a.o独白ブログ

詩や創作文章を公開しています、時に汚濁あり時に18禁あり、綺麗な場所ではございません、あしからず。

内緒の話

 

これは内緒の話なのだけれど、この職場はね、駅のすぐ向こう側、通りを二三本跨げばあの人が居るから選んだのよ。
私が埋め立ての海水臭い街からこっちに越してきたとき、どこに勤めに出ようか、どの街に行こうか迷ったの。
家からバス停までの距離、バス停から、それぞれの街への距離や風景、街の匂い、あの人の匂い。
あの人の居る街に行こうと思ったの、朝の光の中、あの人の居る街に行く、それってとっても素敵なことだと思ったの、これは内緒の話ね。

 

仕事って何なのかしらね、菌糸を伸ばして周囲を探って、自分の…自分と相手の…相手のその相手の…そうやって無限に広がってゆく誰かと一緒に、毎日を食べ進める事のような気がするわ。
そこにいつも誰かが居るのよ、私は気付かなかったの、一緒に苗床を作る事がこんなにも自分を元気づけるものだったなんて、今まで知らなかったの。
どんな原始的な命ですら、日々の仕事と糧があるのね、それを仕事と名付けたのは人間だけれど、これは永遠に続く命の連鎖なのよ。

 

ホテルの窓から、海が見えたの、青い青い海は真昼には冬の空と完全に同化するのよ、私の仕事はその部屋を綺麗にすること。
人間の私は、駅が完成する頃には建物を覆う青いシートが剥がされ、それが海ではないと知る、そしてゴミを部屋から出し、洗浄する。
同様に、私がシャーレに入ったたった一株の菌類だったとしても、それでも私はきっと自分の仕事をしたでしょうね。
目の前の有機物を食べ尽くし、何処までも菌糸を伸ばして場を造り替えたでしょうね。
それが仕事というもので、そこには実は何の差も無いのよ。

 

そして恋をして、秘めながら見つめ続け、目には見えない合図を私は出し続ける。
呼応の有無はその実、自分では関知出来ないものなのよ、自分から広がった感覚器が果たして何処まで広がっているのかを本当に自覚出来る個体なんて無いから。
相互的に意識的に前へ進むことを、仕事と名付けたのね、仕事をしながら私は窓の外に目をやり、思うのよ。
あの人がいる街はどうしてこんなに暖かいのだろうって。

 

わかったことは、入り口に生えたモリムラマンネングサは永遠に枯れないって事。
それなのにここではない何処かのバスルームでは誰かが縊死していたの、植物は枯れないのに、人は枯れてしまうのね。
あの老婆がどんな半生を過ごしたのかはついに誰も知らない。
コンドームのゴミは皆が皆、親の目を盗んでセックスしている中学生みたいにベッドの下に捨てていくのね。
幼いわ、いい歳した男にそんなことされたら百年の恋も冷めちゃう、と私は言いながら女ボスと笑い合い、有機物を部屋から掃き出してゆく。
掃除機や洗剤で部屋を造り替える、それがどうしてこんなにも私を元気づけるのか、私には今までわからなかったのよ。

 

私は菌糸を伸ばしてただ周囲を探り、場を造り替え、他の菌株と協力して何かを推し進めている。
私は窓からあの人を見つめている、私は身体に痛みを感じている、早く手術をして欲しいと願っている、それでも。
個体や命や主観というものには、自分と他者との間には、私と植物の間にも、私と女ボスとの間にも、私と黙秘主義の老婆の間にも、私とシャーレの中に宿る一株の菌の間にも、何一つ差は無いのね。
何も差は無いのね。

 

多分、あの人はこういう事をはじめから知っていたのよ。
はじめから知っていたのよ、どんな命も、ただ1日を生きて、進んで、無自覚なラブソングを歌って、枯れて行くって事を。
あの人はただそれを知ってて、そして覚悟しているのね、だから強いのね、だからこんなにも惹かれるのね。

 

これは内緒の話、私は毎日、あの人の居る街へ行くのが楽しかった。
女ボスたちと話すのが楽しかった、手を動かして部屋を造り替えるのが楽しかった。
完成した新しい駅、新しいリネン、新しい人、ほらね、もう次の一日が来たのよ。
私、本当に仕事が楽しかったのよ、これは内緒の話、泣きそうだなんてのは内緒の話。