a.o独白ブログ

詩や創作文章を公開しています、時に汚濁あり時に18禁あり、綺麗な場所ではございません、あしからず。

《創作》独房の歌


とある男がいた、彼は少年の頃から影を見ていた、影は、影としか言いようがなかった。

 

その男、もとい元少年は団地という名の独房に住み始めた、子供が出来たからだった、心の内側ではいつまでも移動したいと願っていた、移動を妨げる住処は彼にとってどこでも独房だった。
願いが切実になればなるほど地面からいくつもの影が生じ、その数え切れないほどの小さな腕が彼の足を掴んで動けないようにした。
元少年は叫んだ、俺を逃がしてくれ、俺を閉じ込めないでくれ、影よ消えてくれ…彼の叫び声だけが独房に谺し、彼の周りの人間は文字通り遠ざかっていった、妻を除いては。

 

元少年の妻は、彼が落ち込もうが叫ぼうが独房の壁を破壊しようがどこ吹く風といった体で歌っていた、彼女は兄弟が多かったため男の衝動性や破壊性に慣れていたのだ。
一般的な視点からは彼女が冷たいようにすら映ったろうが、長年腫れ物に触るような扱いを受けてきた元少年にはそれが心地よかった。
二人は叫び、笑い合い、一緒に菓子を食しては毎晩セックスした、独房は地獄であり楽園だった。

 

二人は独房で歌っていたのだ、独房の歌を聴きながら娘は生まれた。

 

さて、独房はいくつもの棟から成り立っていた。
連なるように人間の背丈の数倍から数十倍の白い棟がその地域一帯を覆っており、そこだけどこか異国の共産圏のような独特な雰囲気を醸し出していた。
このうちの一つの鉄製のドアの内側の洞を、元少年は選び取り入居した。
不思議なほど緑はあった、木々をここまで植えたのは設計者もまた一種の神経症に取憑かれていたのではないかと元少年は勘ぐった。
何故なら、木に直接触れると…その瞬間だけ影の声は止むのだった、影の姿は見えなくなるのだった…元少年はこれを誰にも言わなかった。

 

独房の内側に居る時、元少年は自分が身体という檻のみならず鉄のドアの檻にさらに閉じ込められ、罰を受けているように感じた。
外部のことが一切わからない…と元少年は思った。
外部のことというのが実のところ一切、何を示すのかもわからない…と元少年は思い、身震いした。
俺は何もわからないのにさらなる檻を自分でこさえてしまった…元少年はそう思い、自分の娘を見た、娘はいつでも鼻を垂らしており、同年の子らと比べても明らかに愚鈍であった。

 

娘は事あるごとに身体が痛いと言って泣き出した、夕方の子供番組の体操を真似しただけで骨が外れていた、それが連日続くのだった、有り体に言って悪夢だった。
平日は妻が、休日は元少年が娘を…といっても娘という物体に彼には思えてならなかった、娘の本体はきっとどこか外部に居るのだろうという気がした…車に乗せ、整骨院へ赴いた、もう嫌になっていた。
「こんな番組を見せなきゃいいんじゃないか?」
元少年は言った、娘という物体に身体を無理に動かさないようにさせれば、骨も外れない…妻は静かに受け入れた。
幸いにも娘は身体を動かすことそのものが億劫で、生まれて数年だというのに既に老婆のような倦怠感を見せていた、それを毎日見ていると元少年の内側で影が囁くのだった。

 

お前、この肉の塊さえこさえなければもっと泳げたのにな、どこまでも空を泳げたのにな
お前、この肉の塊の口を見てみろよ、手の先を見てみろよ、この肉の塊がこさえた落書きを見てみろよ
お前、この肉の塊がお前にとっての呪縛だってことにまだ気付かないのか?

