a.o独白ブログ

詩や創作文章を公開しています、時に汚濁あり時に18禁あり、綺麗な場所ではございません、あしからず。

M氏、いつもありがとう(夫婦らしき二人)


いつもありがとう、そう私はM氏に言う、毎日言う。
いつもありがとう、M氏はその言葉に対して頷く、毎日頷く。
おそらく私としか…形の上でだが…付き合ったことの無いM氏は、女という生き物が毎日数回は礼を言う生き物であると思っている。

 

数え切れないほどの別れ話をM氏とした、私は随分昔に駆け落ちまでしてM氏の元を飛び出した事もある、しかしM氏はそれでも首を縦には振らかった。
もう別れ話をする気力が無いというのが互いの正直な所だろう、私も頑なだがM氏ほどではない。

 

たった一度の別れ話で、別れてしまうのだな…と思った、私の愛人(もちろん向こうから見れば私はただの妾のうちの一人である)が離婚すると聞いて、私は驚いた。
元は本当に恋人同士の夫婦だったのだろう、本当の夫婦だったのだ、だから不貞が許せなかったのだ。

 

夜、眠ろうとして身体が温まると人恋しくなる、私は夢の中で誰かを求め、夢想のただ中で憧れのあの人を掻き抱く。
せめて誰かとキスをしたいと唇は幾晩も言うが、実際には365日のうち12回ほどの愛人との逢瀬でその全てを満たそうと躍起になっている。
眠る頃に私は大人になる、そして何もかもが窮屈でならないと叫んでその一日を死んで終わらせてゆく。

 

朝、私は暗闇の中で目を光らせ、絵のことを考えている。
一緒に暮らす人は干渉してこない人間が良いと私は頷き、家の埃を取り払い、朝の庭へ踊り出でては全てに満足している。
朝の私は生まれたてで何もかもが手の届かない夢のように見えている。

 

M氏が出かけている昼間は一人の時間だ、一人の時間で私は満たされている、週5日も。
誰にも殴られず、誰にも制作を貶されず、誰にも仕事を見下されず、軽んじられず、ただひたすら自分自身を生きられるのだから素晴らしいじゃないかと私は言う。
昼の私は珍しく楽天家で、自分自身の表面しか見えていない無邪気な子供である、ご飯さえ食べられればそれで良いと思っている根本的な部分が顔を出す。

 

夕方、身体が一気に音を上げ、全身が急激に怠くなる、もう一歩も動けないと私は言う、死ぬときは夕方だろうと私は直感している。
最早全ての時間枠をすっ飛ばして老婆となった私はソファに横たわる、しかし情けない事に腰骨がズレて起き上がれなくなる。
なんとかして起き上がってみても、大抵左足の付け根が体内に食い込んで力をかけられない状態になっている、そういう訳で夕方はいつも片足を引きずり、手を前方に出して空気を犬掻きするように移動している、私の人生は何だったというのかと問うこの哀れな老婆は、風呂に入ると一段落し、ともすると幼児に戻っている。

 

夜が訪れた頃、何故だか全ての寂しさが私を襲う、子供から大人になろうとする前段で私は躓いたまま、誰かと話がしたくてただそれだけのためにM氏を待っている。
M氏が帰宅すると私はフクロウの鳴き真似をする、M氏も保護者然としてフクロウの鳴き真似を返してよこす、二人はご機嫌だ。
これでいいのだと私は自分に言い聞かせる、しかし小一時間もすると何もかもがおかしいと感じ出し、中年の私は秘かに別の部屋で涙する、M氏の観ているテレビの音だけが響く。
しかし涙はM氏には見せない、男の保護者というものは娘の涙にだけは敏感である、これは大人になれなかった涙なのだと言ってもただ狼狽するだけである。
決して娘の手を離そうとしないM氏と、どうしても…殴らない優しい保護者を求めてしまう私は、手を取り合ったまま独特の苦痛を感じている。

 

布団に入る頃、生きている間に私は大人にならなかったのだと毎日毎日思い至る、誰かと抱き合いながら眠りたいと私は呟く、誰かとは、憧れのあの人のことである。
しかしあの人には抱きしめる相手がちゃんと居るのだった、子供も居るのだった、あの人は大人に成ったのだった。
ふと、母方の祖母のことを思い出す、骨の悪さはこの祖母譲りで私は彼女が立って歩いているのを実のところ、見たことがなかった。
今思うと、祖母は沢山の子供を産んだが、その代わりに脱臼したのだろう、畳と同化するようにぺしゃんこになって座って居た姿が蘇る…結局の所、ああなる覚悟は私には無かったのだ、自分の子供らがそうなる覚悟も私には無かったのだ、全て臆病な優しさが原因なのだ。

 

寝室にただ一つ灯った灯りをぼうっと見つめながらMから自立する事を秘かに考える、しかし立ち仕事も足の痛みによって出来ない私が、一体どうやって日々の糧を稼ぐのだろうかと自問自答する。
8時間の立ち仕事よりも、肉体労働とはいえ動きながらの短時間労働のほうがよほど楽だということを、足の悪い連中ならば理解するだろうと一人頷く。
自分の出来る仕事の余りの少なさに愕然としながら、私同様身体の出来の甘い、身体障害者未満の脆弱な奴らが自らの成熟した部分をひた隠しにし、大抵だらだらと親元にいつまでも居る現状を思い浮かべ、同族嫌悪めいた感情を覚える。
優生論を説く人間ほど身体が弱いという理屈を組み立て、自分だけの議論の末果てしなく悲しくなる。

 

