a.o独白ブログ

詩や創作文章を公開しています、時に汚濁あり時に18禁あり、綺麗な場所ではございません、あしからず。

《創作》あの子の為にすべき事

 

とある一羽の鳩は住処を見回した、時折吹き付ける強烈な潮風はここへは入ってこない、開発工事中の鉄筋建築物の内側に鳩は居た。
鉄の一部は既に錆びかかっていた、遠くに赤い光が点滅し、巨大な紅白のクレーンが天までの階段を厳かに作っていた。
鳩はどこからか持ってきた木の芽を囓った、そして小さな砂利を口に運び静かに寝ていたが意識は冴えていた、鳩の中にもう一つの意識が在った、人間の女の意識が在った。
夜の間はカラスに襲われる危険がある、人間の女を宿したこの奇妙な鳩は、警戒しながら日の出を待った、あの子に会いたいと願っていた。

 

金属の上でも鳩は足を滑らせること無く歩いて移動し、仲間にそれとなく目配せした、意味は無かったが無視するのも気が引けたのだ。
同族の鳩たちはこの異質な鳩に対し特に着目しなかった、鳩は一羽で鉄板の先まで歩いた、そこからは空と、海と、海にせり出すようにして作られた作りかけの街の片隅が広がっていた。
鳩は飛び立った、潮風にあおられたら厄介だが天高く舞い上がる楽しみは癖になった、朝の薄い黄色の光が水平線の真横に広がり、雲が沸き立つのが見えた、地名の通りだと鳩は思った。

 

自分の寝床、寝床の周辺の鉄筋、その全体図、そして建設中の港町、港町がどのように海に浸食しているか、その港町の全景…
鳩は一度見た地形を全て瞬時に記憶した、何処へ行こうと体力さえ在れば自由自在だった。
何故なら実のところ…物事の大小は同じ図形の繰り返しに過ぎないのだ…鳩は思った。

 

「これは人間の女で居る時よりも幾分頭がいいぞ」

 

鳩が飛ぶと実際の地形とは別の地形も姿を見せた、目に見えない谷や小山が色を纏って立ち現れた、鳩は恐るべき早さで極彩色の輪の中を飛び回り、全身で喜びを体感した…飛ぶという行為は果てしない快楽だった、しかし気をつけねばならない、人間の快楽の基準で空を飛ぶ鳩ほど短命な生き物はいなかった。
鳩はすぐに鳩の頭で舵を握った、人間の快楽は魔物だ…そう毎日毎日死んでたまるものかと鳩は思った。
鳩はしばし目的を忘れて飛び回り、その挙げ句に海の果てまで飛ばされて死んだり、あまりにも飛びすぎて過労(鳩本来の生体ではありえない事だった)のため目眩を起こし、そのまま倒れる事があった…そうやって何体かの鳩が死んだ、何体かの、人間の女であるところの鳩が死んでいた。

 

鳩はすぐに目的地へ向かった、日の出が鳩の飛ぶ位置から右手に見えた、急がなくては…あの子が起きてしまう。
鳩のねぐらから北側へ進めばよかった、北よりも少しだけ逸れる方向へ、風に身を任せればよかったので向きは真北よりも東側にした、この方が風にあおられて早く着くのだ…この種の移動に関しての説明し難い勘は、鳩である時にしか働かなかった。
鳩の住む場所は海辺だが、大きな河川が海へなだれ込む場所は不可思議な磁力があり、多くの鳩が溺れて死ぬ難所であった、鳩は下を見ないようにして飛んだ。
川を越えてからは数え切れないほどのビルの合間を縫って進んだ、たまにビルのてっぺんで休んだが…実は高いビルの建つ場所ほど、谷である事を考えねばならなかった、あまり谷で休むと身体が持ち上がらなくなるのだ、鳩は水分を少しだけ身体に貯めた。

 

遠くに山が見えた、湾岸へと平たく削られてはいるものの、山の気配に満ちた場であった、それが東京という場所だと鳩は思った…鳩の故郷、鳩の内側に宿る女の故郷。
ようやくあの子の住む建物が見えてきた、見えてきたということはもう、その場に着くのは数秒先だと言うことだった、鳩は三階の窓辺へ降り立った。

 

念じ方にはコツがあった。
鳩本体の命が中心にあり、鳩を形作るための意識が鳩の後方にも前方にも果てしなく、合わせ鏡のように伸びている…。
鳩本体の命が中心にあり、鳩を形作るための意識が鳩の左右両方にも果てしなく、合わせ鏡のように伸びている…。
同じように、あの子の眠るこの建物にも、この建物を形作るための意識が前後左右果てしなく、合わせ鏡のように伸びている…。
その中にあの子の命が光っている…。
鳩は念じた状態のまま自分の命を移動させた、鳩を形作るための意識の道を鳩は通った、鳩は壁をするりと抜けた、建物の壁もまた、建物を形作るための意識の道筋を作っていた、鳩はそこを歩けばよかったのだ。

 

鳩は静まりかえった部屋の中に居た、念を途切れさせてはならなかったが、過度に神経質になる必要も無かった、見つかればまた意識の道筋を通って帰路に着けばよいだけの話だった。
鳩は鳩でしかないのだから、この部屋に侵入することをそれほど躊躇わなかった、そういうわけでもう幾度も鳩は、秘かにあの子に会いに来ていたのである。

 

