a.o独白ブログ

詩や創作文章を公開しています、時に汚濁あり時に18禁あり、綺麗な場所ではございません、あしからず。

《創作》水中秘話


小さな銀器に一度沸かした水を注ぎ、朝靄の中、女は手を合わせた。
銀器はコップを半分にしたような大きさで、祈りを捧げるときにだけ使用する小さい器だった、それが祭壇にちょこんと置かれていた。
祭壇には水を入れるための銀器とランプと、その銀器の台座である平べったく小さい一枚岩が置かれていた、祭壇自体は木で出来ていた。
鳥の声意外の物音はしなかった。
毎朝そうやって祈りを捧げていた女だったが、祈りそのものについては他人には一切語らなかった。

 

女が手を合わせると女自身の額からその瞬間、色や形が飛び出し、銀器の水の内側へ落ちて溶けていった。
形状は毎日異なっていた、同じ日など無いのだから当たり前と言えば当たり前だった。
女の額から出でた「何か」が水面に弾け、しゅわっと音を立てて水の内側、あるいは外側へと進んで行くとき、女は小さく手を振った。
稀に溶けきらずに、銀器の淵まで上がってきて沢山の足をばたつかせるものもあった。
そのような時、女は静かにそれを指で押してやるのだった。

 

「つまり祈りというよりも何かを生み出して旅をさせてるのか」

 

手を合わせた銀器の方から声がして女は身を固くした。
額から出でた何かが水にしゅわっと弾けてこの世から遠ざかって行く音意外、この時間は鳥の声しか響かない。
女は目を閉じ、額で銀器の水鏡を見た、そこには血の気の失せた男の顔が浮いていた。
サロメの盆に載せられた預言者ヨハネの生首みたいね、と女は思った、あなたは私の額から出た幻ではないのね、水鏡の向こう側から来たのね、と女は語りかけた。

 

「歌が聞こえたので来てみたのだが誰も歌っていないようだな」

 

銀器から生えた男の生首は口を動かしていたが、女にはよく聞き取れなかった。
生首の口だけが動き、何か言っているようだったが決して苦しみや哀しみ、怒りや呪いといった類いの言葉ではないようだった。
でも不思議ね、今まで銀器を超える大きさのものは出現しなかった、女は首を傾げた。
今まではね、小さい小さい毛玉みたいなものしかここを行き来しなかったのよ、あなたはどこから来たの?女は尋ねた。

 

「向こうで沢山、お前自身が踊っているよ、歌に合わせて、焚き火の周りで」

 

すると生首はすぽっと銀器の水鏡の内側へ落ちて行った、女は目を瞑ったまま背を伸ばし、銀器に触れ、水に指を浸けた。
水の中で指を泳がせ、手のひら全体を入れ、ひらひらと泳がせた、次に手首まで入れ、腕まで入れ、とうとう右肩まで、小さな銀器の中に入ってしまった。
女は目を開けなかった、そのまま顔を水面に近づけ、頭まですっぽりと水の中へ入り、左腕も同様に入れた。
女の上半身はまさに水の世界に在った、今、目を開けてしまったら上半身と下半身が引き離され、大変なことになると思った女は目を閉じたまま辺りを見渡した。
水中で見えたもの…それはエメラルドグリーンの空と、くすんだ道路標識、点在する家々だった。

 

「おいで」

 

そう囁かれたような気がして女はたまらなくなって足を蹴った、遂に女の全身が水中世界へと入り込んだのである、目は瞑ったままだった。
瞼を通じて見える世界に女は惹かれた、今や魚となりながら女は水の底の街を泳いだ、鐘の音が聞こえた、見覚えのある田舎の里だった、どうやらダムの底らしい。
…あそこに村役場があって、その向こうにお寺、お寺とは一応柵で分けられているけれどお寺の裏の山肌に神社があって、そこに山の神様が奉られている。
山の神様へ参るには女の場合、供物を携えて行けば良い、そうすれば熊は出ないって。
女は勝手知ったる様子で泳ぎ回った、家々を、目を瞑ったまま見下ろしながら泳ぐのは爽快だった、女の他にも魚が居た、生首だけの魚がこちらを見て手招きするように頷いた。

 

「人造湖はいつも翡翠色だ、これは自然発生する水の生物が少ないからこうなるんだ、ここはね、実に不自然な水たまりだよ」

 

