a.o個人ブログ

詩や創作文章、祈りについての考察を個人的に公開しています。

《創作》影たちの囁き声

 

影たちの囁き声が果たしてどこまで届くのか、筆者はまだ知らない。

 

鈍色をした影たちの声は至る所で谺しているという。
稀に影たちの話し声を鮮明に聞くことの出来る者が居たが、彼等にとって影たちの囁き声は、影たちの姿がはっきりと見えない分、見張られているような独特の緊張感を強いられるだけで、わかり合えたり友情を深めるといった事例は筆者の知る限り無い。
影たちは大抵、球状の鉄の塊の内部や洞窟の奥に身を潜めている、影たちは木々を厭い、土や金属、時に体内を好むらしい。
その為耳朶の奥や膣の奥にまで影たちが入り込んでいる場合があり、そのように体内に入り込んだ影を出すのは並大抵のことではない…そう専門家は言った、だが彼等は彼等で影たちの声を聞くことも、その姿を見ることも叶わない様子である。
影たちは影たちにしか理解し得ない理由で、影たちを追い回す者どもの前には姿を現さないらしい。

 

北海道までの道のりを電車に揺られながら少年はうたた寝をしていた、そこに影が囁いた、そんな話を筆者は耳にした。
「誰も君を理解しない、君も知っているだろうけど、この宇宙の中で誰も君を理解しない、わかっているね?」
その影がどうしてそのような非情な物言いをしたのかは、無論筆者にも不明である、少年は目を開け、周囲を見回した。
「君は見張られている、君は網走まで行って刑務所を見る、君は浅はかだ、縁ある場所として刑務所を選ぶなんて君は本当に浅はかだ」
少年は周囲を見回した、空耳、わかってる、落ち着け落ち着けと自分をなだめた、隣に座る身なりのよい老紳士がちらりと少年を見た。

 

「ずた袋に死体を入れたろう、カラスを沢山沢山殺しただろう、首縊りの刑を喜んで手伝ったのは他ならぬ君だよ」

 

その時だった、少年の右肩に何やら非常に大きな男の手が触れた。
少年は飛び上がって右肩を見た、鈍色のもやのようなものだけを少年は感じた、影だ、と少年は直感した。
少年の右肩にずしりと置かれた見えない5本の指が、ゆっくりと肩に食い込んでいた。
「もう助からないな、君はある女に呪われている、刑務所に自ら赴くのもそのせいさ」
少年は必死で息を殺して耐えた…影としか言いようのない存在に少年は耐えた…時間にして5分ほどだったろうか。
北海道までの規則正しい線路の揺れ、窓の外の夕暮れ、いつの間にか呪縛は解け、影は消えていた。

 

その5分間で少年の世界は一変したらしい。

 

網走刑務所を見るという一人旅が、何者かに常に見張られながら「遂行せねばらなない」任務のような色合いを帯びたのだ。
最早心底行きたくないと少年は思った、だが老紳士も少年を見ているようだし、少年は自分以外に心の通じる相手などこの世に存在しないという確信めいた気持ちに参っていた。

 

筆者はその後少年が影たちとどのように関係を築いたのか、または隷属するしか道が無かったのか、一切聞き出すことが出来なかった。
老齢の、元少年はうだるような暑さがコンクリートに蓄積された団地の一室で、筆者に対し声を潜めて言った。

 

「影たちは今も俺を監視している、さっき話したように俺はある女に呪われているらしい、その女から俺の本性がばらされ、影の声の話も秘密でなくなったら、影たちは俺を許さないだろう、遂に俺は殺される」

 

老齢の元少年は額の汗を拭った、彼の隣では彼の妻が「そうだねえ影は怖いねえフフフ」と同調とも失笑とも言えぬ態度で季節外れのリンゴを剥いていた。
部屋にはどういう訳か家具の類いが無く、独房の色合いを帯びていた。
彼等夫婦は一年ごとに住処を変えるらしい、だから家具の類いはなるべく持たないようにしていると元少年が絞り出すように言った。
それは一体何故なのかと問うたが、筆者の問い方がまずく彼等の機嫌を損ねてしまったようで、夫婦は二人して押し黙り、流しや浴室、押し入れといった部屋の隅を互いにチラチラと見て、次に何を言うべきか思案している様子だった。
彼等には影の姿が見えるのだろうかと唐突に筆者が思ったその時、彼等が言葉を発した。

 

「結構沢山来るようになったからねえ、そろそろねえ…」

 

どちらともなくそう言うと、その言葉は空中で鈍色に弾け「そろそろ帰れ」という命令に見事に変化し筆者に迫ってきた。
その為筆者は、団地特有の刑務所めいた分厚い鉄のドアを開け帰路につくより他無かった。

 

影たちの囁き声が果たしてどこまで届くのか、筆者はまだ知らない。