散文の自画像 

創作魂を持つ大熊という人間が、散文で日々の自画像を綴る文章ブログです。

遍く世々の御母

 

遍く世々の御母よ


私はあなたを聖母マリアとは呼び難い。
聖母マリアと呼ぶには、私はあまりにもあなたを知らなさすぎるし
とりたて、カトリックの教義そのものに愛着があるわけでもない。
それでも原始母的な存在に私は触れ、果たして、何処までが許されているのかを知りたくなったのだ。

 

私が幼少期に親しみ、毎日唱えた法華経にもあなたは宿っていて、でもこの法華経の法典を手に持っているのは大聖人様であって
大聖人様に歩み寄って、いざ、目に映る全ての物に漠然と恵みを祈っているなどと言おうものなら
喝!と怒鳴られるだけであろう。

 

この教団と私の内的関係はその実、頑固親父と娘のようなものであって、実際の父親よりも遙かに真実味を帯びた父の影がそこにはある。
私が法華経を唱えるその時に、大きな大聖人様の光が振り返って言う、「娘よ帰ってきたのか」、しかし私は首を振る。
だからこの教団との関係、法華経との関係は、実父よりも尚、血縁味を帯びている…人間味を帯びている。

 

人間味を帯びぬ究極的な源への憧れも私にはある。
源というのは何処にでもある、私の指の先にも、全てにある源のことだ。
源に教義云々についての諸々の、その儀式のやり方を尋ねてみても、当然の事ながら一笑に付されてしまう。
なぜなら源には、言葉が無いから。
言葉など無いから。

 

私がロザリオの祈りを行ったとあらば、日連系を信仰する実母は顔をしかめるだろうし、一方でキリスト教聖霊刷新派の実妹は「教義に於ける本当のお恵み」について注意を促すだろう。
カトリックは悪魔に支配されている、と妹は言うだろうが…何故だか妹とは縁の薄い気がしていて、住む場所が離れている事もあってか私は彼女の存在を往々にして忘却しており、よって彼女の言う宗教的真実は私にはあまり響かない。
また、法華経を唱えつつもロザリオの祈りをします、聖母のような存在を私は実感しました等と、カトリックの中でも親切な気質の人に言ったなら、「きちんとカテキズムを学んで」「時間をかけて教義を理解したら洗礼を受けて」「惑わされないように」と諭されるだろう。
数多のプロテスタントの人々には「一人でそのような虚しい祈りをしていないで一緒に唄おう」と急かされるだろう。

 

書物の上では、私たちは誰もがたった一人の人間に成れる。
祈りの中でも。
だから一人きりでいくつかの宗派の思想や生命の軸についての話を読む分には何一つ矛盾は生じない。
私は漠然と聖書の楽しさに共感し、イエスが「現実的には辱められ、死んでいった」というそのことに深く感動する。
完璧な聖人君主には共感しにくいが、イエスキリストには共感出来る、何故なら人生には無駄と思えることが沢山あるから。
蚊に刺されるとか、強面の人間に強引に勧誘されるとか、町内会の集金をするとか…自分の苦しみが軽んじられるとか、自分自身で自分の苦しみを軽んじてしまうとか、自分自身が信用出来ないとか、どうして骨が欠けて生まれてきたのだろうかとか、どうして毎日が苦しく思えるのだろうかという…自分の人生にとって「この無駄」さえなければもっと楽しく、また他人の為にも成れたのにという葛藤が常に起る、それが実際に生きるということである。

 

家で寛ぎながらお茶を飲み、聖書を読んでいるその時には確かに心は落ち着いて、静かに祈っている。
祭壇を前にして「とりあえずの神聖な場所」で個人的に好きな祈りを祈っている時には、舌はほぐれ、声も楽に出る、何も怖くない。
昔、大勢で法華経を唱えたときもそうだった、皆で「祈り」に向かって突き進んでいるただ中で人は、信じられないほど楽観的になる。
だから多くの人が集まって祈ることは善い事なのだ、自分自身のパワーのネジを緩めておく事は、その人をエネルギッシュにすることが出来る。
ただ、それは「守られた祈りの輪」に於いての話だ、ミサなり、題目なり、異言なり…それは「内的な集中」に於いての祈りである。

