a.o独白ブログ

詩や創作文章を公開しています、時に汚濁あり時に18禁あり、綺麗な場所ではございません、あしからず。

【詩】雷よ私を


雷よ私を、打ち砕いてください。
私は、あの人が異常だろうが正常だろうがどうでもいいのです。
あの駅のあの病院にあの人は行ったそうです、そこで異常さを取り除いてもらうそうです。
私もその異常に加担したらしいです。
あの人、病気だそうです。

 

だから何だというのでしょうか。
あの人が病気だったら何だというのでしょうか。
あの人が病気だったら、あの人の本性が病気ということでしょうか。
あの人の本性が病気ということだったら…その病気を治せというのは…少しばかり酷な話ではないでしょうか。
あの人の本性を変えろというのは、少しばかり酷な話ではないでしょうか。
他人から本性を変えろと言われるのは、酷な話ではないでしょうか。

 

だってそこには、あの人の幸福が抜け落ちているのです。

 

あの人が自分の本性に疑問があって、それが苦しみをもたらすという理由で、自分の変化を自分から望むのなら変えるべきです、治すべきなのです。
ただそこに、意味は無いのです。
病気を治す事自体に、病気に苦しむ事自体に、苦しむ行為にも治す行為にも、意味は無いのです。

 

だってそこには、根本的な幸福は常に、在る、という認識が欠落しているからです。

 

根本的な幸福は、どのような環境であれ、病気であれ、健康であれ、異常であれ正常であれ、どのような魂にも常に、在るものだからです。
だから一切の治療には…楽になるということ意外に…意味は無いのです。
本性を変化させるか、本性をそのまま野放しにするか、そのどちらにも究極的には意味は無いのです。
そこには幸福を見るという視点が抜け落ちているのです、だから無意味なのです。

 

雷よ、私は非情でしょうか。
どうか誤解しないでください。
私はあの人の幸福が、果たしてあの人に実感出来ているのか、ただそれだけを憂慮しております。
あの人の幸福をあの人が実感できる事を、私は祈っております、雷よ、私は祈っております。

 

私も昔、あの駅のあの病院へ通っていました、今日あの人が行ったのと同じ病院へ通っていました。
あの駅のあの病院は、私を眠らせる薬をくれました。
眠れるようになった私は、果たして、眠れない私と、何がどのように違うのでしょうか。
実は何も違わないのです、雷よ、私の幸福自体は変化しないのです。

 

幸福は、病気であるときとそうでないときで変化するようなものではないのです。
幸福に差異があると本当にお思いでしょうか。
私はそうは思わないのです、雷よ、幸福は雷光の如く、常に強烈に輝いております、ただそれだけのものなのです。
幸福とはただそれだけのものなのです、あの強烈な光はいつでもどこにでもあるのです。

 

病気の時は病気を治したいと思うでしょう。
それでも病気は、果たして治ることが幸福でしょうか。
私は、どちらでも幸福の度合いに変化は無いと断言します。
だって、幸福は元来、幸福でしかないからです、幸福は変化しないのです、幸福は永劫不滅なのです。
だからどのような人が幸福なのか、そうでないのか等という議論は無駄なのです。
他者の病気が治った方が善い、他者の異常さが治り正常になるのが善いという視点こそが、歪みを作り出しているのです。
そこには他者の幸福そのものへの寛容さが、抜け落ちているからです。

 

雷よ、私の声が聞こえますか、私の祈りが聞こえますか、雷よ、全ての人の幸福だけを照らしてください。

 

幸福という言葉を沢山使いましたが、不幸と幸福とにも差異はありません。
不幸は、幸福が今まさに、そこにあるのに、感じられないという状態を指すだけの言葉なのです。

 

雷よ、私を打ち砕いてください、幸福以外に気をとられている私を打ち砕いてください。
昔だったら、私は自分の異常さを打ち砕いてくださいとあなたに頼みました。
「お父さんの言うように、普通の娘のように振る舞います、壁に絵を描いたり長時間幻想の世界に入り浸ったりしません、訳のわからないものも作りません、汚い物を作ったりしません、私の異常さを正してください、私を正常にし、頭をスッキリさせ、無駄なことにかまけないように正してください」
私は異常だと言われて育ちました、異常を治すよう言われて育ちました、でも思ったのです。

 

お父さん、そこに私の幸福はありますか。
お父さん、そこにお父さんの幸福はありますか。

 

私を気持ち悪いというあなたは、私の幸福を考えていますか。
私を監視するあなたは、私の幸福を考えていますか。
私に干渉するあなたは、本当に娘の幸福を考えていますか。
本当に考えていますか。

 

本当にあの時、考えていましたか。
描いた絵を、汚い絵を、汚いという理由で沢山捨てたあの時、私の幸福を考えていましたか。
溌剌とした娘こそが正常で、異常な私に、本性を変えるよう殴ったあの日々、あまりにも長い10年、お父さん、あの時あなたに幸福はありましたか。
あの時あなたは果たして幸福でしたか。

 

異常だと思う自分がまさに今、幸福なのかどうか。
正常である自分がまさに今、幸福なのかどうか。
単に幸福が見えているかどうかだけがその人の真価です。

 

苦しみがあっても、幸福には触れられます。
今まさに不幸だと感じても、幸福には触れられます。
幸福に触れているかどうかだけがその人の真価です。

 

あの人の幸福は何でしょう。
あの人の喜びは何でしょう。
ただそれだけがあの人に重要な事です、それ以外には何の価値もないのです、何の意味も無いのです。

 

あの人の喜びを邪魔する存在が私ならば、雷よどうか、私を打ち砕いてください。
私をあの人から遠ざけてください。
もし私があの人の幸福を一緒に見る事が出来るなら、雷よどうか、私を照らしてください。

 

どうか誤解しないでください。
病気や異常さを、治したいなら好きなだけ矯正して治せばよいのです。
それで苦しみが晴れるなら是非そうすべきなのです、あの人だってそうすべきなのです。

 

ただそれは、常に存在する幸福とは、全く無関係の行為です。
私は、あの人が異常であれ、病気であれ、またはそれを治すのであれ、正常であれ、健康であれ…そのような心身の環境や状態には興味がないのです。
あの人があの人である時には、幸福だからです。
どのようなあの人でも、いいのです、あの人が幸福を見いだせるなら私も嬉しいのです。
どのような心身の環境であれ、あの人が幸福になることは可能だからです。

 

だって私は、あの人の幸福にしか興味がないのです。

 

私は非情でしょうか。
雷よ、どうか私を照らしてください、私を打ち砕き、生まれ変わらせてください。

 

私は、あの人の幸福を祈っています。
私は、あの人の幸福だけを祈っています。
私は、全ての魂の幸福だけを、祈って生きています。