a.o独白ブログ

詩や創作文章を公開しています、時に汚濁あり時に18禁あり、綺麗な場所ではございません、あしからず。

《創作》1996年7月17日


飛行機の話がしたいわ、飛行機って私毎日見ているのよ最近、飛行機は美しいけれど…美しい物ほど怖いのよ。

 

1996年7月17日、私は飛行機に乗っていたの、今はなきアメリカの航空会社の飛行機。

 

成田空港を出発して夜の海を越えて南の島まで…飛行機の窓から星空が見えたの。
窓は、どういう理由かわからないけれど閉めろって言われていたけど、私は夕食として出された機内食を食べずに息を飲んで見てた。
本当に星の中を飛んでいるようだったから。
お母さん、すごいよ、メイも見てみなよ、お父さん、わかった、声は小さくするから…ちょっと見てみてよ。
そんな風に夜間飛行を楽しんでいたの、星空の中を飛ぶって素敵じゃない?
そして楽園へ行くのよ、天国へ行くのよ。

 

この日のために様々な節約をし、この日のために英語を予習し、この日のために…父は働いていた。
移動していない日常は父には地獄だったみたいね、父自身にも説明し難い何かが父を移動へと…旅へと常に駆り立てていたのよ。
そのためにサンドバッグは毎日殴打され、あの団地の部屋は独房みたいな空気が漂ってたわ。
父は、やっぱり刑務所で過ごしたかったのかしら?潜在的にはそういう願望があったのかしら?
快楽が苦痛により増倍するという理論で生きていた風だったから。

 

アトランタオリンピックは南の島で観たから、アトランタっていう地名そのものがまるで南の島みたいよ。
ホテルのプールはとっても深い上に紺色だから背筋が凍ったの、でも私は泳いだ…何故か泳げる気がして…そしたら本当にすいすい泳げたの!
泳ぐのが怖い私なんてもう存在しないのよ、過去の事実は在っても、過去の「気持ち」はもう存在しないのよ。
一週間以上もこの南の島に居て、三日目からさらに向こうの島のコンドミニアムへ…ああ、帰りたくないな。
私は今誰なんだろう?
私は今、今ここで私、自分が誰だかわからなくなったの、ここは天国だから、ここは天国だから、名前なんて必要ない、あるのは今だけ、今の気持ちだけ。

 

父も私もネットには触れていたけれど、携帯電話はまだ無かった。
南の島のテレビではアトランタオリンピック一色、赤銅色の陸上コースで選手たちが白い歯を見せて笑っていた。
だから知らなかったの、同じような夜の飛行機で天国に行った人たちが居たって事、知らなかったの、父は旅行先でも口酸っぱく私に教育を施してくれたわ。

 

ネットはもっと速くなってそのうち皆が見るようになるぞ、ニュースも何もかもネットの時代になる、だからお前は自分で食っていくためにネット関連の仕事に就け、パソコン関連、プログラム関連、俺のやっている仕事を覚えてもいいが…その頃にはもう俺の仕事も古くなっているだろう、ともかく情報をつかめないと生き残れないぞ、あるいは英語だな、英語が出来なきゃ話にならない、さあ、英語でお前のやりたいことを言ってみろ…おい!何で言えないんだ、あんなに教えたろう、知恵遅れめ!

 

父に怒鳴られるとようやく、自分が天国に居るのではないという自覚が芽生え、自分は駄目な奴だという気持ちになったわ、いつでもどこでも駄目な奴に切り替え可能なのだとわかったわ、父から教わったのは大方この程度のことよ。
今でもこのスイッチは作動するのよ。
脅迫概念…つまり恐怖由来の教育熱心さというものはね、綺麗な人間で居てほしいからと言って相手に無理矢理洗剤を飲ませるような事なのよ、わかるでしょう?でも誰も止められないのよ。


何故なら、この世は地獄だから。

 