 

私も内的な集中は大好きであるので、祭壇と称して、小さな蝋燭の灯り以外何も置かずに祈っている。
これはこれで大事な祈りだと思っている、朝、まず祈ることにしている。

 

この事に関してはどのような宗教的階級の人に「何か一つの宗派に絞らなければ自身が崩壊する」などと言われても私は冷静で居る事が出来る。
確実に言うことが出来るのは、「それが許されているという確信が芽生えた」ということ。

 

さて、この内的な祈りの中では人は安全で居られるが…人が惑わされるのは一歩自宅を出てからである。
あるいは自宅に居ながらにして、同居人の目を気にしたりするときに、漠然と他者に対する反発心のようなものが芽生えるときに、人は祈りから外される。
新しい心揺るがす情報を意図せず目にしたときもそうである、嫌なニュースを見たとき、私自身の個人的な倫理観に反した映像を偶然見てしまったとき、あるいは急に叫び声が聞こえたり、サイレンの音が響いたり、地震が起きたとき…襲われたりしたときに…人は祈りの状態の輪の外側に簡単に出てしまう。
自分を揺るがす物事が起ったときに、反射的に、恐れから怒りに達したときに、人は祈りを忘却する。
私は祈りを忘却する。

 

ここで諍いが発生する。
ここで不信が発生する。
ここで絶望が発生する。
あくまで内的に分断が生じる。

 

思ってもみなかった出来事というのを私は幼少期に体験している、男に襲われたのだ、顔も瞬間的に全く全て忘れてしまったので年齢も一切わからない。
そのようなことが度々起った、度合いは様々だが、「外を歩いていたら急に太陽が無くなった」位のショックを受けた、計8回ほどである。
私は一生この出来事から抜け出せないと思うし、このように未だに恐れを抱いている事に対して実際にはかなり恥じている。
いい歳をして全く消化出来ていない事を恥じているので人前では一切言わないようにしている。
当時、私は普段から「内的に集中する祈り」を日常的にしていたので、自分の安全な状態に於いての祈りの実感は常々あった。
だがそれは家の中に於いての安全でしかないと思い知らされた、当然の事ながら私の祈りは魂の内側で中断された。
それ以降はだいぶ虚しい状態で過ごした。

 

突発的な事故、しかもそれがおよそ自分以外の誰一人にも伝わらないような状況に於いて人は祈れるだろうか?
例えば、ダム湖をボートで楽しく移動している最中に誤ってダム穴に転落してしまった…そのようなとき、祈れるだろうか?
コンクリートワームホールに投げ込まれながら、まだ意識があったのなら、完全に絶望すると私は思う。
エレベーターに閉じ込められたりするのも同様である、これらが全く「宇宙で自分しか関知しない苦しみである」事を究極的に知らされたとき、人は祈れるだろうか?
縋る祈りではない。
不幸に対する問いかけでもない。
ただ祈りの内に在るということが到達可能だろうか?
常に根源的な配慮を内的に行う事は可能だろうか?

 

食べ物が喉に詰まったり、イレウスで死にかけるとか、何だって良い、とにかくそのような究極的な危機に対して私が思ったのは「最早可笑しい」という事であった。
自分自身に対する嘲りであった。
脚が肉離れし、身体が動かなくなったとき、回復しない骨の欠けを発見し、仕事を辞めたときに思ったのは自分の苦しみの一切が小規模で、尚且つ、その小規模な苦しみにここまで振り回されること…その苦しみの一切に意味が無いということへの痛烈な感情だった。
即ち、祈りの外側に押し出され、嘲りの中に私は放り込まれたように感じた。
もう少しで入眠するというその時に股関節の痛みで目が覚める時、思わず「畜生」と呟きたくなる。
寝られさえすれば痛みは遠のくのに、寝るときにすら痛みが邪魔をする。
そしてこの痛みは、特段大きな人間的ドラマや同情を内外にもたらすものでもなく、単なる小規模な障害でしかなく、誰にも伝わらないようなものでしかないということに心が折れそうになる。
痛みは嘲りの感情を増幅させる、痛みは恐れの感情を増幅させる、痛みは無関心を増幅させる。

 

