散文の自画像 

創作魂を持つ大熊という人間が、散文で日々の自画像を綴る文章ブログです。

ロザリオによる自分の供養


ロザリオの珠を手繰るとき
私は束の間時空を超える

 

その一粒に私は居て
彼方を照らしている
私の前方に光があるのは
祈りが発せられているから

 

祈りの輪が一巡するとき、私は時間の輪を思い浮かべる
時間の輪の外側に私は居て
人生を見ている
人生の全てを照らす光にその時に私は成るのだ

 

さあ祈りましょう
時間の輪に私はいざなわれ、この世に生まれてきたのだ
今までの経過を、さあ、昇華しましょう祈りの光で

 

数珠の一粒に宿る時間
母の胎に生を受けたその瞬間を手繰る、私は祈る、恵みがありますように
母の胎で暮らすひと月を一粒に、私は祈る、恵みがありますように
急に暗い影、母は堕胎でも考えたのだろうか?私は祈る、恵みがありますように、さらなる御助けがありますように

 

はじめの10の小珠に胎児の10ヶ月を
次の10の小珠に10歳までを
その次の10の小珠に20歳まで
そのまた次の10の小珠に30歳まで
間の大珠に5つの玄義を黙想し
最後の10の小珠に、まだ完了していない40歳までを当てはめて私は祈る、私は自分を供養する

 

するとこの数珠は私の時間になる
ああ、胎児のうちの10粒が暗い、手繰る手が躊躇するほどにひんやりとしている
よほど嫌な事でもあったのだろう、この世に来たくない気持ちで過ごしていたのだろう

 

死して時間の輪から抜け出でた時
人生が祈りの光に包まれていたのなら
何の悔いも無く次の世々に行ける

 

よって全く同時に
数多の死者の魂に祈る
死者の過ごした数多の時間に祈る
たった今煉獄に居る魂に祈る
このようなことは
この世では観測出来まい
だからといってこれが本当に何の働きにもならないのならどうして
人は死を畏れるのか?

 

まだ生きたことの無い年齢を祈るとき
私は言いようのない不可思議さを感じる
自分はもう存在していないかもしれない
だけどもこの祈りの光は
確かに世々に届いているのだ

 

輪が一巡するとき
生きる全ての時間が「完了」したと知らされる
その瞬間に
いま
この時間を
強く信じる気持ちが沸き起こり
確かに
愛と呼ばれるものの実在を私は確信する

 

その愛は
エスの人間的経験やマリアから
そして法華経からも来ている
ロザリオを手繰るとき
全ての糸が私の生命にとっての恵みであったと
珠の一つ一つに触れる毎に思う
その時
私は成仏する
その時
私は
次の世々から、この世を見ている
その時私は、愛と呼ばれるものの正体を知る

 

祈りましょう三千世界を
祈りの輪にいざなわれ
私は生まれてきたのだ

 

私は束の間時空を超える
ロザリオの珠を手繰るとき
その一粒に私は居て
祈りの光を見ている

 

その時私は
もしかするとこの世の影に
なっているのかもしれない
光を出しながら遍く世界の影に
なっているのかもしれない
だから祈っているその時

 

私は

 

死んでいるのかも知れない
この世に居ないのかも知れない