a.o独白ブログ

詩や創作文章を公開しています、時に汚濁あり時に18禁あり、綺麗な場所ではございません、あしからず。

《創作》鈴虫の音


田んぼには鋭利に光る錫色の雀よけの帯が、穂をちょうどかすめるほどの高さに張り巡らされていた。
上から見るとそれは巡回路を示す柵のようにも見えた、鬼さんこちら、手の鳴る方へ、案内に従って散策する果てしない迷路のようでもあった。
鋭利に光る雀よけのこの帯は、今度は真横から見ると水面が太陽光に乱反射しているかのように見え、存在しないはずの海がそこに在るように感じるのだった。

 

そういう訳で庭から田んぼを見ると、家が海のただ中を移動する船のように感じ、私はどこかうきうきとした気持ちで歌った。
波よいざなってください私を 私をいざなってください
すると家が本当に揺れたように感じ、私は身を固くした、確かにこのような時に土地の気配は変化するものである。
見えない渓谷がこの場所には在る、ここは見た目よりもずっとずっと深い谷底なのだ、その谷底をゆっくりと水の面に乗りながら家は、目に見えない水面を移動した。

 

実は私は家と共に日々数キロほど移動するのだがこのことは誰にも証明など出来ない。
定規で土地を測っても無意味なのだ、定規もまた移動し、伸縮している、伸縮している場を伸縮した定規で測っても何の意味もないのだ。
家はいつも私と共にあった、深い色の木製の家具、木の手すり、一枚板の踊り場、私は自分の思い浮かべてきた全てを家に投影した、まだ見ぬ懐かしさをも投影した、つまり家は…家の建つ前から、ずっと私のポケットの中に在って、私に微笑みかけてくれていたのだ。

 

夢が叶ったら、それは未来への航海の一部がそこで中断される事と同義である。
私が生まれ変わりたいのは、自分の尊敬する人と共に生きたいという、この目的によるものだ。
そのような物事が叶ったとしたら、何処かの時空でその時の人生を生きていた「未達成な」自分は、物事が達成した事により、その瞬間消えるのだろう。
その瞬間、というのは主観的時間に於いてである。
来世、再来世の自分はもう既に何処かで生きている、目的を達成するために魂を磨いている。
そして現世、来世、再来世のうちどれかの時点で魂の願いが叶ったら、その瞬間、それぞれの未達成な自分は、飛行機事故にでも遭って「その」世から消え去るのだろう。

 

災害や悲惨な出来事…表面上は絶句するような物事の裏側には、実は輝くような事実がある。
キャンバスの裏側から、絵の具の層を見たらどのような景色が広がっているのだろうか、案外整えた上辺よりも美しいんじゃなかろうか。

 

私は男を思い浮かべる、船に乗ったまま私が移動し続け生活していると誰も知らないし知らせる術もなかったが、男はこのような話をただ聞いてくれた。
男は仕事をきっちりこなしていた、男は住処での振る舞いもよかった、住処での集まりにも顔を出し料理を作った、男には沢山の女たちが居たが…男と一対一で一緒に居るとき、男が一切よそ見をせず、心ここにあらずといっただらしない素振りもせず、きちんと向き合うのを私は見てきた。
妻にも全て話しただろう、沢山の女たちもそれぞれに満足していたに違いない。
創作にこれほど向き合ってくれた男なのだ…嫉妬はさせたかもしれない、この世のルールは破ったかもしれない、だが…。

 

ねえ、浮気も含め、あの男が悪いことをしたようには思えないよ、と私は庭木に語りかけた。
あの女好きにこの言葉は最も不向きだと思うかも知れないが、実に誠意のある人間だよ、と私は庭木に語りかけた。
私に首輪をつけて満足するような男ではないんだ、上手いとか下手だとか、これを書いたらいけないとか、何色を塗れとかデッサンをしろとか指示するような男ではないんだ…ただただ私の魂の話を静かに聴いてくれる人間なんだ、あいつは良い奴なんだよ…と私は庭木に強く語りかけた、日は暮れかけ、風には秋の色が混じっていた。

 

庭木は昨日よりも少し遠くまで移動したらしく、返答はゆっくりだった、庭木は笑っていた。
「あの女好きのことはともかく…場を移動したのは君の方だよ、このまま君は目に見えない渓谷をどんどん流れてゆくのさ、気付いたときには別の場所で目覚めるのかもしれないね、もうここには居ないのかもしれないね、流星に祈るんだろう?魂の願いが叶うといいね、そしたら君という存在は、消えるのかもしれない、それは少し寂しいね」
私には庭木の言う意味が痛いほどよくわかった。
私は移動し続けている、いつか本当にこの場所からも立ち去るだろうという予感がしていた、鈴虫の声が辺り一面に赤銅色の小さな玉となって転がった、鈴虫の音は悲しみのようでもあった、玉は夜の緑の光の中を輪舞するように飛び跳ねた。

 

私は鈴虫の声の玉が独特に弧を描いて踊るのをしばらくの間眺めていた。
それは暗くなって光を失った雀よけの帯の迷路と調和し、この世をまばゆく照らしていた、そういうものを描きたかった。
私は静かに頷くと田んぼの中へと分け入っていった、庭を飛び越えればもうそこは田園だった、家は私を見ていたが…同時に家は私のポケットの内側に在った、私は家に手を振った、その時とても懐かしい苦しい気持ちに私は飲まれた。
私はこうやて死んで行くのだろうという予感がした、つまり私はもう自分の死を、死後を、体感しているのだった、この懐かしい気持ち…三次元上では起こっては居ないがどこかの時空間では既に到達した出来事の前に、私はしばしば蹲り、呼吸を整えねばならなかった。

 

田園は今や鈴虫の楽園だった、一昔前はカエルの楽園で、一時期は鴨たちの楽園だった。
私は稲穂のただ中に横たわって夜空を見た。
水田の泥が私の衣服を湿らせ、沢山の生物たちが私の身体の重みに耐えきれず窒息死していた、きっと彼等の魂はそう出来ているのだと私は思った、彼等がどこかの地点で、何かに到達したのだと私は思った。

 

私は思った、男は10年後、どこへ行くのだろうか、火星だろうか、夜空の果てだろうか。
鈴虫の赤銅色の音の玉が私の目の上で跳ねた、その瞬間世界の一切は赤銅色になり、すぐにまた夜空が見えた、確かに悲しみとはこのようなものだった、強烈な草の匂いが私を包んで頭を撫でてくれていた。

 

迷路のただ中に居るのね。
楽園のただ中に居るのね。
そして移動し続けている、波は私を誘い続け、私は流れに乗り渓谷を過ぎ去り、どこに居るのだろうか。

 

雀よけの帯は電灯の照らし出す灯りを受け、静かに輝いて夜空に模様を描いていた、それはこのように田んぼのただ中に寝転がって下から見ると、何かの巡回路を示す柵のようにも見えた。
鬼さんこちら、手の鳴る方へ、案内に従って散策する果てしない夜空の迷路のようでもあった。
鋭利に光る雀よけのこの帯は、今度はむくりと起き上がって稲穂の真横から見ると、水面が電灯光に乱反射しているかのように見え、存在しないはずの真夜中の海が、そこに在るように感じるのだった。