a.o個人ブログ

詩や創作文章、祈りについての考察を個人的に公開しています。

《創作》表皮越しの世界


女は一人、草むらに横たわっていた、月夜の脱皮は困難だったが肌色の表皮は徐々に剥がれていった、空の遠くでは雷が幾度も光を放っていた、不思議なほど無音だった。
表皮は剥がれ落ちたその瞬間にはまだ女自身に属していた、虫たちもそれを知ってか女には一切手出ししなかった、何もかもが表皮越しだった。
女は表皮の一端を囓った、自分の味がした、自分の食べてきたものの味がした、その食物の育った土壌の味がした、触れたことの無い、実在感の無い世界の味が、女の口の中にじんわりと…音もなく広がった。
他者には見られてはいけない行為の最中に女はよく言うのだった。

 

「誰かを愛したい」

 

女をこの世に生じさせた引き金となった物事と人物たちは、女にとって遠い存在だった、表皮越しにしか触れられない世界の人々だった。
女には理解出来なかった、何か理解不能な仕組みの中に投げ入れられ、女は幼い頃から途方に暮れた。
「どうして血族だけで集団を作るの?」
家族というものが何故にこれほど重んじられ、また外部から遮断されているのか女には遂に理解出来なかった、血族と血族以外に引かれた強い境界線…そしてその境界線を越えてくるのは大抵暴力や暴行だった。

 

「でも本当は、違うはず」

 

暴力や暴行だけではなく女の理解者、または女自身が理解出来る事象や人物がどこかにいるはずだと女は夢想していた。
しかし実際の家というものの中には血族しか立ち入ることが出来ないらしい、何故か家族というものはお父さんとお母さんと子供で構成されているらしい。
何故?と女は聞いたが誰も答えなかった、何故?と女は問うたが誰も答えなかった、自分ならどう答えただろうと女は思った。

 

「この夏にした不貞行為で相手のご家庭が離婚するみたいなの、離婚したら母子は困窮するらしいの、それって私のせいよね、11月には離婚が成立する、私の相手の男…すなわちその家庭の父親は、きっかけさえあればもう、外国へ、自身の幸福の為に行くのよ、お金は母子に支払い続けるんだって」

 

女は口に出してみたが釈然としなかった、脱皮は足の部分まで及んでいた、女を覆う薄皮が見事に剥がれ、女は何かの葉にくるまれて生まれ出でたような独特の光を発していた、女は自分が恥ずかしくてならなかった。
まさにこれ以上ないほどに無駄な光だった、虫たちは眩しさで目を閉じた。
この登場人物たちだけで幸福になれる気がしたが、血族という型を重んじている限り無理な話だった。
雌という生き物は元来、誰の子供でも産めるはずだと女は思った、色んな子供を産めるのだ、だから外部からの好意や手助けが多いほど繁栄し、互いに助かるはずだと女は思った、女は女だけの常識に浸りきり、自分の皮を食べながら目を閉じて思案した。
女は、母子のうち子のほうだけを助けたいと思った、母の方はどうでもよかった、その人物が「自分の稼ぎが少なく、体力もそれほど無く、実家との縁も薄く、その実家も大して裕福ではない」という、実に聞き慣れたことの責任まで女が背負う必要性は無かった。

 

「違う」

 

と、女の内側で何かが雷のように強く光った、女は違和感を拭えなかった、さらに脱皮が進み女は身もだえた、女の本心はこうだった。
「あの子の助けになりたい、あの子を愛したい」
それこそがその母親の最も望む物事であり…同時に、最も忌むべき物事であるらしいことは女にも解っていた、しかし全く理解出来なかった、女には子供が居なかった。
「そんなに自分の子供は…誰にも触れさせたくないものなのかしら?」
人間の雌という種が、生涯に一人だけしか子を成せない種族ならそうだろう、自分以外の人物に懐かれたり、過度な愛情を注がれて子供が混乱したらさぞかし嫌だろう…しかし実際には違うのだ、人間の雌は、子供の数を決めている種ではないのだった、この人の子供だけを産むと決めている種でもないのだった。

 

「本当は誰の子でも何人でも産めるのに」

 

女は呟いた、女の呟きは塵となって空間に漂い、表皮に積もった、女はまた表皮を囓った、塩の味がした、母方の祖母から譲り受けた海の味がした、奔放な味がした。
自分に色んな種の子供たちがわんさか居たとして、子供に愛情を注いでくれる人物がいるのは…男であれ女であれ血のつながりがなかったとして…とてもありがたいような気がすると女は夢想した。
実の子供たちの全員全部と、到底気が合ったりはしないだろうし、中には自分を嫌う子供も居るだろうし自分が苦手だと思う子供も生じるだろう。
子供が、血族以外の誰かと親密になったり、懐いたり、そして血族以外の人間が子供を金銭面でも援助したいと言うのは…それほど悪事だろうか?