 

影は独房のカビの生えた壁から生じていた、幾筋もの蛸のような黒い触手が元少年には見えた、囁き声もそこから生じているらしかった。
その壁をよく見ると下の方にクレヨンで脚が八本ある紅い蛸が描かれていた、蛸のそばには人間の頭が二つ生えていた、蛸と思ったそれは人間の手足だった…元少年はぞっとした。
自分たち夫婦の営みを壁に描かれた、そのことに思い至った、そして視線を感じて振り返るとそこに娘が居た。
娘は自分の鼻水を舐めながら背中をガリガリ引っ掻いてじっと元少年を見つめていた、姑に見張られているような不可解な居心地の悪さを感じ、元少年は娘から目を逸らした。
娘は元少年の反応を見てふふふと笑った、言葉は不明瞭で、鼻水で汚れた口から黒い触手が見え隠れしていた。
呪われている、俺はこいつに呪われているという確信が元少年を貫いた。

 

「自分の娘が生理的に気持ち悪い、受け付けないと言ったら…ロミ、君はどう思う」

 

元少年は妻が泣くのではないかと心配した、妻が泣くというそのことだけは何よりも避けたかった、その為になら独房に閉じ込められることも厭わないという覚悟だった。
妻は笑った、そして悲しい言葉など何も聞かなかったかのように歌い出し(実際に彼女には聞こえていなかったのかもしれない)、二人はまた毎晩のようにセックスし、二人目の子供を妻は産んだ、また娘だった。
この娘は先に生まれた娘よりも愚鈍ではなかった、何より黒い影が見当たらなかった。

 

下の娘が喋るようになり、年端も行かないうちからきちんと身なりを気にするようになっても、愚鈍な娘はごにょごにょと言葉めいたものを発するだけだった。
しかしどうやらそれが本人の倦怠感、あるいは厭世観によるものらしいことが、元少年をさらに苛立たせた。
愚鈍な娘が厭世観を持っているということを知っているのは元少年だけだった…その娘の口からはいつも影が生じていたため呂律が回らないということを知っているのも実のところ、元少年だけだった。
愚鈍な娘は毎晩黒い澱を鼻から大量に出した、ゴミ箱は一見白い紙くずで溢れているのだが、元少年には黒く蠢く幾千万の小さな影が見え隠れするのがはっきりと感じられたため、彼女の出す体液には決して触れないようにした。

 

「どうにも汚いな、あいつは」

 

元少年は汚いという現象に我慢のならない性格だった、元少年はずっと影を汚いと思ってきたし、実際の汚れに対しても憤慨した。
男児ならともかく、あろうことか自分から生じた娘が、近隣の子供らの中で一番汚く家の中を黒く汚してゆくという事が元少年には許しがたい事だった。
元少年はついこの前まで就いていた仕事を思い出した、検査技師の仕事だ、検査技師の仕事は…元少年からすれば女にでも出来る簡単な仕事だった。
やっといてと言われた物を処理する、いくつものシャーレに生じた菌、培養された生き物、他者の血液、会社に提供した自分の血液…その全てが詰まるところ廃棄すべき汚物でしかない、打ち捨てるべきシャーレでしかないとある日気付いてから、元少年の手が震えるようになった。

 

震えた手で元少年はシャーレを掴もうとした、シャーレからは既に黒い触手が幾本も伸びて嗤っていた、彼はその嗤い声に耳を塞ぎたくなるあまり彼の指は勝手に動いた。
…ああ!指をシャーレに入れてしまった!指が影に触れてしまった!…勿論指はアルコール除菌した上でゴム手袋に包まれている、指が直接触れる事はなかった…にもかかわらず元少年は悲鳴をあげシャーレを落とした。

 

その頃から元少年は机に向かうにもまず、机そのものをアルコール除菌してからといった生活をするようになっていた。
元少年には人々が何故アルコールに溺れるのか実によく理解出来た、あの水は命の水で、同時に命を絶やす水で、拭くべき物は溢れていた…ドアノブ、テーブル、トイレ、つり革、食器、箸は言うまでもない、自分の寝具にも吹きかけた、つまり世の中の全てをこの命の水で拭き取らねばならなかった、元少年の人生は忙しかった。
(今思えば彼もまた愚鈍な娘同様、意図は異なっていても…掃除夫だったのである)

 

そういうわけで元少年は一定期間両手が不自由になり、一時的に仕事を干され(その間彼がどれほど苦しんだか、よってどれほど彼の住まう独房が破壊されたかは割愛する)、その後運良く彼の得意分野である独特な言語や数字を扱う部署へと移動することになった、概念の世界を泳ぐことを彼は喜んだ。
泳ぐことを彼は喜んだ、命の水も好きだったし水道の蛇口をひねるのも好きだった、洗わねばならないものは溢れていたのだ、元少年の手はいつも洗浄によりふやけていた。