部屋の中は優しいクリーム色で統一されていた、人間が3人、眠る吐息だけが部屋に充満していた。
写真立てはもう仕舞われていた、冷蔵庫が少しだけ鳩を警戒したが鳩はそれとなく頭を下げてやり過ごした、くまの人形は鳩を喜んで迎え入れた、が、鳩はこの人形を少し怖がっていた、人形の中にも別種の何かが居る気がしたのだ、鳩はくまの人形に軽く会釈をして通り過ぎた。
幼児の服の匂いがした、それに混ざって食べ物の匂いや男の精液の匂いもした、髪の毛や経血の匂いもした、人間の匂いが鳩を圧倒したがそのまま進んでとある部屋の前で立ち止まった。

 

鳩はまた念じるやり方で中へ入った、小さな男の子が眠っている、窓辺からはカーテンを通して朝の光がうっすらと差し込んでいた。
「神無月くん」
鳩は小さくそう呼んだ、隣に人間の女が寝ていた、この男の子の母親だろうと鳩は思った、鳩は男の子の頭の上まですっと羽ばたくと身体をその子供に寄せた。

 

この男の子の父親にしたように鳩は男の子の頭を撫でた。
鳩の羽毛で男の子の頭をそっと、鳩の身体全体を使って撫で上げた。
男の子は眠ったまま、気持ちよさそうに少し微笑んだ。
鳩は言った。
「神無月くん、私どうしたらいいかな?」
その瞬間部屋が軋んだ、母親が目を覚ましかけた。

 

鳩はすぐに念じてその場を立ち去る事にした、鳩は既に夏の朝靄の中を飛んでいた、中二階の大きなベランダで家庭菜園の広場があったのでそこで羽を休めた。
こうした行いは鳩がそうしたいからやっているだけであって、ほとんど何のためにもならない行為であった…それは鳩もわかっていた。
子供が欲しいのかと問われれば鳩は首を横に振るしか無かった。
子供が欲しいんじゃない、子供が欲しいのではない、ただあの子に会いたくて来たのと鳩は言うより他に無かった。

 

あの子の為にすべき事があるとすれば…
あの子に対して本来すべき事があるとすれば…
鳩は考えた、鳩であるところの女は考えていた。

 

父親がこれから家をよそへ移して、家族はばらばらになる、父親が本来貯められたであろうはずのお金を…私があの子のために払うこと、それが私の成すべき事だと鳩は唐突に悟った。
当たり前と言えば当たり前すぎる話だった。
進学したいときに手元にお金のない苦しみを、そして進学が叶って卒業してから一番お金の必要な時期に借金の催促が始まるという人生を…あの子はこのままでは味わうことになる、それは避けてやりたかった。
鳩は同種の苦しみを知っているからである。

 

鳩の姿が揺らいで、瞬間、菜園には一人の女が佇んでいた。
朝日を逆光に女はぼんやりと前方を見つめていた。

 

「月々3万貯めるとして…あと10年、あの子が15歳になる頃に300万」

 

自分の股関節がどれほど耐えられるのかも疑問だった、足りない骨、自分の手術代、自分の奨学金。
それでもあの子にも奨学金という足枷をつけさせ、ただそれをぼうっと見つめるのは辛いことのように思われた。
この種の苦労がまさに、自分のせいで生じるということが女にとって最も苦痛だった。

 

10年後、果たして歩けているだろうか…
自分の為の貯金などという悠長なものは残らないだろう…
それでも自分自身はどうにかなるのだという確信が女にはあった、勿論ふざけた確信であった、今までもこれからもその確信だけで女は生きてゆくのだ。
もし歩けなくなったら、もし働けなくなったら、その時に全てM氏に打ち明けよう、M氏にもあの子のためのお金を貯めてもらおう。
仕方が無かった、金というものは誰が貯めようが金でしかないのだ、女は笑った。

 

「慰謝料っていうのはやっぱり300万くらいが妥当なのね」

 

笑い声に気付いた人間が居るような気配がしたので女は影となってそのまま菜園場から飛び降りた、朝日を受けた影がどのように見えたのか女にはわからなかった。
次の瞬間には女は鳩の姿になり、そのまま西へと飛んだ。
蝉の音は地面から垂直に伸びており飛ぶのを妨げた、鳩は高く飛んで細かい縞々の音色から逃げた、あまりに高い場へゆくと大型の鳥がいるため注意せねばならなかった。
念の最中に死ぬことは…その実、大した被害は無かったが…あまり気持ちの良いものではなかった。
鳩は高く低くと繰り返し、一定の音楽の中に身を置いて女の眠る家までやってきた、屋根で雀たちがこの異形の鳩に騒いだが、無視してそのまま部屋の中へ潜り込んだ。

 

女は仰向けのまま眠っていた、昨夜寝たときから身体の向きに変化は無かった、背中の側がひどく軋んでいるのがわかった。
鳩は女に少しだけ同情した、自分自身に同情するというのは妙に聞こえるかもしれないが、鳩は女に一鳴きすると影となって女の影と重なり、ひとつになった。

 

女は目を覚ました。

 

女は隣で眠るM氏に声をかけた。
「ねえ起きてよ、ねえ、私、夢で鳩になったよ、鳩はすごく頭がいいんだ、地形を全部覚えててさ、一瞬で全部だよ、ぱって、覚えてさ…」
女の内側で鳩は思った、肝心なことを全て忘れ去っている女を鳩は苦々しい気持ちで内部から見つめ、ため息をついた。

 

「人間の女で居る時よりも鳩の方が幾分頭がいいな…」

 

鳩はそう呟いて自らは、女の内側で静かに眠り始めた。
全く同時に存在している港町に住む鳩自身の肉体は起き上がった。
全ては合わせ鏡のように存在し、何処までも道筋が伸びている…好きな時に好きな位置に自らを飛ばすことの出来るこの鳩こそが、女の真我であることを、幸か不幸か、女自身は生涯知る事がなかった。