a.o独白ブログ

詩や創作文章を公開しています、時に汚濁あり時に18禁あり、綺麗な場所ではございません、あしからず。

常識

 

常識って何だろうか?

 

両親は働いていない、まだ定年には満たない年齢だがだいぶ長い間働かずに株投資で生きている、それは常識的だろうか?
私を抱いたことの無いM氏が私の夫であるということ、これも常識的だろうか?
私と付き合っている変人さん(愛人…と言う言葉はやっぱり使うのが難しい、不倫、愛人、等はそう遠くない未来に死語になるだろう)は妙に性欲が強く、今までの女も多いがこれも常識的だろうか?
巨大な立体芸術像を制作する精神状態は果たして人間として常識的だろうか?
没頭して絵ばかり描いているというのは常識的だろうか?
毎日株ばっかやっているのは常識的だろうか?

 

その人がその人自身の欲求に従って生きる事を、互いに許し合える所に居心地の良さが生じ、利益も生じるように思う。
何故なら、今両親は富んでいるから、常識というものから抜け出た彼等は富んでいるから。
もし仮に両親がこのブログに辿り着いたら、勿論私を批難するだろうが…それでも、結果的にその批難は私の振るまいだけではなく、M氏の性的不能(のような状態)だとか、変人さんの強い性欲や抑圧した創作欲へと結びつく。
つまり、彼等の欲求や在り方を許さない限り、「常識的におかしい!」と、他人を枠に当てはめて苦しむ事になるのである。
だから一概にM氏が可哀相でもなければ、変人さんが悪いわけでもないのだ。

 

私は変人さんの元奥方が、変人さんを「性的に異常だ、病気だ」と言って彼を病院に通わせようとしたのを聞き、なんだか苦しくなった。
彼女からしたら変人さんは「常識的でなく」、また「常識的でなくてはならない」存在なので、枠組みから外れた彼を病気扱いしたのだなと思う、で、この摂理は結構近年蔓延しているように思う。
自分を軸にした常識を相手に振りかざす人間を私は嫌いである。
とはいえ、彼女は彼女で…きっと「常識」を押しつけられて過ごした人間なのだろうと思ったりもする、自らが常識に狂わされたのかなと思ったりもする。

 

さて、学校になじめなかったら病気だろうか?
出勤が出来なかったら病気だろうか?
常識的な振る舞いが出来なかったら人間ではないのだろうか?

 

その人の在り方を認めるからこそ、いい関係が築けるのだと思う、その人の振るまいが嫌だったらそれは素直に伝えるといい、浮気しないで、私だけを見て!とか。
でも浮気をしたら駄目!とか、私を見ていなきゃ駄目!というのは関係性としてどうだろうか。
勉強しなきゃ駄目!平均点以下になったら駄目!とか…ゲームは頭が悪くなるから駄目!とか、普通の人はもっと頑張ってるんだからあなたも頑張ってよ!とか。
そういうのって、それを言う側の押しつけだと思う、この押しつけをした時点で関係性は悪くなる。

 

私は両親と話していて強く思った…20年前から「自分たちの生きたいように生きる」生活をしていれば、誰も互いを蔑ろにするような事は起こらなかったのではないか?
両親だってもっと早めに会社を辞めて、楽しいという気持ちで株をやりながら生活してそのノウハウを私個人に教えていてくれれば、こんなに大変な気持ちで過ごさずに済んだのではないだろうか?



この20年て、はっきり言って、無駄だったんじゃない?
私も両親も、すごく無駄な努力をしていたんじゃない?
常識的になろうなろうと、自分をいつも「何かに満たない」存在として、自分自身を辱めて、常識に満たないと感じた他人をも、見下していたんじゃない?

