散文の自画像 

創作魂を持つ大熊という人間が、散文で日々の自画像を綴る文章ブログです。

私の神様


個人的体感のうちに生きているとどうしても団体の決まり事というものの中に神秘を見いだしにくくなる。
祈りというものは関係性だと説かれても、私は自分の個人的な関係性のほうを重要視してしまう。

 

関係性の外側へ行ってしまう人間は果たして救われるのだろうか?
これを組織を保ってきた宗派は救われ「にくい」という位置づけにする。
聖体拝領で「本当に」キリストの肉を口にしたという実感が湧いた場合に、その宗派の一員になれる。
逆に言えばそこに実感が無い場合は宗教的体験もまた無いということになる…私の場合は個人的体感を優先させるのでそのような見方になってしまう。

 

聖書を読んでいて響く直感では、聖体という事に関して言えば、キリストは「全ての食べ物の中に自分は居る」と言っているように聞こえる、主食と飲み物の中に自分は既に在るという風に聞こえる。
この解釈もまた私の場合は独自解釈に過ぎないので、組織としては、私は勉強し直さなければならないということになる。
だが私が、個人的体験としての聖書というものを追求する場合、私は私の感じたイエスの言葉を優先させる事を是とする。

 

マリアへの崇敬も、イエスという人格を生み出したという点を讃えている…
めでたし聖寵満ちみてるマリアという言葉も、それを男女ともに口ずさむ事によって誰もがその瞬間にマリアとなり、イエスという人格を内部に生んでいるように私には思えてならない。
祈りの文言としては、マリアを讃えているのだからそれは第三者の目、なのだけれど、イエスを産む前のマリアというものをいちいち出現させているのは「自分自身の内部にイエスキリスト的な変容を起こす」という宣言のように私には感じる。

 

聖書の内部に於いては性的な不品行は悪とされているが…果たしてそこで言う妻や夫という言葉が、本当の意味で組織に於ける婚姻関係者を指すのかどうかは曖昧である。
これも勿論直感で感じた事なのだが、「その時の妻」「その時の夫」その時の相手という意味でもじゅぶんに通じるのではないだろうか。
旧約と新約とを繋げて考える場合には「血が混ざる」ということを避ける思想が続くような気がするため、その時の相手などという感覚は許されないだろう。
だが新約というものが元来の神という概念を覆すものだという前提をつけるならば、性的不品行についてイエスの言いたかったことは…感覚的に少し、違うのではないだろうかという気がしてくる。
ただただ、互いに配慮のある性行為をしろという風に言っているように聞こえるのだ、読み返せば読み返すほど、そう思える。
私にはそういうふうに聞こえるだけである。

 

宗教団体の組織関係に於いて、神秘を見いだした場合、その組織の重んじる物事を重んじなければならないだろう。
それは組織を保つためではなくて、自分自身の宗教的体験の為である。
自分自身の人生そのものを聖化したい欲求は私にも在るし、実のところ誰にだってあるだろう。
良い人間といった意味では無く、今までの事は全て意味が在ったと思いたい、そんな気持ちの事である。

 

社会的、組織性を重要視した状態での私は不品行者であるため、到底ミサに預かるということは出来ない、それは現状出来ないのだ。
何故ならそれは、その宗派の組織による関係性を本当に重視して人生を生きている方々を軽んじてしまう行為になりかねないからだ。
突き詰めれば組織の中に居ても、ミサの時にこそ宗教的体験をするという人であれ、人間は皆一人で生きている。
だから私が宗教体験をしに組織的な場所へ行くというもの特段、私が自分の内部に一切の蓋をするのならば、誰も傷つけたりはしない。
だが私個人の整合性がとれないのである。

 

あとはこの、選別された人とそうでない人という仕組みそのものに違和感を抱いてしまう。
それは思考の上でというよりも、もっと根源的な部分で傷つくような独特な違和感である。
他者への配慮という事を宗教思想に組み込んだという点では、とてもざっくりまとめてしまうがキリスト教というものは凄いと思うし、個人的にも救われた感覚がある。
だけれどその愛を行うという点で、クリスチャンというその言葉の中に、何か排他的なものを感じてしまうのだ、それが実に愛と真逆なので私は戸惑う。
それはただの言葉で、秘蹟によって自分が変容したという内的感動を含めて、自分の正体というものを提示しているということはわかる。

 

