a.o独白ブログ

詩や創作文章を公開しています、時に汚濁あり時に18禁あり、綺麗な場所ではございません、あしからず。

《創作》快楽依存症

 

注射器を手に持ち、女はどんよりとした夏の午後の部屋の中で、ただ一人、汗ばんでその内部に光を吸入させた。
色とりどりの世界の素がいかにもなプラスチック製の小さな容器の中に収まってゆくのが見えた。
「100本か200本くらい欲しいわね、1000本あったっていいわ、こんなのすぐに使い切っちゃう」
女はそう言って瞼を閉じた、私は病気だろうか、あの人も病気なのだろうか、この絶大な快楽の前では全てが無に等しかった。

 

依存症というものが生きて行く上での行為や思想全てを覆い尽くす厄介な影ならば…女はため息をついた。

 

注射器を見た、針が斜めに鋭く尖っていた。
これでは針を押し当てる表皮に傷がついてしまうので使えない。
女は台所から、女の手よりも大きい料理ばさみを探し出し、注射針の先端部分をはさみの刃の間に差し込み、柄を持つ手に力を込めた。
小さな雷鳴のような音がして注射器の針の、その先端数ミリという僅かな部分が折れた。
料理ばさみは注射器よりも強いのね、針を切ることまで出来るなんて、鉄を折ることまで出来るなんて…女はにやりと笑った。

 

斜めに尖っていた注射針が、先端部分を折ったため平行な状態になった、これならキャンバスを傷つけずに済む。
絵筆では…どんなに細い絵筆でも、面相筆と呼ばれる類いのものでも…絵の具の量を一定に保ちながら細い細いまっすぐの線を引けはしなかった。
油性ペンを使っても、絵の具の中で油性インクの黒はまだ、弱いのだった。

 

そういう訳で女は、注射器の内部に様々な色の絵の具を詰めていた、10本の注射器はあっという間に10色の、注射絵の具ペン、めいた代物に変化してテーブルの上を転がって女を見ていた。
どの注射器も待ち遠しそうに少し動いてこう言った。
「はやくはやく!楽しい事しようよ!神様の踊りを僕らに踊らせてよ」
女は微笑んで、そのうちの一本を手に取り、黒く塗られた小さなキャンバスに、筆ならぬ、注射絵の具ペンを緩やかに走らせ、稲穂を描いていった。

 

依存症というものが生きて行く上での行為や思想全てを覆い尽くす厄介な光ならば…女は息を吸い込んだ。
絵を描いている人間、詩を書いている人間、音楽を作り出している人間、意味不明の立体物を作り出している人間…要するに創作を至上の喜びとし、何から何まで創作に結びつけようとする思考の癖を持つ頭のおかしい人間共は、押し並べて皆、創作依存症と呼んでも過言ではないだろう、女は一人そう苦笑し、昨日交わした会話を思い出した。

 

「僕はセックス依存症なのかもしれない…少なくとも妻はそう言ってる、妻に僕は病気だと思われているし、僕もそうかなと思ってる」

 

褌男の電話越しのその言葉に、女はにべもなく言った。
「だから?」
女はおよそ人間というものを信用していなかった、それがまさに自分を不幸にしていると気付きながらもあれこれ用心した。
もしかするとこちらの法律上の配偶者であるM氏から、逆手を取って訴えられるの嫌さに、病気認定してもらうという策を、褌男とその女房は練ったのかも知れないと女は身構えた。
だったら私もセックス依存症ってことにしとこうかしら、そのためにあの駅のあの病院へ行こうかしらとまさに女自身が策を練りだしたその時、褌男は言った。

 

「僕はセックスが至上の喜びではないんだ、それなのにセックスのことばかり考えてしまう…僕は32歳の時に創作を止めると決めたんだ、あの時、心機一転して海外にでも行ってさ、ゼロから全てを始められたら…きっとそれが創作の代わりになったと思うんだ、でも僕はその時既に結婚していて…」
女は胃の下の腑が痛み始めるのを感じた。
褌男の人生に、幸福が抜け落ちているのをその時に知った、しかし同時に思った、女は言った。
「前にあんたが、美人を見たら声をかけないと苦しいって言ってたよね、脅迫概念みたいだって…馬鹿だなと思ったけど確かにまあ、病気かもね、でもさ」
女は続けた。

 

「その病気を治すのは、料理ばさみでチンポを切り落とすか…創作しかないってこと、あんたもわかってるよね、快楽には、死か、さもなくばもっと大きな喜びでないと太刀打ち出来ないって、わかってるよね」

 

褌男は小さく言った。
「…うん…ねえ、創作をゼロからやる時ってさ、つまり創作している最中はほとんどだと思うけど…すごく、強烈に、疲れない?」
女は黙っていた。
「あの状態はさ、本当に異常な状態だと僕は思うんだよ…異常な快楽…あやさんに会って僕、あの快楽を思い出したんだ…一人だと疲れるから離れていたけど、やっぱりあれが軸だったんだ」
女は尚も黙っていた、褌男は続けた。
「君と1年くらい一緒に生活してみたいな、本気で殴りながらセックスしたい」
女は身構えた。
「嫌よ!あんた病気なんでしょチンポの…そんな汚いチンポ思い切り踏んづけてあげる、そんなチンポ切り落として食べてあげる…でも殴らないで、あんたとそういうセックスして暮らしてたら腕の一本くらい平気でもげそう…それじゃ絵が描けないじゃない、それじゃ駄目なのよ!まだ私この世で全然描けていないんだから…絵の快楽が至上だから、そうやって生きていたいから」