ふと、金が欲しくてたまらなくなる、金を目一杯稼いでみたいという欲望で頭が一杯になる、自分がM氏の稼ぎと同等に稼ぐ方法があるとしたら一体何だろう?…しかしどんなに冷静に考えてもM氏の年収を私が叩き出すには、最早詐欺師になるくらいしかないだろうと気付き一気に落胆する。
詐欺師になって男共を騙しながら立ち回っている自分を想像し、一瞬だけ一人ほくそ笑む、そして現実の自分のあまりの無力感から枕を湿らす。

 

年間数えるほどのセックスしてきた日は独特で、身体を洗ったら妙な幸福感のまま布団に潜り込む、M氏には馬鹿げたフクロウの鳴き真似などしない。
親にはセックスの事は内緒だ…しかし夜中に肋骨の痛みで目が覚める、おかしいおかしいこんなのはおかしい。
こんな事は20年前だってしてたはずだ、制服を着た頃から両親に内緒でセックスして帰宅して、彼氏とメールして、そして布団に潜り込む、こんな時期はとうの昔に通過したはずだと自分を罵る。
射精は携帯の動画だけで済ませ、女では勃起しないM氏を横目に、私は寝たふりをする。
こんなのは狂ってる、いつまでも息子、娘時代だなんて狂ってる、私は狂ってる、M氏、あんただってもう十分狂ってるんだ、私たちは狂ってる!

 

M氏と、創作や芸術面で邂逅があれば私たちは名実共に「修道士と修道女」だったろう、片方が隣でオナニーしてたって修道女だったろう、共同生活者として互いを認識し、肉体の営みはその外側に在ると思えただろう。
目が合ってさえ居れば性別や年代は無視出来るものだ、しかし現実の私たちはそもそも、目が合うという事さえなかった。
M氏は日がな一日私とは別のことをやって過ごしていた、私はふと思うのだった、もしかすると別の場所に…M氏と同じように一日中ゲームをして過ごしている女性が居るのかも知れない、その人がM氏と知り合うのを妨げているのは…私自身かも知れない。
M氏が運命の人と出会う喜びを妨げているのは、その実、いつまでも保護者を求める幼い子供の私かもしれない。
つまり私が謝るべき一番の事は、有り体な形式上の不貞などではなく、愛人の奥方に対してではなく、潜在的にM氏と呼応可能な見知らぬ第三者へ向けて「あなたの幸福を欠けさせたままにしているのは私です」と頭を下げることなのではなかろうか。

 

ごめんなさいごめんなさい、家まで建てたのに、これは玩具の家だった、ごめんなさい、あなたが住むべき家だった、私がいつまでも子供で居たいと望んだが為に苦しみを撒いている…と私は見知らぬ誰かへとひたすらに謝罪し、手を合わせて涙する、一方で当惑している、では私は一体何処へ行けばいいのだろうか?私を呼んでいる場所など在るのだろうか?私を呼んでいる人など果たして居るのだろうか?私の居場所はどこだろうか?

 

…音もなく、開いた窓から優しい風が部屋に舞い込んでくる。
鈴虫の鳴き声、本物のフクロウの声、そして草木の香りが部屋の内部まで染みこんでくる。
本当に大切なものに対して真摯で居させて下さいと私は祈る。

 

他の何もかもが欠けている中で、目的だけははっきりとしていた、どんな暗闇の中でも光っている目的、トンネルの向こう側。
そして夜明け前に私は起き上がり、静かに支度を始め、絵の具の匂いを嗅いで自分自身が落ち着くのを実感する。
憧れのあの人に会いたいと思う、恋はいくらでも出来るけれど、あの人のことは30年かけて探し出したんだと自分に言い聞かせる、愛人の好む表現があまりにもぴったりであの人に対しどこか申し訳なくなる。

 

そして朝、起きてきたM氏に私は今日も言う。
M氏、ありがとういつも、いつも本当にありがとう。
庭でカエルが跳びはねていたよ、白鷺が今日は沢山集まってきてるよ、鴨もね、小魚が上流から流れてきたのかもね。
私たちってさ、夫婦ではなく「夫婦らしき二人」だね、世の中には夫婦という言葉しか無いから残酷に聞こえるけれど…私たちは純粋に共同生活しているのよね、男女ではないけれど、でも、私はあなたが職場に居たらきっとすごく頼りにすると思うの。
本当よ、仕事が楽しくなる人よ、M氏、私はあなたが皆に好かれているのをわかるもの。
今日もありがとう、M氏、朝の庭は雨粒だらけで、雨粒にさえも…いえ、いいの、引き留めてごめんね、いってらっしゃい。

 

そして気付くのだ。
雨粒にさえも、一粒の涙にさえも僅かな音が宿っているということを…この種の言葉を一番理解出来るのは、あの人だろうということを。

 

今日からはもうフクロウの鳴き真似はしないわと私は一人きりの家の中で誰にともなく言う。
木々は成長し、蔓草は甘い蜜を出し、私はそれを容赦なくもぎ取って明日の燃えるゴミに出す、愛人と会わないと手の届かないあの人の事ばかり思い浮かべてしまうわと苦笑し、死ぬまで続く足のリハビリを黙々と行う。
本当はね、蟻と一緒に甘い蜜を私も飲みたいの、甘い涙を流してみたいの。
カエルの跳ねる音は何色でしょうね、そうあの人に聞きたいの。

 

ねえM氏、白鷺の飛び立つ音は、鳥たちにはどんな風に聞こえるのでしょうね。
私にはさよならといっている風に、聞こえるのよ、ありがとうさようならと、翼で奏でているように聞こえるの、いつもありがとうさようならって。
ねえ、M氏、そうでしょう、そうと言ってよ。
もう頷いたっていい頃よ、M氏。