アーティスト、と言う言葉と似ている、自分でも絵を描くしその体験でしか得られない変容というものを随時体感している。
自分は何者か、と聞かれたら…それでもアーティストと言う言葉が私は嫌いで、なんかそれは、創作という体感の出来る人間とそうでない人間が居て、分けられている、という思想から発せられる言葉のように思えるのだ。
アーティストにしかわからない、というような事を言う絵描きはアーティストと名乗る人間にだけ見せる絵を描いていればいい、だがそれは本当に絵を描いているということにはならないと思うぞ…という風に私はどうにも反発してしまうのである、心の奥底、まさに絵を描く部分が反発するのである。
そういうわけでクリスチャンと言う言葉にも全く同様の反発心が芽生えてしまう、繰り返しになるが勿論それは「個人的体験としての変容」という主観的事実を彼等が述べているというだけなのだが…
私にはイエスキリストが、そんなことで人を選別したりしないように思えてならないのである。
そんな排他的な人でないように感じてしまう、イエスキリストという人は聖書を見る限り、激高したりもする、だが根源的にすごくおおらかで、呆気なく殺されてしまう。
そういう人が、このような組織を作るのだろうかと感じてしまうのである。

 

こんなことは主観的な物事で、聖体拝領のパンをホスチアにするかふっくらパンにするかの論争同様、そこに着眼してはいけない。
私が聖書によって内的体験をしたということそれ自体が主観的事実である。
祈りによって内的体験をしたということそれ自体が主観的真実である。
だからこそ、関係性の上での内的体験というものは可能なのだろうかと、少なからず興味は湧いているのだが、どうしても、何処へも行けないのだ。

 

関係性の上での内的体験というものが個人に由来する場合、私は社会的な言葉で言えば自分の愛人との間にそれを見いだしてしまう。
芸術という内的体験の一致と、男女という肉体に於ける一致。
いつまでも世々に…というわけでもないのだ、彼は女好きだし、私もどうしても憧れを捨てきれない人もいる、だからこそもっと互いに「ただこの瞬間を深めたい」のである。
先のことはわからないし、確定すべきではない。
だがもっと信じ合いたいといつも思う、この渇望は単に足りないという意味での渇望ではなくて、聖書を読んでいてもっともっと深く知りたいと望む、あの渇望なのだ。
もっともっと祈りたいとどうしても渇望してしまう、あの渇望なのだ。
彼との間が一番、個人的な面に於ける、人間関係上の宗教的体感が強い。
おそらく彼もそうだろうと思う。

 

彼と肌を合わせると大きな波の中に飲まれたようになる、その波というのは数多の修行僧の波である、仏教寺院に私は居て、これが彼の持つ世界なのだと感嘆するのだ。
彼の事は二つの軸で見ている、芸術や男女の瞬間的一致と、母性本能である。
パイプカットしようかという話が出たのだが、私は咄嗟に止めていた、私の母性がそうさせたのだ。
無論、血などつながっていない、ただそういう享楽にふけっているだけだともとれる…けれども彼が私を母親として求めるとき、私が彼を愛おしく抱きしめるとき、不可思議な体感のただ中に私は居る。
子供を持つってこのような感覚なのだなと私はその時にはじめて知る。
客観視すれば、それはただ「そのように感じているだけ」である。
客観視すればどのような宗教的体験も「そのように感じているだけ」である。

 

そしておよそ主観的な事柄の全ては、それをどれだけ信じられるかに、価値がかかっている。
「ほんとうは」そのような価値は誰にも測ることが出来ないし、誰もそのような部分で人を裁いてはならないし、「在る」と認識出来る存在もそんなことで人を選別したりはしない。
それなのにもっと信じさせて、もっと体感させてくれ、もっと…と私が請うのは、ほとんど全て、「自分が、自他共によい働きをしたい」という欲求に根ざしている。

 

私は周囲を喜ばせたいのです。

 