内的に集中して祈るという事象は私の中に常にある、が、全ての源という漠然とした「神」、何処にでも宿っている全てに対して私の痛みを口にしても、それがあまりにも無意味であることはわかりきっていた。
私の骨はともかく「何処にでも」あって、どうしようもないということだけが答えだからだ。

 

事象として私は常に未完であるし、未達成であるということが段々罪悪感に変化してゆく。
今日も出来なかった、描くという行動はしていても描けていない、今日も駄目だった、今日も駄目だった。
その状態だけが年齢と共に積もり積もっていって私を押しつぶすのは傍目にも明らかだろう。
この内的な鬱屈状態と全く同時期に、両親と魂の段階で和解したように感じたので、私の法華経以外の祈りがタブーであるという感覚そのものが薄れ、ロザリオの祈りをやりはじめた。

 

エスキリストの苦しみの神秘、実際の人生としては辱められただ死んだこと。
栄えの神秘はイエスの復活に思いを馳せるのだが…言うまでもなくこれは「一度死んで生まれた後の話」であり、死後の話である。
冷静にこれをやると、一つ一つの珠の中にイエスが宿り、その中には傍目に無駄としか思えない苦しみの物事がある。

 

その時に、言葉無き全ての源と、人間、または厳格な法華経の父である大聖人様との間に、大きな「天の重み」のようなものを感じ、私は頭で考えずに語りかけた。
カトリックのマリア様、とは言い難い。
聖母、とも言い難い。
全ての御母…しかしこのロザリオの珠のたった一つにすらも「世界」が宿っていて、そこに私が「行ける」事を考えると、その重みのことは聖母に近いものを示すだろうから、母…もとい「遍く世々の御母」と自分で思い浮かんだ名を呼ぶのがふさわしいような気がした。
遍く世々、ロザリオの珠の一粒、私の認識出来ない数多の世界、数多の世、世々、それらを余すこと無く見ている母のような存在を私は感じた。
これは内的な確信というもので、この確信についていくら言葉で説明してもそれは観測可能な事象ではなく、観測不可能な私の主観である。

 

私は思考せずただ、遍く世々の御母と思った、実母ではなく遙か彼方の根源的な原始母である。
「内的に集中する祈りの外側で、外的に常に祈ることは可能でしょうか」と私は訊ねた。
絶えず祈りなさいという言葉が内的に集中する祈りを指すのなら、世の人々は皆一日中没頭したり、確かに某宗派のように一日の内に法華経を五座三座したりせねばなるまい。
でもどんなにそこで集中していても、いざ「内的な祈りの輪の外側」に出たら人格が保たれないようでは、絶えず祈るという事は綺麗事でしかなく、世界に対して配慮をもたらすことも出来ない。
すぐに、遍く世々の御母から…可能である、という返答があった、言葉ではなかった。

 

「実際にはどの祈りの文言を使用したらいいのか、祈りの文言にはタブーはあるのか、宇宙の摂理として、他の教義を重複させてはいけないのか」と私は続けて訊ねた。
安心しなさい、という返答があった、これも同様に言葉では無かった。
そして唐突に、目の前の事象について常に、反射的に快不快を覚えるその前に、適切な文言なり象徴なりを思い浮かべて祈ろうという祈りが浮かんだ。
心を広くする祈りです、修行ですというような感覚が湧き起こった。

 

「外的な祈り、注意の祈り、修行の祈り」…絶え間ない糸の祈りが思い浮かんだ。

 

はじめのうち、何を馬鹿なと自分でも思っていたが、私は先に述べた理由から外に出るのが非情に恐ろしい時が多々ある。
神様お助け下さい、私をお守り下さい、南無妙法蓮華経…何でも良い、これは悪くないが、縋る祈りである為、他者への配慮が無い。
自分から他者を認識したらとりあえず心の中で「挨拶をするのではなく」祈るということを私は実行した。
他者というのは遍く全てである。
怖い気配のある人も含めて、である。
もし防犯の祈りというものがあるのなら、私はこの「恵みがありますように」「さらなる御助けがありますように」という自発的な外的な祈りをあげたい。
怖い気配の人とすれ違うとき、または何となく後をつけられている気がしたとき、いたずらに自分自身を欺くような事はしてはならない。
見て見ぬ振りをしたり、人を疑うことを自分で責めたり、感情的にその恐ろしいと感じた人に(言葉には出さずとも)親切に、人間的な和を保とうとすることには意味が無い。
私は自分に、良い人間になる事を人生の目標にしなくてもよいと言い聞かせている。