逆光の父のシルエットは南の島のあの崖よりも大きい、空は不思議なほど澄み渡っていて砂は白かった、海や崖のほうがずっと大きいはずなのに父は目の前に居たから何もかもを制圧しているように見えた。
ここが天国じゃないなら、どこが天国なのかな、父の居ない場所?でも私の目玉にはもう父の影が焼き付いている。
影は人型で勝手に喋って勝手に風景の上にのしかかるのよ。
この影を追い払うには目玉の表面にナイフを当てればいいのかしら?
…と思ってお土産屋さんでナイフを買ったの、でも持ち帰るのが面倒で結局白い砂の中に埋めたわ。

 

1996年7月17日トランスワールド航空800便墜落事故。

 

とある島国の父の独房へ帰宅してから知ったの、近所の人には「夏休みが始まる少し前からアメリカの飛行機に乗って旅行する」としか言ってなかったから、死んだと思われてたわ。
アメリカ発イタリア行きの飛行機…搭乗者たちはあの映画は観たのかしら。
イタリアっていうのもまた、ひとつの天国よね。
同じように星空の中を浮遊する楽しさを味わっていたのかしら。

 

そうそう、最近毎日飛行機を見ているのよ、飛行機って美しいわよね。
でも、死ぬと魂は数字になってしまうのよ、数字になっちゃうのよ。
死者230
生存者0
こんな簡単な数字に。

 

あるいは死者3(搭乗者2 地上1)
飛行機って家に落ちてきたりするのね、勿論落ちて欲しくなんかない、いくら美しくても無理よ、この家だって美しいんだから。
今飛行機を描きたい気持ちがあるの、でも今この地域で私がセスナ機を描いたら…それってなんだか、死を本当の数字みたいに思っている人間みたいかしら…。
でもただ不謹慎だと言うにはちょっと…美しすぎるのよ、佇んでるあの飛行機を私は毎日横目で盗み見るのよ、ああ今日も綺麗だなって、女を盗み見る男みたいに。

 

そしてこうも思うの、私が描くものや書く事は、どこかから降ってきた記憶の断片のようなものと、現実の記憶とが入り混じって出来た「何か」なのよ。
…だとしたら私が今体感しているこの現実も、どこかから降ってきた断片と、何処か私の観測し得ない場に於いての、さらなる私の現実の記憶とが入り混じって出来た「何か」に過ぎないのではないかって。
…だとしたら飛行機事故というものも…その「何か」なのだろうなって、より大きな場に於いての…創作のような何かなのかしらって思うの。
私の生命同様、全く同じ日に命を散らした人たちも…私たち全部が全部、創作物なのかしらって。

 

ねえ、私は今、本当に生きているのかしら?
最近影を見ないの、父の逆光を見ないの、怒鳴り声も聞こえない、ここはもう天国なのよね、ナイフは南の島に埋めてきてよかった、私もう何処かへ行く必要がないの。
ここが天国だという認識は私個人的主観によるものよ、ここは天国なの、それ以外言いようがないわ。

 

個人的主観、個人的真実。
私が生きてこうして書いているということ自体が、より大きな視点を持つ私自身の創作であるなら…
私はもう死んでいてもおかしくはないわね。
墜落したのが成田発、ノースウエスト航空ハワイ行き、乗務員乗客合わせ搭乗者230だったとしても何の不思議もないわ、アトランタオリンピックを控えたあの日…どっちだって同じ事だったのよ。
そして死者230の中に込められた230たちがそれぞれに、個々の世界では生きて、今尚人生を続けていたとしたって何の不思議もないわ。

 

だってそうでしょう?
誰が自分自身の現実を証明出来るというの。
…ほらね、飛行機って美しいけれど怖いでしょう。

 

乗客1

 

この、座席に固定され上空を舞う1が果たして生存者なのか、死者なのか、あるいは死んだ事によりさらなる自我が目覚めた生者なのか。
そんなこと、この世の誰にも分りはしないのよ。
だから画面の端にね、飛行機を描きたいの、それが生きているっていう事だから、死んでるかも知れないってことだから、それが天国に居るっていうことだから。