a.o独白ブログ

詩や創作文章を公開しています、時に汚濁あり時に18禁あり、綺麗な場所ではございません、あしからず。

【創作】船


計算が合わない、何度測っても計算が合わない、でも現に組み立ては進んでいる、船を組み立てる物理的スペース、物理的材料は揃っていてどうやればよいかの手順も私は知っている。
しかし計算が合わない、計算上ではこの船は組み立てられない、しかし現に私は船を組み立てている。
計算上の不可能と現実の可能との間に横たわるもの、それこそが未知の数字というやつだ、と私は声に出して呟く。
0から9までの数字の外側に本当の数字がある、それを数字というのならの話だ、だから計算上は…いつも「真実」が不足している、だから数学理論ははじめから破綻している、よって唯物論はデタラメである。

 

唯物論がいかにデタラメかを決定付ける証拠…それは、個人の「視点」が抜け落ちているからだ、数式には「視点」が抜け落ちている、視点そのものを計算式に入れない限りどのような物体も機械も完成する事はない、つまり世の中は未完成品で埋め尽くされているのだ、だから朽ちてゆくのだ。
個人の視点、これを数値変換出来れば計算上で全てが統合される、しかしそんな事は出来ない。
さらに言うと「個人の視点」が何故発生したのかという謎に突き当たる、この謎という概念は探求心によって創り出されたものだ、個人の視点によって創り出されたものだ。
つまり、どんなに優秀な機械でも、個人の視点や謎の概念、探求心を知らない限りは命は宿っておらず、それはただの物である。
ただし、機械自身が謎と直面して、時に計算上の難題を放棄するほどの落胆を味わったのなら…死のうとしたのなら、その時に機械にも命が宿るのだ。

 

はて…私の言葉はどこまで聞こえているのだろうか?
船を組み立てているのだが周囲の様子は一向に見えない、私は身体の器官が絶えてしまわぬよう口を動かし、思考を言葉に直訳し、話し続けている。
…ひょっとして、私ははじめのうち、誰かに信号を送っていたのではなかったか?
あるいは、誰かに歌いかけていたのではなかったか?
誰かいたような気がするのだ、誰だ?

 

私は目が覚めてから船の組み立てを行っている、私は眠って、そして目が覚めたらまたその日の私は船の組み立てを行う、眠って断絶され、次に目の覚めた私、私だと思われる私は不確定ながらも、船の組み立てを行っている。
私は、今の私は果たして昨日の私と同一なのだろうか?
別の魂が入り込んでこの身体を動かしていると仮定しても、何の不思議も無いのだ、魂は魂に根付いた視点でこの身体の記憶を見て、そしてこの身体に合わせて動く。
なんだか背筋が寒い、けれど…目が覚めたら別の人格に宿っていて、その人のように振る舞う事が出来れば…どんなに楽しかろう、自分だと思っている身体から逃れられればどんなに楽しかろう。

 

目が覚めてから、もう嫌だと辟易する事も多々ある、船の作り手は他にだっているはずだと嘆きたくなる時もある、だが私は起き上がって船造りに携わるのだ。
にもかかわらず私が昨日の私自身であるという保証は何処にも無い、少なくとも数式上は昨日の私が今日の私である保証は無い、つまり今の現実は、昨日の私の身体の記憶を引き継いだ別の魂が見ている夢なのかもしれぬ。
魂というものが乾電池のように、その一つ一つが非常に曖昧なエネルギー体で、それは眠っている間に浮遊し、時空間をも飛び越えて自在に存在すると仮定しよう。
身体は魂にとって巨大な機械仕掛けの乗り物で、寝ている身体というものは其処此処に放置された機械の抜け殻である。

 

