散文の自画像 

創作魂を持つ大熊という人間が、散文で日々の自画像を綴る文章ブログです。

《創作》偶発性の美


女は呻いていた、女の身体からは木の芽が、新芽がいくつも生え、天の眼球に向かって手を伸ばそうとしていた。
新芽が伸びる度に女の身体から脂肪が減り、あばらが浮いた、女は料理ばさみで自らの新芽を剪定したが到底追いつかなかった。
女にとって生きるとはこのような事だった、新芽は野放図に広がろうとしていた、細部には何らかの法則性が宿っていたが、新芽の発生自体は全くただの偶然としか言いようがなかった。
つまり全く無意味な偶発性を、女は生きていたのだ。

 

全く無意味な偶発性を誰もが生きていると新芽は言った。
君が絵筆を取るのは何故だい?君が正確に適正に生きようとしないのは何故だい?完全に掌握出来ない偶発性に身を委ねているのは何故だい?
偶発性にこそ神性を見いだしているのは何故だい?
絵も詩も音楽も、およそ芸術と呼ばれるもの全て、そして情欲も、命が生じることそのものも全てこの種の偶発性に委ねられていると、君は知っているよね?
生じた身体そのものも作品と同義なのさ、偶発性の過程なのだよ。
芸術に身を投じるということは偶発性そのものに身を委ね、それを崇めることなんだよ。
軽んじてよいものなんて実はこの世には無いのさ、新芽はそう言って少し笑った、その新芽を女ははさみで切り取った、切り口からは鮮血が流れた。

 

軽んじることは許されている、それでも何もかもを軽んじることは許されている、貶めることも、と女は思った。
しかし軽んじれば軽んじるほど、対象はその通りに矮小になる、この世を軽んじれば軽んじるほど、この世は醜くなる。
そして、偶発性の塊である新芽を意図的に刈り取ることも許されている。
それでも私は偶発性を愛している、新芽を愛している、女は次の新芽にまたはさみを当てた。

 

この偶発性に身を置いていない生き物、生きていないものはこの世にはないのさ、新芽は芽吹いて言った。
身体という器は、作品と同義なんだよ、それがどんなに矮小で醜く見えても、それこそが偶発性の塊なんだよ、つまり、美なんだよ。
創作はセックスと同義だよ、法則は宿っているけれど野放図で、規則や言葉なんかないのさ、でも。
この偶発性こそを軽んじれば、セックスや創作自体が無意味なものになる、それは幸せかい?

 

意気を削がれる事は度々起こった、男というものは女を軽んじていたいものらしい、女の身体に収まりながら創作をするということがどれほど困難なものかを、いつも男たちは女に丁寧に教えてくれるのだった。
身体を許すと途端にそれは起こり、男たちはありとあらゆる手段を使って女を笑った、しかし当たり前と言えば当たり前であった。
彼等は創作に身を置いている人間ではなかったのだ、それが作品を軽んじている事と同義だと言って聞かせても誰も理解するはずもなかった。
軽んじると言うことが仲の良さの表れだと言ってきかない者もあった、そのような男に女はよく言ったものだった。

 

身体は作品と同じなのよ、偶然出来て身に纏っている作品と同じなのよ、一生懸命作り上げた肉体そのものなのよ、それが美しかろうと醜かろうと偶発性に於いては全て、神性を帯びているのよ、全て美しいのよ。
ねえ考えてみて、あなた、自分の作品を鼻で笑うような女と一緒に居たい?
たった一瞬でも自分の作り上げた作品を、キモい、クサい、ダサい、ウザい、ショボいなんて言って笑うような女にこれからも作品を見せたいと思う?
これを言えるのは仲がいい証だなんて言う女とそれからも付き合いたいと思う?
創作の話が出来ると思う?
一緒にご飯を食べたいと思う?
セックスしたいと思う?
身体について一瞬でもからかったら、その相手の前ではもう身体なんて見せたくなくなるのよ、あなただってそうでしょ?
男にも女にも、どんな人の身体の中にも神性が宿っているのよ、それを軽んじてはならないのよ。

 

女は物凄い早さで新芽を剪定した、身体中に穴が開き、血が滴っていた、女は血の水たまりに座って居た、裸だった。
創作に身を置く人間ならば、作品を批判や批評ではなく、ただ軽んじることがどれほど自らの神に背く行為か解るはずだった。
それはこの世を軽んじる事と同義だった、罰は無かった、それによって痛手を負うとすれば信頼が無くなることだった。
軽口を許すことが仲の良さの秘訣だと尚も言う人が居た、それだから君には友達が少ないんだと笑う人もあった。
女は言い返した、女の周りには剪定した新芽の頭が無数転がっていて天の眼球に慈悲を乞うていた、この女は考えている事と自らの行為にただならぬ矛盾が見られると新芽たちは告げ口していた。