 

蛇口をひねったある日、元少年は手のひらを広げて水を受け止めたはずだった。
水は直径一センチにも満たない柱として元少年の手のひらに降り注ぐはずだった。
手にも視覚が存在することを知っているのは元少年や愚鈍な娘のような、影の発生に関わる人々だろう…元少年の手のひらは暗闇に包まれた。
直径数メートル…ちょうど元少年をすっぽりと飲み込むような影の穴が、大量の水を押し流し…あるいは吸い込み…少年を手招きしていた。
そのような光景が元少年の手のひらが水道水を受けた瞬間に「生じ」、元少年は悲鳴をあげた。

 

助けて、水にも影が居る!!…と少年は悲鳴の中に思いを込めた、呂律が回らなかったからだ。
この水で口をゆすいだことに気付き、まさに自分の口から影がわさわさと生じていることに気がついたからだった。
もんどり打って独房の洗面所の床に倒れた元少年は、自分の後ろに立つ愚鈍な娘の笑い声を聞いた、その声には悪意が含まれているように元少年には感じられた。

 

我慢はとうに限界を超えていた、次の瞬間、その肉塊を元少年は殴り、蹴り倒した、肉塊は洗面所の壁にぶち当たって醜く跳ねた。
肉塊を殴っている間、影たちは散り散りになった、ざまあ見ろと元少年は唸った。
爽快だった、少なくとも影に囁かれることも嗤われる事もなかった、肉塊に触れているにもかかわらず汚さへの恐怖心も一時的に紛れた。
愚鈍な娘は自分が殴ろうが蹴ろうが、はたまた何もせずとも勝手に泣いて勝手に笑っていたのでどちらでも同じ事のようにすら元少年には思えた。
妻の制止する声にはっとなって手を止めた、その時に自分の両手に自由が利く事を元少年は発見し、元少年は思わず笑って言った。

 

「よし!殴ることほど集中出来る動作はないぞ!これからはサンドバッグをこの部屋に置こう!殴り甲斐のあるデカい黒い影みたいなやつを!そうすれば俺は手が震えなくなる!どんな仕事でも出来る!生きていけるんだ!ロミ、俺たちずっと一緒に生きていけるんだよ!」

 

足下に転がる愚鈍な娘をまるで見えないかのような素振りで、笑顔でそう言い放つ元少年に対し、ついに彼にとって一番の悪夢が起こった…妻が泣いていたのだ。
妻の話では自分が愚鈍な娘を頻繁に殴っていたらしいが、元少年にはその間の記憶が抜け落ちているらしかった。
元少年からすれば、毎日が独房での我慢の連続だった、手が震えるほど怒りや嫌悪感を堪えている毎日だった、妻の涙で我に返った元少年は妻にあけすけに吐き出した。

 

子供が出来たから俺はここに閉じ込められているんだ、俺はいつだって空を泳いでもっともっと遠くまで行きたいんだ!
心の内側ではいつまでも移動したいと願っているんだ、俺は移動しないと影に飲まれてしまうんだ…影が見えないのか、目を凝らせば君にも影がどんなものか見えるはずだよ!信じてくれよ!本当なんだ!俺にとっては本当の事なんだ!
そしてこいつはただ汚いだけでなく俺をあざ笑っているんだと元少年は愚鈍な娘を指さして言った、俺だけが悪いと本当に君まで思うのか、俺は君と一緒に生きていたいだけなのに、その為に全て我慢して独房に閉じ込められているのにと元少年は嗚咽を漏らした。

 

俺を逃がしてくれ、俺を閉じ込めないでくれ、影よ消えてくれ…彼の叫び声だけが独房に谺し、彼の周りの人間は文字通り遠ざかっていった、妻を除いては。

 

時間、という枠組みで、客観的に物事を見るならばこれはとある神経症の男が体感した数十年前の、主観的出来事である。
ただし、時間というものが本当に実在しているのかどうかは…信じている事実により一人一人見解は異なる。
そのため現在でも時折、元少年の暮らした独房の壁からは少年の呻き声と不明瞭な子供の泣き声、そして歌声が谺し…
数え切れないほどの黒い小さな影の腕が、それを耳にした人をひしっと掴み、動けないようにするという。

 

この独房の歌は、今尚続く影の囁きでもある。