a.o独白ブログ

詩や創作文章を公開しています、時に汚濁あり時に18禁あり、綺麗な場所ではございません、あしからず。

《創作》狐につままれた日

 

薄緑色に統一された巨大な建物中に男の喚き声が響き渡った、皆騒然として声の発信源である男を見ていた。
「文句があるなら警察を呼べ!」
男は尚もそう叫び、その場であぐらをかいた。

 

女はそのすぐ側を通り過ぎた、驚くべき事に、女は考え事に夢中で男が叫んでいるということ自体に気が付いていなかった。
女の目の前に居た老人が手招きしたので女は老人の側へ無意識のうちに歩いて行った。
老人は言った。
「危ないよ、そいつは危ないよ」
女は目の前の老人が呆けていて、何か目に見えない危うさについて助言してくれているらしいと解釈した…きっと認知症外来の人だわ…そして微笑んで言った。
「どうもご親切に」
老人は小さくため息をついた…こりゃあ精神外来の患者なのかもしれないな…老人は老人で女が頭の病に冒されて、この病院へ来ているように感じたのだった。
外部の事がわからないらしい女の微笑みに対し、老人はこれ以上の助言を控え、くるりと背を向け診察室への果てしない列へと戻って行き、女は老人の後ろ姿をそれとなく見送った。

 

男はあぐらの姿勢でまた叫びだした、その叫びが女にとっては唐突だったため女は転びかけた、あぐらをかいた男が叫んだらしいことに女もようやく気がついた。
しかしそれどころではなかった。
身体を傾けた女の左臀部に電流が走ったのだ、転ぶというのは死活問題だった、転倒は死に直結していた。
女は臀部を撫でながら、電流よ散れと秘かに念じる事だけに専念し、それがら立ち上がった。
振り返る余裕など無かった、そのまま緑色の手すりを伝って階段を下りると女は薄暗い地下階に辿り着いた。
地下にはほとんど人影が無かった、叫びはもとより少しの話し声もせず、死者の視線だけが女を見つめていた。

 

鉄の処女に入ってみたい、槍の無い針の無い鉄の処女に…MRIを女は心の中でそう名付けていた、針の無い鉄の処女。
悪いところがあると鉄の処女は容赦なくその箇所を突き止める、身体を切断して中の部位まで見てしまうのだ、魂の在処まで見抜いてしまうのだ。
女は恐怖に対して何処か親密な感情を抱いていた、身体を輪切りにされるのはどのような気分なのか独特な高揚感の中、椅子に座して待っていた。

 

この総合病院へ再び赴くということ自体、女にとっては一種の処罰のようなものだった。
以前ここへ来たとき、女は自分の身体の痛みに対して医師がせせら笑ったように感じた、女はただそう感じたのだ。
女独自の観点を100%言語化するのは難しいが…だからこそ、次回どのような対応をされるのか女は楽しみですらあった、その為にわざわざ検査を受けに来たようなものだ。

 

しかし全てが予想に反していた。

 

女の腹の中にある避妊具が、果たしてこの針の無い鉄の処女の眼光に耐えうるものであるかどうか問題となったのだ。
女の担当医師は笑いながら「大丈夫」と言ったが、針の無い鉄の処女の技師は断固としてその首を決して縦には振らず、女を突き返した。
よって女は、絶え間なく左右の腕が片方ずつ誰かに撫でられている気配だけを感じながら…ただこの感触を体験する為だけに地下へ降りたようなものだった…とぼとぼと地面へと戻っていった。

 

件の医師の問診だけ受けてゆけと受付で言い渡され、女はしぶしぶ診察室の列へと向かった、列は共産圏のように長かった、生きていない人間もいるように女には感じられた。
意外なほど素早く女の順番が巡ってきた、やはり生者よりも死者の数が多いらしい、女は身構えた。
さぁて、これはきっと何か厭味を言われるぞと女は思った、恐る恐る診察室のドアを開けた、針の無い鉄の処女の技師と意見を戦わせたであろう医師は、意外なことに笑っていた。

 

開口一番、女は自ら頭を下げて言った。
「いや~駄目でしたよ、避妊具があるというのでMRI検査は出来ませんでした、でも私歩けますから…前回は少し大げさに訴えてしまって、すみませんでした」
こうすることでどのような対応をされても受け流せると思ったからだった、しかし予想に反して医師は真顔で言った。

 