 

「慰謝料、罰」

 

子供を育てる大変さを舐めていると言われればその通りだったが…誰かの手助けや愛情があるならうまく行くような気がした。
血族以外の人間の哲学が入り込む事は、それほど悪事ではないような気がした。
女はその子を助けたかった、会って、話してみたかった。
しかし女が実質許されているのは「血族の輪を壊した罰として支払う金銭」のみだった、それしか女に許された提供は無かった、会って話して遊ぶなど言語道断であった。

 

「写真で見た限り父親似よね…声も可愛かった…あの子と会って話せるなら、あの子を助けたい…会えないのなら、何かをする意欲すら湧かない、助けるという気力も湧かないわ…罰を科せられるって本当に無意味なことなのよ…それが手助けになるという理念ならすぐに意欲が湧くのに」

 

仕方のないことだと女は自分を許した、実体の無い子供へ愛情を注ぐというのは事実、聖人には出来ても凡人には逆立ちしたって無理な話だった、会ったこともない子供を何年も何年も…子供本人の成長すら見ずにただひたすら孤独に愛すというのは無理な話だった。
女の相手の男は外国へ行ってしまう、心はもう自らの幸福を追い求めているのだ、新しい恋人が出来るのもはっきり言って時間の問題だった。
母子もどうにかして暮らしてゆくのだろう。
女だけがこの夏に留まったまま、慰謝料を母子に払う…母子は私の顔も知らない、子供は私の存在すら知らない…これは女にとって苦しいことだった。
この夏を超えた先には女以外もう居ないのである、女だけがその子の成長を見ることも叶わず、この夏に凍り漬けにされ、外界との接触を遮断されているのである。

 

「こういう事を罰だと言う人は居るけれど…」

 

その実、援助自体は母子のうち母親の方も望んでいるのである、父親の愛情が欠けた分すらも望んでいるのである、しかし血族以外の部外者は立ち入り禁止なのだった。
女は体内で雷鳴が轟くのを聞いた、実に無駄な力だった、女の愛情は行き場を無くして女自身を蝕んでいた、女は何にも触れられなかった。
触れることそのものが処罰の対象であった。
愛したいという気持ち自体が無駄であった。
そしてこの種の気持ちが、自分の愛した人との間の子供に注がれるとは限らないことを、女は両親との生活で嫌と言うほど学んだのだった、それが女の人生だった。
血族だけで生活することには限界がある、血族だけの輪、血族だけの哲学には限界がある…女が求めていたのはまさに外部の哲学だった、他者を求めていた。

 

全てが押しつけがましい愛なのだと女は思った、自分の求めてきたものも存在しないのだと女は思った。
女は自分の皮をほとんど食べ尽くしていた、そして自分が意図せず発光するのを出来る限り抑えようと、さらに草の中へと潜り込み、うっすらと目を開けた。
高い草の葉の茂みを通して見える遠くの空はまだ雷によって光っていた、その空の下に居る人々には大層迷惑な光だろうと女は思い、静かに泣いた。
この押しつけがましさを抑えるには地中深くに潜るより他無かった、生きたまま死ぬより他なかった、悪いことをせずに暮らすには誰とも関わらずにいるより他ないのだった。

 

「…あの子もこれを学ぶのかしら?…」

 

可愛がる事やお節介と…個人の幸福を尊重する事は、全く別の次元の話なのだと女は思っていた。
だからこそ幸福を追求している相手の男のことを、あの子の父親のことを、女は善いと思っていた、到底引き留められなかった。
それは絵を描くのとほとんど同義だからである、この種の幸福は如何なる理由であれ抑えつけてはならないのだ…あの子の幸福は一体何だろうと女は思った、しかし思いつかなかった、実際には会ったこともない子供の幸福など思いつくはずがなかった。

 

女は起き上がってあたりを見回した、誰も居なかった、誰かが声をかけて微笑み合えたのならすぐさま交わりたかった、だが草むらには誰も居なかった。
皆画面の中の幻に夢中なのだろうと女は思った、そしてその理想を「手に入れる」事に人生を賭けているのだろう、だから暴行は後を絶たないのだ、女は素裸のまま歩いた。
情動は無駄だった、出来事にまつわる感覚や感情も、触れたいと思う感情も、世の中を「美しく」回してゆくには無駄だった。
しかし抑えがきかないのだった、触れることの出来ない幻や触れることの出来ない愛おしい何かへの情はそのまま腐らせるよりほかないのだった、抑えのきかない雷はただの害悪であった。
交歓の場があれば暴行は減るだろうと女は思った、やるせなさや自分の醜さで苦しむ事こそが暴行の原因だという気がしたからだ。
血族の輪が薄まれば貧困は減るだろうと女は思った、拒否や虚無感こそが貧困を引き起こしている気がしたからだ。
だが理想でしかなかった、そしてこの種の理想は独善でしかないのだった、そして女はまた表皮が硬くなると森へ素裸で来ては、脱皮するのだった。
表皮はまさにゴミだった、無駄なことのために女は食物を摂取し、無駄な光を発し、ただただ排泄をした、それが生きるということだった、あまりにも全てが遠かった、全てが表皮越しに行われる意味不明の祝祭のような気がした…女はそれを祝えなかった。

 

「山で死にたいわ」

 

女は脱皮の最中に死にたいとよく願った、皮からしか物事に触れられないからだ。
何に触れても現実感が無く、女の感嘆も嘆きも、ただの現象でしかないからだった。
草の中に埋もれて死ねたらどんなにいいだろう…自分の骸を虫たちが旺盛に食べるのを想像し、女は微笑んだ。

 

「その時にこそ真に物事に触れられるんだわ、何かの為になれるんだわ、生きている間は皮越しにしか、表皮越しにしか…世界に触れられないのよ…現実感は生きている限り、無いのよ」

 

女は素裸のまま帰宅し、風呂に入った、そして何食わぬ顔で服を着て横になり朝を迎え、たまに秘かに脱皮しながら数十年が過ぎ、女は何処かの山へとやってきた。
女はとうとう、素裸の姿を誰にも見せないまま最後の脱皮をし、いつものように謎の発光をした、その時に女が何を思ったのかは女を食した虫たちしか知らなかった、女は表皮越しの世界に終止符を打ち、呆気なく死んだのだった。