a.o独白ブログ

詩や創作文章を公開しています、時に汚濁あり時に18禁あり、綺麗な場所ではございません、あしからず。

《創作》最後の一人から最初の一人に

 

最後の一個をくれる最初の一人を篤く尊敬しているのです、手持ちの最後の一粒を恵んでくれる最初の人を尊敬しているのです、最後の一個というのは物ではないのです。

 

最後の一個とはその人自らが、最後の一人と自発的に目を合わせてくれる事なのです。
私は受け身でしたから、独特のやり方で最後の一人になっていました。
皆がはぐれないように自分から輪を脱するというやり方で一人になっていました、それで周囲の環境を手助けしているという気分に浸っていました。

 

人間というのは個体でありながら一人きりを何より厭う不思議な生き物です。
(実のところ人間は個体生物ではないのかもしれません)
誰かと手を繋いでいないと心が折れてしまう、誰かと手を繋いでいないと人間として欠けた状態になってしまうと信じ込んでいるのです。
眠っているときには夜空を飛んで、別の生体として昼間では考えつかない場所で目覚めているというのに、それを忘れているのです。
私も同様に忘れているのです、だから受け身でありながら出来る最後の行いとして、自らが最後の一人に成るという事に殉じ、それを義としていました。
自分だけが知る自己満足の義に、私は本当に幼い子供の頃から酔いしれていました。

 

私はいつも片隅に居ました。
私がそうしていることで誰かがあぶれずに安心するのならそれで良いと思っていました。
子供時代、公園で皆で遊んでいるときに年上の少女がふらりとやってくることがありました。
彼女はいつもハイチュウを一本…あの歯にくっつく美味しいキャンディを持っていました、新しい味をいつも携えて年下の子供たちの所へ頻繁に来るのです。
皆がそれとはなしに一粒ずつハイチュウをもらうとき、私は皆の後ろに居ました、皆、最後の一人にはなりたくないのです。
さて、最後の一人である私の番が巡ってきます。
風に揺れるブランコ、ジャングルジムの剥げた紅い塗装や鉄の匂い、雨水を含んだ砂場の土の匂い、触るとかぶれる草…それらの物質の表面を、ふわりふわりと、皆の口で溶ける甘いキャンディの香りが公園に広がっています。
その香りを嗅ぎながら私は、彼女の正論を毎回聞きました。

 

「これは最後の一個だから、あなたにはあげられない、私の分が無くなっちゃうから、ごめんね」

 

私は私で、この言葉を聞くためにハイチュウの列に加わっていたようなものでした。
子供ながら実にマゾヒスティックな快楽に身を委ね、泣いたり駄々をこねたりすることもなく彼女の言葉に頷き、彼女が最後の一粒を口に含むのを唾液を飲み込んで見ていました。

 

今日のハイチュウは何味なの?と同級の子たちに笑顔で聞くのが関の山の私にとって、万事が万事このように進みましたので、言うまでもなく私もどんどんひねくれ、内向的で受け身な人間になってゆきました。
…確かに私は最後の一人、口に甘さを含まないで居ることに快楽を見いだしていました。
しかしこの種の自己満足的な快楽には心を打つ部分が無いのです。
その年上の少女の言う正論にも心を打つ部分が無いのです。
正論だけでは心が動かないのです、自分は自分、他人は他人、それだけでは誰一人感動しないのです、少なくとも最後の一人であるところの私はいつも冷めていました。
いつのまにか自己犠牲の甘美さは薄れ、私は全てに飽き飽きした子供になっていました。

 

もし誰かが、誰か一人でも、たった一回でも、今日はあなたにあげると言ってハイチュウをくれたら…きっとあのキャンディはその分だけ増えたことでしょう。
幼い子供同士の遊び場での話ですから、噛んで半分にしてわけてもらったとしても、その分だけ増えたことでしょう。
誰一人そうはしなかったし、一度もそのような場面には出くわさなかったし、私も自分自身が受け取らないという事に美学を感じ心を閉ざしていました。
そういうわけであの場所では…
私の子供時代には…

 

感動は起こらなかったのです。
奇跡は起こらなかったのです。

 

イエスキリストが聴衆にパンや魚を配って、その食物が聴衆のぶんだけ増えたのも、きっと聴衆の側も誰一人として「自分は最後の一人であるので空腹に耐える」などという馬鹿げた自己満足に身を委ねたりしなかったからでしょう。
日本の昔話である笠地蔵のお話、あれも最後の一体の地蔵に貧しい老人が自分の持ち物をわけてやります、すると地蔵が宝物を持ってやってくるという筋書きです。
宝物はどこから湧き出でたのでしょうか?
宝物は、どこからともなく湧き出でたのだと私は思うのです。
物質は不可思議な性質を帯びていて、本当の数というのは誰にも把握出来ないのです。
心が動いたとき、物質も動くのです、数字も動くのです。

 

実際、あまりにも長い間最後の一人を演じたがために、どのように自発的に振る舞えばよいのかを私はきれいさっぱり忘れてしまいました。
受け身である期間が、この個体に於いては長すぎたのです、どうやったら心が動くのか忘れてしまったのです。
目を合わせてくれる誰かを待ちすぎたのです。

 

もう誰も世界に居ないのだ、そう思ったとき…私の内面に焦点を当て、目を合わせてくれる人が居ました。
たった一人…ではありません、何人か居たのです、何人も居たのです。
だから私は最後の一人であるところの私に目を合わせてくれる誰かに、その都度宝物を生み出し、その都度見せる事にしました。
宝物は一つではなく、確かにその都度増えているのです。
絵は私にとっての宝物です。
絵は体内の奥深くの洞窟に記されたおぞましい元素記号のようなものです、それを吐き出して作り上げて行くのです。
同時に、誰かにとってはゴミなのです、誰かにとっては呪いなのです、価値は幻です。
数字も幻です、本当はいくらでも増える幻なのです。

 

私は今、生まれて数十年経ってようやく、最後の一人から最初の一人に成ろうとしているのです。