a.o独白ブログ

詩や創作文章を公開しています、時に汚濁あり時に18禁あり、綺麗な場所ではございません、あしからず。

《創作》午前三時の奇跡


彼女のしようとしていた事が何なのかは僕にはよく理解出来なかったけれど、ともかく彼女は懸命に、午前三時の教会で使命を果たそうとしていた。
彼女は命綱なしで巨大な聖母子像のあの金の台座まで登っていた、僕は息を飲んで彼女を見ていた。
声をかけたら彼女は間違いなく落ちるだろうと僕は思った、暗闇の中、教会が建って以来消えたことのないという蝋燭の紅い光だけが彼女と聖母子を照らしていた。
絵の中のようだと僕は思った、聖母子像に必死でよじ登ろうとしている引っ詰め髪の女が、蝋燭の明かりに照らされて暗がりで呻いているのは…絵にはならないが、絵の中の出来事のようだと僕は思った。

 

真夜中過ぎに僕の仕事は終わる、それからこの教会までさしたる理由もなくたまに赴く、赴くと言っても夜中の教会を通り沿いからただぼうっと眺めるだけだ。
僕は何かに飢えていた、制作をやめてからの僕は何かに飢えていた、今日もそうしたいと思って教会の高い壁や針のような十字架を見ていた。
そしてふと、教会の裏庭から中を覗いた、驚くべき事に教会の扉は開き、中から小さな灯りが漏れている事に気付いた。
それがただ一人の女の握る懐中電灯の灯りだと解ったとき、僕は硬直した。

 

この女は何かを盗む気だろうか?
あるいは教会を破壊する気だろうか?

 

ともかくまともな女ではあるまい…しかしそう思えば思うほど、僕は女から目を離せなくなった。
女を邪魔したくない、だがどうしても秘かに見ていたい、そんな欲求が僕の内側で燻り、僕はとうとう柵を越え、忍び足で真夜中の教会へ入った。
昼間とはうって変わってひんやりとした空気が教会を包み、女の時折発する独り言と、何かをガザゴソと準備する音が高い天井の室内を谺していた。
告解室の壁に僕は身を潜めた、女の狙いはどうやら聖母子像らしい、この教会の目玉で数十年前に一人の大工がひとつの岩から掘り出したという。
現在ではその像にこれまた重量のありそうな金の台座が設けられ、最早聖母子像というよりも…人が仰ぎ見る形の巨大仏像に酷似した、和洋混合の謎めいた代物と化している。
ここから件の聖母子像までざっと25メートル、プールと一緒だと僕は思い、口元をほころばせた。

 

「奇跡奇跡」
女が鼻歌混じりに言った、女は何かの塗料を用意しているようだった。
「はっとするような血の色よりも、柿渋みたいな茶色のほうが現実味あるかしら?…ベネチアンレッド、クリムソン、バーント シェンナ、チョコレート色…うーん、よく混ざらないわね」

 

ステンドグラスのそばの高い窓が開いていて、そこから上弦の月が見えた。
その窓から、僕の入ってきた開いたままの入り口の扉まで風が涼やかに通り抜け、僕の鼻に、女が調合しているであろう絵の具の香りを運んできた。
僕はその瞬間強烈な懐かしさで苦しくなった…今自分が思い切って女の前に出て行き、何をしているのか、何かしているのならば自分も協力すると申し出たい衝動に駆られた。
女に、自分はあなたの同志であると言いたくて仕方がなかった、しかし我慢した、何度も躊躇ったが我慢した。
何故なら僕は純粋なものが見たかったからだ、混じりけのない純粋な色、とでも言ったらよいだろうか…女の上演する舞台に僕がのこのこと登場するなどということをこの僕自身が許せなかったのだ。

 

女は立ち上がった、理想の色が出来たらしい。
お好み焼き屋で見かけるようなプラスチックのソース入れ、それを女は袋から取り出し、そこに先ほどの絵の具を入れているようだった、女の照らす懐中電灯の灯りでその作業が映画のように浮き出て見えた。
女は懐中電灯を消した、意外だったが暗闇に目を慣らしているらしい、絵の具さえ混ざればそれでいいようだった。
ソース入れを腰に下げた小道具用ベルトに巻き付けると、女は静かに聖母子像に歩み寄った、この巨大な聖母子像の隣で赤々と小さく揺らぐ無数の蝋燭だけが女を照らしていた。

 

はじめのうち、女はどこから登ろうか考えあぐねているようだったがひとたび手をかけると金の台座に脚をかけ、息を吐いた。
それから女が登るのを僕は身を固くして見つめた、僕は告解室から顔を出し、女の一挙手一投足を文字通り見守った。
どれくらい時間が経ったろうか、女は小さく呻きながらもなんとか聖母の顔面まで辿り着いた…片足が浮いていたが女は確かに辿り着いていた。

 

女は右手で腰から絵の具の詰まったソース入れを取り出した、相当汗をかいているらしく軍手から手が(というか身体ごと)ずり落ちそうになるのを何度も阻止すべく、芋虫のように全身で蠕動運動めいた動きをして重力に逆らっていた。
こんな物体に人間がよじ登っているのを僕は今まであまり見たことがないため比較が出来ないのがもどかしいが…落ちたらまずい高さに女が居ることには間違いなかった。

 

女はソース入れを右手に持ち、聖母の目元に絵の具を垂らした。
ほどなくして聖母の両目から血の涙が流れた、それがホンモノの血であるとかないとか…そんな事はどっちだってよかった。
僕は女が無事に降りられますようにと切実な気持ちで祈った、でないとこの血の涙は正真正銘、聖母の流す苦しみの涙と化してしまう。
女は登るのは出来ても降りるのは困難な様子だった、手に持っていたソース入れを癇癪を起こした様子で投げ捨てたため、床にも女の調合した血の染みめいたものが広がる音が聞こえた。
…これでは奇跡にならないのではないかと僕は思ったが、それこそ無粋な考えのような気もした、これは偽物で、ホンモノなんだと僕は思った。

 

僕は女が難儀している間にそっと、開いたままの扉から外に出た、幸い蝋燭の灯りしかついていない上、女は今手一杯で後ろの事にまで気が回らない様子だった。
教会の扉は裏庭へと続いている、夏の虫は静かだ、振り返るとまた懐中電灯の灯りがつくのが見えた、どうやら無事に着地出来たらしい。
女は気が立っているだろうから、僕が声をかけたら叫ぶかもしれない。
そういうわけで僕は一言も発さないまま柵を越え、歩道に降り立った。
信号が青を示している、その次の信号も青、空はまだ暗い。
ここで立ったまま女を待っていようかとも思った。

 

彼女はこうして人知れず(といっても僕のように彼女を見ている人間は居るような気がする)奇跡を起こして回っているのだろうかと僕は思った。
明日、というかあと数時間後に起こるであろう実に小規模な騒動には僕は興味がなかった。
彼女の行為そのものに僕は飲まれていた、さっき見たあの光景は他の何よりも彼女自身という気がした、彼女と寝るよりもずっと、顔見知りになるよりずっと、彼女を知ってしまったような気がした。
プラスチックのソース入れ、軍手、蝋燭の灯り、絵の具の香り…僕はさっき見た光景をずっと忘れないだろう、絵のような光景を、現実離れした光景を、僕は忘れないだろう。

 

ともかく彼女は懸命に、午前三時の教会で使命を果たしたのだ。
僕はいつか自分の使命を果たすだろうか?
僕は静かに歩き出した、もしその時が来たら…偽物の奇跡を本当に作り出す彼女に、また巡り会いたいと思いながら。