 

女は話しながらますます悲しくなった、電話越しの褌男の声は灰色で、人工物を介して伝わる声音には色がつかないのだった。
褌男は何かまだ話していたが、詰まるところ褌男が依存症だろうがそうでなかろうが…褌男の人生に圧倒的な喜びが欠けていること…ただそれだけが伝わってきた。
女は電話を切って泣いた、何のための治療なのか、何のための離婚なのか、何のための…女は涙を流しながら褌男をなじった、褌男に聞こえるはずもない場所で、ただ一人泣きわめいた。

 

女は昨日のこのやり取りを思い出しながら、稲穂を描き続けた、稲穂は踊っていた、神様の踊りを踊っていた、女は創作の間は確かに神様に触れられる事を感じていた。
何も考えず手だけが霊媒のように動き続けた。
「喜びのために、幸福の為に生きているのよ」
小一時間経って女がそう呟いたとき、急に目眩がして強烈に眠くなった、確かにこの種の踊りは途方もない力を要する。
途方も無い体力、気力を要する…絵筆、めいたものを持ったのは2ヶ月ぶりだった、女は注射器を置くと自らも横になった。

 

…女は眠りに入りながら思い出していた、絵を再開した事自体が、褌男に出会ってからだった事を…女自身も長年、それこそ10年以上も絵筆を握っていなかった事を。

 

夢の中で女は巨大な教会に居て、絵筆を握っていた、絵筆と言っても極小の注射針ではなく、幅の広いペンキ用の刷毛だった。
刷毛には金色の塗料がついていた、この金色を、教会の聖歌隊席のために設けられた長い螺旋階段の、その手すりの部分に塗る作業をしていたのだった。
この黄金の手すりが完成すれば、螺旋階段を見上げたものは皆、そこにエデンの園の黄金の蛇を見るだろう…それが女の仕事だった。
女はこの教会の建設者の一人として、かれこれ10年以上も、夢の中で働いていたのだった。
夢の中の教会はひんやりとしていた、遠くから聖歌隊の唄声が聞こえた、彼等もまた夢の中での働き手だった、そうやって皆が皆、この夢に集まっているのだった。

 

「楽しい事しようよ!神様の踊りを僕らで踊ろうよ」

 

突然、女は後ろから声をかけられ振り向いた、作業着を身に纏った青年が立っていた。
独特の勘で、女はそれがセックスを意味していると察し、低い声でため息をついた。
螺旋階段の中腹で女は手を動かしていた所だった、はっきり言って一時も邪魔されたくなかった。
「エデンの園の黄金の蛇を創作すること、これこそが私にとっての神様の踊りなの、坊や、あっちへ行ってなさい」
女はそう言って声の主である青年を追い払った。

 

教会では他にも、ステンドグラスの為の工房や、壁の塗装、聖像の制作など様々な創作作業が行われていた。
女はしばらくして何かの気配を感じ、振り返った、するとそこに先ほどの青年が居て、彼もまた、教会内部を縁取る唐草模様の飾りを制作している所だった。
女は青年を見た、青年も女を見た。
二人は微笑んだ、喜びに満ちたやり取りだった。
それぞれの作業に没頭しつつも…至上の喜びを共有しているという、さらなる快楽を享受して過ごした。
まさに神様の踊りがそこで行われていた、至上の喜びが捧げられていた、夢の中の教会はそのような場所だった。

 

…女は目が覚め、手に絵筆の感触を覚えていることに気付いた、いつでも目覚めはそうだった。
誰かに会ったような気がした、いつも会っている誰かに、夢の中でいつも出会っている誰かに。
夕暮れだった、しかし空は曇天で何の色も無く冷気が漂っていた、部屋の中は灰色だった。
そして急に先ほど見た(居た、と言った方が正確かも知れない)夢の中の青年が、現実での不貞の相手である褌男のような気がした。

 

女はまた胃の下の腑が痛んだ。
褌男はああして、夢の世界で創作をし続けているのだろう…女はまた泣きそうになった。
「喜びのために、幸福の為に生きていると教えてくれたのは…私を再び絵の前に立ち上がらせてくれたのは、あんたなのに」

 

褌男が喜びでも幸福でも無い事にかまけ、さらにそれを抑える治療に気をとられて過ごすのを、そして生活を…半ば女のせいで…変えたり居心地悪く過ごしたりするのを、現実ではただ見ているしかないのだった。
褌男が女にした事は、実は不貞でもなく、セックスでもなく、絵を描く事を支えてくれたというこの一点に尽きるのだった。
それを、女は他の誰にも説明出来ないのだった、説明しようとすればするほど、女と褌男の関係は灰色に塗りつぶされてゆくのだった。

 

「私、あんたに何の恩返しも出来ないの?」

 

唯一可能な恩返しがあるとすれば、それは確かに、女自身が至上の喜びに身を任せる事だった。
絵を描く事だった、それしか褌男の喜ぶことは、実は無いのだった。
そして注射器は確かに、女にも至上の快楽をもたらした、女はまさに創作依存症だった、快楽依存症だった。
女は再び注射器を握り、圧倒的な輪舞のただ中に、神様の踊りのただ中に飛び込んだのだった。