 

そして一番は、どのようなときでも…嘲りでは無く、信じるということに身を置いていたい。
自分自身を大切にしながら他者の「魂を」配慮すること。
それがこの「目に入る事象や他者に反射的な判断を下すよりも先に恵みを祈ること」であると私は感じている。
これが今のところ私の内面的防犯であり、内面的な善行でもある…というのも以前よりもずっと外に出やすくなったからである。

 

何処へ行っても、心が波立つその前に祈りを口ずさめば、事象と反射との間にもう一つの世界が生じる。
だから何処へ行っても、遍く世々の御母が見ていて下さる、私はこの実感が湧くときに天から糸が垂れ下がるイメージが生じる。
この糸はアリアドネの糸なのだ。
迷いから私を救ってくれる糸なのだ。
繋がっているから大丈夫だと、確信出来る糸なのだ。

 

これを人に話したら、私は夢想の人になる。
反射的に判断を下す前に一つのフレーズや象徴を思い浮かべるというのは祈りというよりも思考方法であると諭されるかもしれないし、原始母的な存在に対しても、これを事象として説明したらやはり、おかしな事になるだろう。
心がこのようにモヤモヤしたら、私はロザリオを祈る、あるいはただただ糸が絡まりましたといって「天の重み」に上げてしまうことにしている。
何故ならこの主観的真実を証明することなど現世に於いては不可能だからだ。
私は誰とも論争する気も無いし、聖母マリアもいる(在る)と思っている。

 

天の重みに私は祈り、糸に触れる。
これは絶え間ない糸の祈り、もし不安な人がいたらこの糸に触れるといい、その不安は人間には癒やせない。
薬物でも癒やせない。
どんなに愛している人にも癒やせない、誰にも癒やせない、どのような地位の在る人にも、どのような防御策を講じても、他者への恐れや不安は癒やせない。
人生の無意味さも癒やせない。
でも人生そのものの無意味さを味わったのは確かに、キリストその人である。
事象を超えた物事を体感するその時に、世界は一つの珠に宿り、遍く世界は祈りの糸によって互いに繋がる。

 

マリア様、と私はあの摂理を呼ぶことが出来ない。
教義上呼ぶこともあるかもしれないし、ないかもしれない。
なぜこんなにも、地上の教会、地上の信仰は堅苦しいのだろうか。
洗礼を受けているか、どの宗派に属しているか、どの祈りを唱えるかで何故、あの重力に触れているか否かを量られなければいけないのだろうか。

 

遍く世々の御母よ、哀れみたまえ
全ての源には言葉は無いが、あなたには、その手前の物事を「果たしてこのようなことを願ってよいのか」という風に、訊ねることが出来ます。
訊ねて返答があれば、それはもう許されている。
返答が無くとも、あの重力は糸のもつれをきっちりと認識して、持って行って下さる。
既に祈りは、聞き入れられている。

 

全ての祈りが聞き入れられているのを、私は感じている。
私は内外の断絶を超えたい。
私は、遍く世々の御母に絶え間ない祈りを捧げたい。
何故なら願いが「聞き入れられている」からだ、叶っているのでは無くて聞いて貰っているのだ。
絶えず御母に観測されているということを私は、恐ろしい思いをしたあの時の私に、今、祈るのである。
それを御母は聞き入れ、祈りは内外の輪となり、時空を超えて数多の世界を結ぶのである。

 

 

 

 

 ※この祈りについてこうして書いて公開するということについて「是」と私は考えています。

私は特段日蓮系やカトリックを批判しているわけではなく、むしろどちらも素晴らしいと思っている人間です。

聖霊刷新については「人間の普段使っていない脳の部分」などが感化されるのかなという気がしています。

追記:聖霊刷新というとカトリックの一部でも行われているようですが、私のイメージでは、聖霊や異言といえばペンテコステ派(妹はこの宗派です)、と解釈していました。