「痛みがあるということは少しも大げさなんかではないよ、避妊具の事は産婦人科の医師に聞いたほうがよい、MRIはこれから受ける事があると思うからね、歳をとれば、脳とか内臓とかも検査が必要になるんだ、君の場合は骨も、水がたまっていて痛みが出ているのかも知れないからね」
女はびっくりして医師を見つめた、医師は続けた。
「確かに君の骨は異常なんだ、骨自体はね…ただ、軟骨が外側へ向けて発達しているからきっと、変形する進行はかなり遅いとは思うよ」
女は医師を見つめ首を傾げた。

 

…本当に前回の医師と同一人物だろうか?…

 

医師は続けた。
「今日は検査出来なかったけど、違和感はまだあるんだろう?もし痛みが強くなったり気になったりしたらいつでも来なさい」
医師はまっすぐな笑みを女に向け、カルテ画面に何か打ち込んでいた。
…あの、前回のあなたと今日のあなた、なんか中身が違いません?…
とは、女は言わなかった、女はただ頭を下げた、床は磨かれて静かに光っていた。

 

一礼して診察室の戸を閉め、女は薄緑色に光る長い廊下をひたひたと歩いた。
人間は本当の本当には個体ではないのかもしれない、空気や光、他者の気配と混ざり合い、絶えず流動し合い、たまたま居合わせたその時にはたった一面しか見えない。
それは自分自身にも言える、だからいつも一期一会なのだ、あの瞬間のあの人を、あの瞬間の自分だと思われる何かが、小さな望遠鏡で覗いているに過ぎないのだ、対面とはこのような、極小の世界に於いての出来事に過ぎないのだ。

 

女はそうやってまた心の内側に潜り込んで歩いていた、巨大な総合病院の入り口には、尚も男があぐらをかいて座っていたが、最早外の世界は女にはよく見えなかった。
女は考え事の他にももう一つ、片腕ずつ誰かに触れられる現象(そうとしか言いようがなかった)の残滓とでもいうべきものを腕から取り払おうと、手のひらを動かす事にもまた夢中になっていた。
そういう訳で女は見事に、あぐらをかいて座して居るその男にぶつかったのだった。
女は咄嗟に飛び退いた、また左臀部に電流が走った、転倒は命取りだった、しかしそれどころではなかった。

 

「すみません!ごめんなさい!ぶつかっちゃって…大丈夫ですか?」

 

…具合が悪くなってうずくまっている患者さんなのかも知れない、そんな人に私はぶつかってしまった!…
女は夢見がちな自分の気性を責めた、踏んづけたかもしれない。
男は女を見た、女も男を見た、二人はしばらく見つめ合っていた。
女の脳裏に、数時間前にこの建物に来たときも自分のすぐ側で男があぐらをかいていたことや、何かの叫び声で転倒しかかった記憶が少しずつ呼び覚まされた。
だが幸か不幸か女は頭の回転が遅かった、それに気付くまで長い間…といっても数秒間だが…女は一点の曇りもない瞳で男を心配そうに見続けていた。

 

男は突然女から目を逸らした。
そして何やら気恥ずかしくなった様子で立ち上がり、少しの間自分の座して居た床を見つめていた、床は磨かれて静かに光っていた。
次の瞬間、男は床から目を離し、意を決した様子でほんの一瞬女を見た。
それに対し女は微笑んだ…女は内心怒鳴られるのを覚悟したのだった、病院に来ている怪我人にさらなる怪我をさせたかもしれないと女は女で後ろめたい気持ちがあった、つまり女はへつらう笑みを浮かべたに過ぎなかったのだ。
女の予想に反して男は怒鳴らなかった、そして小さく言った。
「こちらこそすみません」
男はきびすを返し、小走りで外へ去った、女は胸を撫で下ろして思った。

 

…よかった、良い人だったみたい、こちらから思い切りぶつかったのに咎めるような視線もなしに、私を許してくれたわ…

 

女はその瞬間はっとした。
彼が叫んでいた男と同一人物であるということに唐突に思い至り、呆気にとられたのだった。
…やっぱり人間は個体生物とは言い難いわね、良い人、怖い人、悪い人、そんな人はどこにも居ないのかも知れない…
今日は狐につままれたような日、何のためにここへ来たのか、誰がどんな人なのかさっぱりわからない日、女はそう小さく歌いながら薄緑色に統一された巨大な建物を後にし、どこか嬉しいような気持ちでバスに乗り込んだのだった。