということが信仰や思想といった内的な導きの概念に於いてすらも起るから、である。
それが何故危険なのかというと、自分自身にとっての真実を見極められなくなる恐れがあるから、である。
聖書やイエスキリストの手助け、また数多の思想の手助けが自分を作っているという感謝を忘却するから、である。
感謝の忘却は配慮の忘却である、だからこれを正真正銘の思考方法だと言い切ることが私にはタブーなのである。
これは配慮のために行う祈りだからである。

 

この絶え間ない祈りは何も、絶え間なく自分を害悪から守ってもらうという縋る祈りではなくて、静かな自己観察の祈りである…地味な祈りである。

 

常に配慮を行うということを自分に本当に課すのならば、思考の上で「クソどうでもいい出来事に煩わされた」というその認識についてすら、愛を見いだすことを可能にせねばならないと私は思っている。
聖書を読んでいるときだけでなくて、法華経を唱えている時だけではなくて、常に常に自分が本当に此処に居て状況を作り出しているのだという実感が、配慮を行う上で必要である。
配慮を行うということを愛着に繋げてしまうと大変な事になる、そんなことはしなくてよいし、すべきではないと私は考える…が、もし駆り立てられるように何か内部で燃え上がったらそのような行動をとるかもしれない。
だが、常に内外、自他が平安で在ること…本当に繋がっているという確信をもたらすこと、これを配慮の根幹と考えると、燃え立つような祈りよりもこの種の冷静さを見極める思考方法の方がより、祈りの根本に「近い」気がしている。

 

気がする、内的実感がある、という話なのである…だからこの祈りについて何かを証明するということは出来ないが、確実に思考の上で平安をもたらすということは述べておく。

 

仏教と一神教、宗教的価値観について

神は観測されないので実在しませんと言う人も居るし、仏教系の宗教関係者もそう言うが、神は何も「神様という人」等ではないと、彼等には言いたくなるときがある。
一神教の人たちは神様という人を信じているということではないんだよ、と…このあたりの、他宗教への認識があまりにも薄い仏教系僧侶などを見ると失笑したくなるときがある、無論これは「私の思考が勝手に失笑してしまっている」状態である。
宗教関係者や思想系という社会的立ち位置にある人の他概念への認識不足を見ると憤りを感じる、私の思考が、である。
とにかく「在る」ので、この世界も在る、という認識が聖書にとっての神だろうと私は感じているし、あくまで私にとって多くの信仰告白の文章を読むと、神を信じているということはこのような概念なのだと解る。

 

ただ、仏教で言うところの世界は無であるというこの概念と、一神教の「在る」という概念はその実容易に合致する。
この「在る」の中に「無い」を入れればよいのである…というか、この世界観を案外多くの人が体感しながら生きていると思う。
朝目覚めた時の違和感、肉体が在るという事への違和感、何故だかいつも目隠しされているような違和感…無論それは私が「本当の軸を隠して生きているから」である、だがそれだけでは言い表せない虚無感を感じるのである。
これは一神教でも多神教でも、それこそ無宗教の人でもそうだろうと思う。
この世は仮の世なのだという感覚が強い、これは個人的なトラウマがそうさせているのかもしれないが、それを癒やすのは祈りしかないだろうと思う。
こういった虚無感に対する感覚、虚無感と全く同一に「真理」が在るのだという感覚、こういうものがかつてグノーシス的と呼ばれたのかも知れないが…今敢てその名称を変えるのならばキリスト教仏教派とでも言うべきだろうか。

 

仏教キリスト派、だとどうしても配慮という概念が後回しになる恐れがあるので、ここはやはりキリスト教仏教派が妥当である。
私にはどうしても愛の概念が必要である、赦しの概念が必要である、ストイックに全てを突き詰める方法だけでは配慮は成し得ない。
しかしキリスト教仏教派という人物像が「この仮の世で」「仮に」完成した場合、それは実に仏陀に酷似しているだろうと思う。
だがこの世を仮の世だと仮定しても、この世に在るということを是とする場合、自分自身を在る者に変容させなければならない。
だからこそ愛という概念が必要なのである。

 

一神教の神を否定するのではなくて、神は確かに在る、だがこの世は仮であるというところに「在る」と「無し」の両立が完成する。
…と私には思えて成らないし、現に私の魂を分解したらこのような図式が表されると思う。
私はこの虚無感に耐えてきたし、何よりもこの離脱感が苦しい、目覚めて何か違和感を感じるときに私は祈る、何に…?
在る、と感じるものに、である。

 

何処に宗教的実感を得たのかと問われれば、私はイエスキリストに感銘を受けた、これは実感であって、言葉にすると「自分とはほとんど接点の無い異国の離れた時代の誰かが死んだということに感動している」という訳のわからないものになる…が、私はそういうことに光を観た。
まさにこれと同種の光を実はダライラマにも観た、彼の言葉にも観た。
だから内的体感としてイエスキリストに非常に近い存在はダライラマなのである、何故?と問われても私には「書物で感じる光が酷似していた」としか言いようがない、これが宗教的実感なのでどうしようもない。