機械の抜け殻は自らがどれだけの間放置されているのかすら正確には把握出来ない。
何故か、一日のうち数時間は眠りによって身体は視点を失う仕組みになっているのだ。
寝ていると仮定している時間は…視点という未知なる数字が抜け落ちている状態の為…実は10年かもしれないし、50年、100年、1000年、あるいは、一分にも満たない間なのかもしれない。
その抜け殻に、浮遊する魂は自由に入り込む、機械の抜け殻にその時入り込んだその時の魂は、機械の記憶倉庫を見てその機械の仕様やはたらきを、時間にしてほんの一瞬で学ぶ。
そして「その日の」身体は「その日の」魂によって運行される、そう、毎日毎日乾電池は入れ替わって肉体という機械を動かしているのだ。
魂の視点ではそのことに気がついている、でも肉体という機械の抜け殻ではそのことに気付けない。

 

自分自身が何十年も、魂ごと含めて自分自身で生きてきたと「身体的に」思い込むのは自由だ。
肉体的な死というものが魂を自由にするなら、さしずめこの世は椅子取りゲームのように無数の魂が面白そうな身体を取り合っているのかもしれぬ。
そしてそれを証明する手立ては無い、何故なら数式自体が未完成だからだ、肉体同様、魂もまた未完成だからだ…だから本来の目的を見失うように出来ているのだ、辿り着けないようにこの世は出来ているのだ。

 

…見覚えの無い部品がある、手で触ったが身体の感覚器官もそれを思い出せないらしい、参った。
この身体の状態を考えるにあと10年20年でほとんど全てを忘れてしまうだろう、それは身体からの救難信号で、どのような手助けをもってしても忘却に飲まれるという絶望的信号だった。
それまでにこの船は完成するだろうか?
船の足場に杭を打ち付ける、杭、どうしてだか誰かの顔が思い浮かぶ、杭を打ち付ける老人、老人、それもとびきりの老人、生きているかいないのか曖昧なほどに歳をとった老人の顔、見たことのない顔。
誰だ?
杭というのは意志である、杭を打つというのは自分はこれから探求するぞという意志決定である、私にはその老人の気持ちがよくわかる…それを誰かに言いたいのだが、果たして誰だろうか?
それともこれは、誰かから伝え聞いた話の、その中の登場人物だったろうか?
実在しない誰かに私は語りかけているのだろうか、いや、私の視点で実在するのならそれでよいのだ、なんにせよここには私しかいない、世界には私しかいないのだから。

 

自らの探求心ごと忘却するということの怖さを、お前は知らない、と私は繰り返す。
お前とは誰だ?と自らに問うが、答えはまだ無い。
あと1、あと2、呼吸を整えて次の部品を手に取る、果たして記憶の整合性がとれなくなったら、私は「私」で居られるのだろうか?
それを私と呼んでいいのだろうか?
私未満の私は、船で帰還するという目的にして究極の探求を忘れ果て、自らに薬剤を打って眠る事も忘れ、毎日毎日杭だけを打ち続けるのではないだろうか?
その老人のように、何処の誰とも知れぬ誰かのように、杭だけを打って身体の記憶と感情の頂点のみを感じ、その他のことについて全て盲目になって、それでも野放しに生き続けるのだろうか?

 

それは機械の抜け殻だけが空回りしているだけである。
機械に意志や探求心は無い、どんなに疑似的に作ってもそれは真の「視点」にはなり得ない。
だが機械にも目的というものが在る、その目的すら…自分が何の機械だったのかも認識不能になり、その実魂すらも入り込まないまま、不在のまま、機械の抜け殻だけが動き続けて杭を打ち続ける。
それならば死にたい。
そうなることがわかっているのならば、早くに手を打ちたい、しかし今はまだ、船を作らねばならない、船を作るということ、帰還に間に合わせるということが私の賭けでもあるのだ、さあ、定規定規。

 

…駄目だ、何度やっても計算が合わない、そりゃそうだ、数字には視点が含まれていないのだから。
この目盛りに刻まれた0から9までの数字には視点が含まれていない、実際には可能なことも不可能に「見せて」しまうのが、数学理論というものの重大な欠陥である。
計算というものは合わないものである、何度測っても計算が合うはずがないのだ、そして現に組み立ては進んでいる。
計算上の不可能と現実の可能との間に横たわるもの、絶望と希望との間に横たわるもの、船と目的地との間に横たわるもの…それこそが未知の数字というやつだ、それこそが真の視点というやつだと私は声に出して呟き、次の作業に取りかかった。