a.o個人ブログ

詩や創作文章、祈りについての考察を個人的に公開しています。

《創作》人造湖

 

水盤の中に涙が落ちた、涙は幾つもの輪を描きながら水の中に溶けていった。
早朝の庭に出しておいた水盤には木々たちの霊気が漂っていた。
「宇宙はこうして始まったのね」
女は微笑んで庭木の葉を一枚ちぎって水盤に浮かべた、葉は静かに揺蕩いながら旅に出たようだった、水面の向こう側への旅に。

 

祈りの最中に女はしばしば水盤の裏側の世を覗いた、目を開けずに水の道筋を泳いでゆくと海洋のただ中に着いたり、ダムに辿り着いたりした。
普段であれば、手を合わせた先には水盤の内側から女の居る眼前へと、万華鏡のような事象が現れた。
つまり祈りの大半は、夢の世界から来た物事をただ眺めるだけでよかった…しかしごく稀に、そういった夢の世界に女は自ら入り込んでしまうのだった。

 

女は手を合わせながら過去の出来事を思い出していた…そしてその瞬間には過去そのものを現在として体感していた。
緑の風が吹いていた、ああそうだ、両親に連れられてダムまでドライブに来たのだった。
あずき色の車は熱され、車内にはフライドチキンの香りが漂っていた、若い家族連れは食後の後片付けもせず、水素の香りのただ中に踊り出でたのだった。

 

人造湖はまさに絵の具のエメラルドグリーンを筆洗に混ぜたような塩梅であった、夏の空には幾筋もの光の帯や雲が流れ、命を優しく包んでいた。
女は自分が未就学児の身体に在るのを感じた、手足は動かしにくく、先ほど食べた鳥肉に付いた調味料が元で、口の周りは痒かった。
しかし懸命に歩いた、両親は人造湖を見ながら抱き合っている、このような時に話しかけるのがいけないことだと幼児である女は既に知っていた。

 

「ねえ」

 

女は声を聴いた、人造湖の周りには当然ながら手すりが張り巡らされ、人々はその白い枠に寄りかかって大きな水たまりを見ていた。
女は女児の身体で手すり越しに声の方角を覗いた、数十メートルばかり下にエメラルドグリーンの湖面がほとんど揺れずに小さく波打っているのが見えた。
女は不思議でならなかった…ねえどうして水はこんな色なの、ねえどうしてこんな風に水をためているの、これは嘘の水でしょ、これは嘘の水、だって水はここに来たくて来たわけじゃないって言ってる、拗ねて動かないでいる、ゼリーの表面みたいに固まってる、ねえどうして、おかしいよ、この水はおかしいよ。
しかし両親はまだ抱き合っていた、女は口を噤んで手すりを強く掴んだ、女は自分が口を噤むことにだけは長けていると自覚していた。

 

「ねえ、あたしよ、あたしが見えるでしょう、おいで」
尚も声は続いた、この嘘の湖面から、知っているような知らないような声が、見えない糸電話を伝って耳元に届くように女に届いた。
女は嘘で塗り固められたこの湖面をさらに見たくなった、ここまで全部が作り物なら、この声も作り物かもしれない、あるいはこの声だけは本物かもしれない。
好奇心は腕力へと変換された、幼児の手は実際に吸盤が付いているかの如く、様々な物に吸着しては魂の付属物である胴体を軽々と持ち上げることが出来た。
ベビーベッド、椅子、手洗いはもとより台所の上にまで幼児は登ることが出来たし…目の前にあるこの白い柵に至っても例外ではなく、加減せず力を込めれば大人が寄りかかって眺める視点まで頭を辿り着かせる事が可能だった。

 

「ああ、やっぱり私の声が届いてるのね、見える?私が見える?」
幼児であるところの女は、正体不明のこの女の声の主を見たくてたまらなくなった、両親は二人で一つになることで頭がいっぱいで放心している、その間に女は大人の視点で人造湖を見下ろしていた…最早身体を支えているのは幼児の両腕だけだった、自分の背丈よりも高いこの柵にしがみつくことに両腕は熱心に働いたが、脚は働くことを放棄してぶらぶらと遊んでいた。
エメラルドグリーンの湖面そのものに魔力が宿っていた、人の作り物…どこか厭らしい滑らかさを帯びた中に一点、黒いもやのようなものが見えた…それは人間の髪の毛だった。

 

女はそれを怖いとは思わなかった、ただただ不思議であった、放水の時間が音もなく始まり、女の居る場所から少し離れた巨大なコンクリートの壁から、この嘘の水に、さらなる嘘の水が追加され、細かな水しぶきが女のところまで飛んできた…物事の規模が女にはわからなかった、手で巨大な物を掴めそうな気もした、全てが人の手で作られたオモチャのような気がした。
嘘の水はどこかで捕らえられ、丸い途方もなく大きな人造の穴から、嘘の水たまりへと流れ込んでいる…それなのに人間の髪の毛であるあの黒い点は動かなかった、別の次元に居るようだった。
黒いもやの中心に肌色の何かが浮かび上がった、それが人間の顔面であることを女は理解した、水面すれすれに長い髪の人間が漂っているのだと幼児である女は理解し、手を振ろうとした…ねえ、あなたは嘘の水の中で何してるの?

 

その瞬間、切り裂くような悲鳴が周囲に響いた、女は身体が前方へ…つまりこの人造湖の水面へと傾くのを感じた。
エメラルドグリーンの中に私は落ちる、エメラルドグリーンの中に落ちたらあの人と話せるかな、身体は既に重力に捕えられていた、私も嘘の水と同じなんだ、同じもので出来ているんだ…だから全然平気なんだ。
がしっと身体を掴んだのは父親だった、そして白い柵から引きずり降ろされ、アスファルトが見えたと思ったら衝撃が走った、女は父親に打たれて反射的に泣いた。

 

水盤の中に涙が落ちた、涙は幾つもの輪を描きながら水の中に溶けていった。

 

女は目を開けた、身体は大人に戻っていた、早朝の庭に出しておいた水盤には木々たちの霊気が漂っていた。
「あの時死んでいても」
女は息を吸い込んだ、鼓動はいつも不規則だった、それは様々な世界で死を迎えるという理由からであった。
「2歳のあの時死んでいても、きっと34歳の私は生きているし、同時にここで頓死しているのでしょうね」
女は水盤に浮かべた葉を見ていた、葉はくるくると周り、見えない穴に吸い込まれたかのように見えた。
「この前祈りの最中に私の魂はダムへ行って…水面すれすれに漂っていたけれど…自分を殺そうとしたのがまさか自分自身だったなんて」
女は微笑んで水盤に浮かべた庭木の葉を掬い取った、葉は女の手のひらの上で静かに揺れていた、既に葉の実体はそこにはなかった。
葉は旅に出たようだった、水面の向こう側への旅に。
女は立ち上がって朝の祈りを終わらせ、抜け殻になった葉を屑籠へ捨てたのだった。