 

M氏との関係性も、はじめの一年は私がこの思考にはまってしまい、私は言ったのだ、最も人を貶めることを言ったのだ、「勃起しないのなんておかしい!病院に行こうよ!」ってね。
うん、つまり変人さんの元奥方と私は似ている部分もある…私はね、外に恋人(っていうのもなんだか言葉に違和感があるけれど便宜上使わせて貰う)を作るのなんて、そんなに悪いこととは思わない。
けれど、人を「常識以下だから病人」だと、つまり人間以下、男以下だと貶すことほど悪いことはそうそうないと思う。
だからM氏の事は、世間的な不貞よりもずっと、病院に行けなどと言った時点で傷つけている。

 

常識っていうのは魔物なのだ、時に最も人を傷つけてしまう、人間を人間ではないと言い切ってしまう太い牙の魔物。
常識という意識の強い国や民族って何だか差別感情も強そうな気がしてしまう、おそらく人を「おかしいかまともか」で区切るので、何かが起きれば非情になってしまえるのだろう。
そう思うと常識という意識は大量の病人を生み、戦争が起きた場合には大量の殺人者を生じさせるだろう。

 

ずっとゲームしているのって異常だろうか?働いていれば許される?楽しみはいちいち他者に「許して」もらう事なのか?何かすれば「その分の楽しい事」をしてもいいのだろうか?
常識に到達するまでは楽しい事には触れられないのだろうか?
絵も描いてはならないし、株なんぞはギャンブルなのでやってはならない、「常識的な事」や常識的になるための努力をした場合にだけ「楽しい事が許される」のだろうか?

 

そうだよ、このために20年もかかってしまったのだ、きっと両親も私も。
常識への努力…これに20年もかかってしまい、さらには互いが「常識に満たないから」という理由で憎み合うほどになっていたのだ。
絵を描くときの意識は常識とは違う。
男女の性愛も、庭の施工も、株も。
生きる事の活力は、個々の軸にしか宿らないのだ。

 

日本で言う常識という軸にはきっと、第一次産業の視点から見た「役に立つ働きをしろ」という教訓が込められている。
身体を「楽しく」させてはならない、必死に「動かさねばならない」、農業や漁業での「皆に合わせなければならない」という意識…それが出来ない奴は人間以下だという暗部も見え隠れするが、根本的にはとても神聖な意識なのだと思う。
日本人が古来から営んできた約束事が込められている、この約束事を守ることが常識なのだという強い呪文が皆に刻み込まれているのだ。

 

でも、常識というものに対し、笑って手を振って良いと私は思うのだ、その意識とさようならして良いと思うのだ、それが仕事への誠意を踏みにじる事ではないと私は思うからだ。
第一次産業尊い
しかし、全く同様に「楽しい事を追求する」事もまた、尊いのだと私は思う。
甲乙はつけられないのだ、株なんてのは視野を広める異様な楽しさがある点ではもう、思考的遠征のようなもので、独特にアドレナリンが出まくるから、気質的に余計日本では疎まれるのかも知れない。

(株について語る女ってホント、稼いでいようがいまいが株人口の少ない地域だとモテないと思う、脳みそが若干狩猟系及び探索系にシフトする感覚があるので農耕系の男に疎まれるのだ…ただ、変人さんはどんな女でも抱けるので気にせず書くが。

ちなみに、株を好んで分析しているのは父だが、株で大きな利益を出したのは父ではなく母である。)

 

農業も尊いが、狩りもまた尊いのである、未知の場所への探検も尊く、ゲームも尊いのだ。
絵も素潜りのようなしんどさと不思議さに満ちている、創作も尊いのだ、遊びも尊いのだ。

 

私は変人さんに支えてもらっている。
私の心の中で叫び声があがるのだ、「こんなことは描いてはならない」「こんなことは書いてはならない」「こんなことは常識に反する!!」と、しょっちゅう叫び声があがるのだ。

 

それを変人さんが言ってくれたのだ、「どんなに常識に反した事を表現しても僕は貴女を全肯定します」と、出会うよりも以前に。
私は一生忘れないだろう。

 

これからは、失った20年間を取り戻したい、自分や他者の常識外と呼ばれるものを、許してゆきたいと思う。