 

ダライラマチベット仏教の人であるので、特段理由も無くチベット仏教の仏具などを調べてみた、この人物がこれほどまでに完成されているのはどのような思想のお陰なのか知りたくなったのだ。
昔からチベット死者の書曼荼羅は観ていたし、全ての経文も師弟制度で受け継がれていること等は知っていたのだが、どのような物品を手にしながら思考の宇宙に居るのかは今まで知らなかった。
私は数珠を観ていた、その時電光が走った、これは触れてはならないと思った。
その時に観たチベット仏教の数珠というものに私は凄まじい「タブー」を感じた、警告を感じた。
それはただの数珠である、だが、私の持っていい数珠ではない、触れていい数珠ではない。
完全に「異質な」ものであるので、敬意を込めて私は「傍観」せねばならないと感じた。
恐怖、と言い換えてもいい、畏れというのが妥当だろうが、私は異質な概念と宇宙に恐怖を感じた。
何故か…その答えは簡単で、私が日蓮正宗の数珠に慣れ親しんでいたし、その概念体系以外を是としない世界に居たからである。

 

つまり私の宗教的リアリティというものは相変わらず日連系にあるとも言える。
とにかく概念と概念が、磁石の+-のように反発してしまい、一人の人間の中に収まりきらないという「事実」を私は観るのである。
私が「ありとあらゆる概念をほんとうに持ったなら」「肉体として此処に実存している私は」「崩壊するだろう」ということを私は実感し、何処か落胆し、尚且つそこに神秘を感じて立ち止まる。
ここで宗教的タブーが発動したという事実に基づき、敬意を以て他宗教を観る、ということを私は体感する。
だからこそチベット仏教というものが「実在している」のを私はまざまざと「体感」するのである。
実感するのである。
そしてダライラマという人物が中国という概念や人々や思想に対しても穏やかに接している所を見聞きするにつけ、私は感銘を受ける、イエスキリストみたいな人だ…と感じ入るのである。

 

以前、ダライラマの思考方法のような本を鶴の人から借りた、その時にはまだ私には赦しという概念が理解しきれずにいた。
理解は未だに全くしていないが、その概念がどうして必要なのかがよくわかっていなかった。
実際にその書物には赦しという言葉は出てこないし、他者を許すという姿勢も無い。
神という言葉も無い。
だが、常に常に自分の「思考ではなくて祈りで」他者に向き合うという概念が書かれていた…ように思う、今、そのように思えてならないのである。
実際には祈りで何かを解決する等の発言は書かれていなかったと思う、淡々と著者とダライラマとの日々が書かれている書物である。
それを私は鶴の人から受け取り、その時はまだ、日常を祈りの場にするということの意味が遠かったが…今は鶴の人は私を救済してくれたのだなという実感がある、特段顔を合わせたときに信仰について話をしているわけでもないのだが、彼とはそのような繋がりを感じるし、私は鶴の人にほんとうに助けて貰っているのだ…。

 

両親との違和感がほぐれたと同時に宗教的タブーが薄れたので、未信徒でも持てるロザリオを入手して祈りを唱えたりした。
その時に、愛着ではない愛という概念が実感をもって私に迫ってきた。
そしてこの、絶え間なく祈るということが現実として私に課せられたのを私は実感した、その時に、鶴の人から借りたダライラマの本を読んだということが私の内部で真実となったのだ、穏和を保つということがどのような実感をもたらすのか、どのように絶えず注意していなければならないのかということが、私に現実性をもって迫ってきたのだ。
耐え間ない祈りは、実際に大げさに祈るとかではなくて、思考や反応の前に、「祝する」のである。
何か起ってもとにかく「恵みがありますように」と思い浮かべるのである、この言葉はなかなか多の祈りの言葉に置き換えにくい。
南無、という言葉は帰依を表すため、自分の帰依がそこに在るというわけでもないので南無妙法蓮華経とありとあらゆる事に唱えるというのも実質、難しい。
アーメン、も大まかにいって南無という意味、帰依の意味を持つのでこれを言うというのも憚られる。
言葉というのはその実思考である、だから祈りと言い切ってしまうのも気が引けるのだが…それでもこれは祈りなのである。
是とする祈りなのである。

 

~しますように

というのは言葉に置き換えると一見、上から目線というか、望まれてもないことを祈られているように感じるかも知れないが、単に「よきことかな」という感覚である、かからこの「よきことかな」が絶えず自分に起っているのだと思うと私は驚くのである、思考はいつも呪っている、まさかこんなことがとか、こんな下らないことがといつも反射的に思っているが…これは祝している言葉なのである。

 