女は泳ぎながら生首に聞いた、私はいまどんな姿をしているの?
答えは無かった。
女は泳ぎながら生首に聞いた、私はいま心地よいと思っているわ、空まで泳げそうよ。
答えは無かった。
女は泳ぎながら生首に聞いた、あなたここで、山の神様に身体を持っていかれたのかしら?
答えは無かった。
神社へ行きたいと女は生まれて初めて思った、ここは覚えている、強烈な懐かしさで女は泣きそうになっていた、こんな事は今まで女の身に起こったことがなかった、しかし携えてゆくべき供物が見当たらなかった。

 

「私を持って行くといい、私を供物にするといい、これは二人だけの秘密にしよう、水中の秘話に」

 

でもあなた、それじゃああなたはずっと山の神様に食べられたままだわ、女はおずおずと言った。
しかし心の内側では望郷の思いがこみ上げ、声は震えていた。
生首は微笑んでいた、預言者ヨハネもこんな風に笑ったろうか、女は生首を抱えながら水中の里を飛び、杉の木のそばの紅い鳥居まで来た。
不思議なほど鳥居はそのままの色をして女を迎え出でた、女がここへ来ることを待っていたみたいに、朱色は祝賀の色、万事を祝う色。
鳥居をくぐり、女は石畳に沿って漂った、木々は水中に耐えきれず葉を落とし、よく見ると山肌は丸裸になっていた。
女は呟いた、やっぱりこの場所は死後の世界なんだわ…ねえ私、私ここに居てもいい?
女は囁いた、あなたは杉の木を飾る縄、あなたの髪は木々の葉、あなたの髭は死んでいった魚たちの鱗、あなたの目は夜空に光る月、あなたの歯は家々の瓦、あなたを讃えるわ、あなたの美しさを私はこの水中で秘かに愛でているのよ。

 

「お前自身が山の神様になる方法が一つだけある」

 

生首は女の腕の中から少し浮きあがり、女の唇のすぐそばで囁いた。
女は震えた、それは女が女自身ではなくなるということを示しているのだ。
しかし尋ねずにはいられなかった…どんな方法なの?

 

「簡単だよ、そのまま泳いでいって水面から顔を出すんだ、そして目を…開ければいい、その途端にお前の身体はばらばらになって、自宅とこの場所との間にも多数散らばるだろう、お前はここで首だけになってぷかぷか浮かぶんだよ…それが私と一緒になる方法だ」

 

あなたはそうやって死んだの?
祈りの最中に別の場所へ行ってしまって、そこで身体を呼び起こしたからちぎれてしまったの?
あなたの手足や胴体はどこに居るの?
別の場所をいまだにさまよっているのかしら?
女は問うたが、答えは無かった。
代わりに生首は女の唇に冷たい唇を押し当てた。

 

「このことは水中の秘話にしよう、さあ、私を供物にするんだ、私は泳ぎ疲れた、本当に長い間泳いでいたんだ、もう眠りたい」

 

女は生首を神社の境内に置き、静かに手を合わせた。
すると水の中に火が浮き上がった、それは見る間に大きくなり、ひとつの焚き火となった。
焚き火の周りでは色とりどりの毛玉のようなものが踊り廻っていた。
きっと私の祈りは、数多の水中へ飛んでいるのね…女は小さく呟いて、それから歌った、歌は女自身が歌うのだと女はその時理解した。
そして頭上を見上げると流れ星のようなものがすっと、光の帯を纏って通り過ぎた。
女は思わず目を擦り、目を開けてしまった。

 

女は辺りを見回した、自宅だった、自宅の祭壇の前で女は手を合わせていた。
小さな銀器に、一度沸かした水が注がれて、静かに波打っていた。
銀器はコップを半分にしたような大きさで、祈りを捧げるときにだけ使用する小さい器だった、それが祭壇にちょこんと置かれているのが見えた。
祭壇には水を入れるための銀器とランプと、その銀器の台座である平べったく小さい一枚岩が置かれていた。
鳥の声意外の物音はしなかった。

 

明くる日も、その次の日も毎朝そうやって祈りを捧げていた女だったが…水中での秘話…祈りそのものについて、女は相変わらず他人に、一切語る事は無かった。