と言葉にすると何とも、偽善的で、周囲というのも目に見える範囲という感じがして、それこそアーティストという言葉の持ついやらしさみたいなものが滲み出ている。
私が祈るマリア…のような存在も、私からすると不可思議な重力なので、若く美しいマリア像を見てもなんとなくピンとこない。
綺麗な言葉だけではピンとこないのである。
サンタムエルテというのは骸骨で、呪いすらも受け付ける土着の「何か」だが…私はこの偶像が面白くて入手し、前から持っていたグアダルーペの聖母に並べてみた。
この2者は実によく似ている。
本当の存在というものを体現しているような気がするのだ。
たとえば婚外交渉は悪だというその原理の中に、その悪の中に、宗教的真実が含まれていたりする、ということを考えたりする。
神に祈ると善いことが起こる、というのも実は違うように思う。
通り魔が出た、わいせつ犯が出た、というのならば祈る文言は「神よ私をお助けください」ではなくて、何よりも先ず「事を行った人の魂に恵みがありますように、御助けがありますように」ということである。
もしかすると彼等はそこに何かの摂理を観ているのかも知れない…だが、きっともっと「み旨に叶う」何かがあるはずである。
そんなこともないのかもしれない、それほどに御摂理というものは計り知れない。
そう思う時に、私は過去に自分を襲ってきた人間に祈る。
その祈りにはどうしても呪いが入る。
感情的にどんなに、私はあなたを赦します、あなたに恵みがありますように、御助けがありますようにと言葉で述べても、どうしても私から影のようなものが発せられている。
これは、光が強ければ強いほどに濃くなる影なのである。
この原理から、生きている間の人間は抜け出すことは出来ないし、無理に抜け出さずともよいと思う。

 

つまりこの時点で、祈るということと呪いは同一化するのである、聖母マリアとサンタムエルテが同一化するのである、私の主観的宗教観に於いては、それでこその御母、なのである、美しさと醜さの同居こそが私の地母神なのである。
だから呪いをも赦す地母神こそが、イエスキリストを生じさせたマリアという存在とうまく合致するのである。
マリアに祈っているのではない、と人は言う。
だが神は人間の摂理など超えているのである、自分が暴行を受けたとき、あるいは自分の子供が何か酷い、惨い目に遭ったとき、それでも赦そう、先ず、敵にこそ恵みがありますようにと唱えるその祈りは確かに正真正銘の祈りである。
でも一方でどうしたって呪いなのである。
まだ、単に嘆いていた方が…人間という範囲内では…エネルギーの影響が小規模で済むと思う、品行方正であるように思う、分不相応ではないように思う。
だが祈らずにはいられないのである、出来っこない事をやらずにはおられないのである、信じないと気が済まないのである。

 

だから人は祈れば祈るほどに、我欲を消せば消すほどに、その実、究極的に貪欲になるのである。
何も禁を犯さないということは実に、精神的神秘に於いてすら、不可能なのである。
だからこの原理をとりなしてくれる存在が必要なのだ、少なくとも私には必要なのだ…。
それでも祈りたい、この欲求自体をとりなしてくれる原理が必要なのである、母神が必要なのである、私にはどうしても必要なのである。

 

私は周囲を喜ばせたいのです。
私は我欲を超えたいという究極的な我欲を持っています。
私は真に生きて真に死にたいのです、その為にはセックスすらも必要なのです。
誰かが悲しんで、その分組織の摂理が崩れても、それでも尚必要なのです。
喜ばせたいがために、私が私の働きをしたいがために、どうしてもそれを切望してしまうが故に、必要なのです。
だからもっと祈らせて下さい、この内的体感が私を救い、誰かを救うという確信があるのです。
よって私は、望んだ分だけ汚れて行きます。
祈った分だけ、貪欲になります。
祈った分だけ、滑稽になってゆきます。
祈った分だけ、内的確信を得た分だけ、阿呆になってゆきます。
どうか哀れんで下さい、この摂理から、人間はどうしたって自由にはなれません。
だからこそ死は、私の完成なのです。
そこで待っていて下さい、私の神様。

 

私の罪の概念というのは原罪ではなく、まさに祈ることによって生じる忘我の貪欲さに対する…罪悪感である。
だけどもこの罪悪感を消すのもまた、祈りなのである。
私はミサの動画を見る、ラジオを聞く、その時に確かに助けて貰っているように思う時がある。
これらの罪が贖われていると、信じている誰かにその実助けて貰っているように確信するときが多々ある。
ミサに行かないで済むから…などという理由ではなくて、どうしても組織的な内的体感の場に存在することが難しい人間もいるのだ、そのような人間の為に、ラジオや、動画や、数多の聖人が書いた書物があるのかもしれない。
それは間接的…最早私にとっては十分に直接的な愛なのだ。
聖書もまた、私には、愛なのである。