思考は悲しいほどいつも何処かで「呪い」を含んでいる。
これは愛着も含めてである、好き、愛している、それだけでは呪いなのである。
誰かを愛おしいと思ったそのときにも「恵みがありますように」と唱える、思考のその前に、である。
振られるときにだってそう唱えるだろう、その人が居なくなったり、あまつさえ死んだりしてしまった時にすら、思考の前に唱えるだろう。
このときに私は自分の「我」から自由になるのである。
だからこの祈りを唱える毎に私は実質、自分の我を抑えていることが出来る…ほんの束の間だが。
恵みがありますように、というのは言えば言うほどに、この世が仮であったとしても、その実非常に多くの恵みを含んでいるということを実感する言葉でもある。
だって少なくともそこに観測出来るということは、虚無というよりも、ふんだんな恵みであるから。
先ず祝うということを私は生涯かけて身につけようとしている…誰の為に?なんの為に?
在るということについて、である。
無いということについて、である。
これこそが働きというものだろうと私は確信しているし、実際にこれをやってみると気分は安定する。

 

怖いと思う事柄が減り、安定が増える。
何故なら自分がいつでも祝することが可能だと自分で知るから、である。
で、この祝うということを私は捧げたいと思うのだ、捧げるということを念頭に置かないと私は「思考の上で」それをやることになる。
思考の上でこれをやると、この事自体全部が自分自身だけの力で出来たのだという慢心に陥る。
聖書の光やイエスキリストの手助けがあって出来たのだということを簡単に忘れてしまう。
エスキリストにとらわれるということは、多分このような感覚なのだろう…他者の感覚などはこの世で知る事は出来ないが、とにかく彼が居たということに私は安堵している。

 

 

数珠の祈り、ロザリオの祈り、過去と未来を祝する祈り
ロザリオなどの数珠については、元々はインドのものであるらしい。
日蓮正宗では数珠をカウンター(カウントする物品)として使用しないのだが、前々から数珠の持つ不可思議さに魅せられていた。
数珠とは、時間であると私は思っている。

 

数珠とは、この世の時間、自分に割り当てられた時間を視覚化したものであると私は思っている。

 

ロザリオの祈りをやるときに私はそこに時間を当てはめる。
過去の場合もある…今は過去のことを行っているので、要所要所で自分という人間が生じた瞬間をイエスキリストの玄義とともに「祝って」いる、今まで呪う事の方が多かったので祝っているのだ。
死ぬ前に祝いきっておきたいのだ、これは他人にやれることの範囲を超えている物事である、だから元来、供養というものは私は自分で行うものだと思っている。
そうすると全ての未完了の物事が「仮の世に於いて」完了する、実感があるのだ。
これも単に実感の話である、祈りについていくら思考で「説明」しても、このような物事はやってみるより他無いのだ。
それも必要に駆られたらやるべきであって、不必要であるのならばそれもまた答えなのだと思う…そして私にはどうしてもこの物事をこうして書き起こしておくのが必要なので、やむにやまれずそうしている。

 

さて、同様にロザリオの祈りをこれからの未来の時間に当てはめてもよいと思う、これは時間のカウンターなので、このようなことは可能だと思う。
ロザリオは10粒の珠が大まか、5連ある。
だからこれを「今からの50日」に当てはめてもよい。
今からの「5時間」に当てはめてもよい。
…と私は思っているし、未信徒でも使用を許されている物品なので、精神構造上の+-が反発を起こすということも実際に起きていない。
今「手に持っている時間」をあらかじめ祝しておき、あらかじめそれを視覚により「見据えて」おくことによって、「祈りの外側にいかないように」自分で「道を調整」する役割を、ロザリオの祈りで実行しているのである。
何か目標がある場合、漠然と恐れを抱いている場合にこの「未来の時間を祝す」「道を調整する」ロザリオの祈りは効力がある、私には効力があるのでこのように書かせてもらう。

 

道を調整しておかないと私はいとも簡単に転落してしまう、いとも簡単に冷静さを失い、思考だけで物事に是非をつけ、人を判別し、自分をも裁く、いとも簡単に祈りを忘れてしまう…これが転落であると私は思う。
それは勿論可も無く不可も無い当たり前の状態である。
祈りのない当たり前の状態である。
怠け癖というか、逃避癖が出てきて苦しくなっても、自分の思考だけでそれを乗り越えようとしたって無理が生じる。
でも、祈りの中に在ればなんとか修正出来る。
修正というのは、単に「自分の思考や反応」を、「自分の思考や反応なのだ」と認識出来る状態に「戻す」ということ。
善なる者になるとかではなくて、祈りは、この世の最短ルートを模索できるということを私は言いたいのである。

 

このような事を考えると人間、きっと眠っているときが「一番まとも」であると思う。
ともすると一番配慮の出来ている状態なのかなとも思う。
ただ、起きて能動的な配慮をする場合の自己放棄とは違うが…眠りに於いては誰もが平等である。
だから目覚めているときは「思考を冷静に見つめていたいので」祈っていたい、常に祈っていたい、これが私の思う祈りへの欲求である。