 

少なくとも私は、友人の真の幸福を笑ったりしないわ、友人の偶発性を笑ったりしないわ、軽んじたりしない。
笑顔と笑い、笑いと嘲笑は曖昧だけれど、真の幸福が曇るような笑い方や、それを馬鹿にするような行為はしないわ。
どんなに言葉が優しくても、迫真の演技を可愛いと言ったりはしないわ、批判はするかもしれないけれど小馬鹿にしたり軽口を叩いたりはしないわ。
死んでしまった友達については…彼女は次の次元できっと凄まじくやっているだろうから、私から言えるようなことって何も無いのよ、でもやっぱり彼女の真の幸福を私も祈ってるわ、ただそれだけよ、つまり生きててもこの世にいなくとも同じ事なのよ。
偶発性に全てが宿っているのよ、だから絵筆を握るんだわ。

 

作品と身体は同一なのよ。
それがどのような状態であれ、病気であれ、奇形であれ、それこそが偶発性の賜なのよ。
勿論それに意図的に手を加えることだって美の領域でもあるのよ、許されているのよ、でも軽んじてはいけない、決して。
女は乳房を押えた、乳房は軽んじれば軽んじられるほど、貧相になっていった。

 

身体の内側、皮膜の内側には臓器が、臓器の隙間に異物を入れると、それが何であれ、シリコンであれヒアルロン酸であれ食塩の袋であれ…異物の周りの細胞たちは混乱し、防衛戦を張り巡らせ硬化させる、異物がこれ以上「この世界」に進入しないよう壮絶な戦いをする。
自らの脂肪を掬い取って乳に入れても無駄なのだ、何故なら脂肪細胞もまた生き物だから、元の場所から切り離した途端に大量に死ぬのだ。
死んだ脂肪細胞は石灰化して固くなる、骨になるようなものだ…乳に死体を入れてもそれは野に死骸がばらまかれているのと同義である、乳は固くなり乳房は乳房と呼べなくなる。

 

本当に乳房を膨らませたいのなら自分の細胞を培養し、自分の血肉とした上で、凹んだ乳房に押し「戻し」てやることより他に方法は無いようだった。
無論、このような技術が民間化するのはもっと先だろう。
乳房だけを成長させ、乳腺を頑健にさせる薬を投与するというのはさらなる戦いを体内で勃発させるに過ぎない行いのような気がした、女は剪定をやめ、血だまりを見た、血だまりの中から影となった女が覗いているのが見えた。

 

芽吹いたばかりの小さな新芽が言った…偶発性の美、植物や生き物はともかく、道路も鉄柵も猥雑な通りも、君が無能だと思っている従業員も、醜い人々も、全てが偶発性の美の賜だということだね、病気も何もかもが…君の欠けた骨すらも偶発性の美だということなのだね、それを直す技術も、君の足りない乳房を付け足す下品な技術すらも…新芽は話しながら刈り取られ息絶えた。

 

欠けていることだらけよ、醜いことだらけよ、本当に必要なのはそんなショボい技術じゃなくて、欠けた骨を埋めて歩くことでもなくて…ただの許しなのに。
偶発性の美を認めてやることだけが、他者と仲良くなる唯一の方法なのに。
戦争せずに済む方法なのに。
絶えずに済む方法なのに。

 

新芽は最早生えていなかった、この日の分の新芽は全て、女が刈り取っていた、根こそぎ抜き取った部分からは骨が見えていた、女の剪定は暴力だった、女自身が偶発性の美を見事、亡き者にしていた。
血を吸った新芽が口をぱくぱくさせて床に転がっていた、そして最後の一言を呟いた。

 

「創造すること…」

 

女は新芽を、触れるのも嫌とばかりに指先で摘まむとそのままゴミ袋へ押し込んで血だまりを仕方なく拭いた、この世は無駄なものだらけだった、絶え間なく発生しては死んでゆく、この世はゴミだらけだった、女自体もゴミだった、絵も詩も音楽もゴミだった、この世はゴミで溢れかえっているのだった。
それを誰かが、美しいと言うのだった、誰かそれぞれが、それぞれに異なった美しさを発見し、感嘆するのだった、ゴミは宝物であった、醜さは美しさであった。
よってこの世は隙間無く、美で満ちており、全ての事象に神が宿っているのだった。